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求めよ、さらば与えられん

ずっともどかしく絡まって私を重たくしてきたことの正体が、最近するり、するりと見えてきている。

「それ」があることで私の心と体はたびたび動作不良におちいってきた。その動作不良によって「それ」は更に幾重にも衣をまとったから、まずはその衣を脱ぐのに毎回時間がかかった。そのプロセスは「北風と太陽」のお話のようで、脱げとばかりに対症療法をとっても結局周期的に、いつの間にか重たい衣をまとっていた。

衣には「恐れ」も含まれているだろう。何か、自分の能力では把握しきれない外界からの働きかけやそれとの相互作用への恐れ。彼女は怖かったから、萎縮してきゅっと固く閉じてしまうのは簡単だった。

だから陽の光で温めて、じわじわと、脱いでも大丈夫、ということを体自身に感知させることが必要だった。それには、人に頼る小さな体験を積み重ねること、衣食住・特に食べものを整えること、書くことで自分の心の中を可視化することが含まれていた。今振り返ってみると。

そしてようやく「それ」を理解できる素地が整ってきたとこの頃感じている。というか、戻ってきたのだ。もともと持っている処理能力が上に挙げたようなもろもろの要因で長らく阻害されてきた。阻害されるままにしていた。わたしは無抵抗で戦略を知らなかった。そう、知らなかったのだ。

わたしは「知る」ことで克服できると感じていた。ドナ・ウィリアムズが自身の自閉症を大学で学び「知る」ことで克服する助けとし、それ以前に人の助けを得て彼女の特性への周囲の無理解がもたらした二次的な精神障害を克服したように。

私は今、大学で特別支援教育と発達障害について学んでいる。教職に就いて現場で学習に困難を抱える生徒と接する中で、上手く彼らをサポートできず一斉教育で受験英語というバイブルにのっとって教えることに疑問を感じていた。そこで学び始めた発達障害の知識が、結局は自分自身と周囲を理解するための望遠鏡であり顕微鏡として働くのを、現在目の当たりにしている。

感覚過敏への環境調整、同時処理優勢型と継次処理優勢型などの脳の特性、長所で短所を補うこと、感情のコントロールとそれを表現する言葉を与える手助けをすること、そしてできない状態を「許し」観察し待つこと。

現在最も興味深く読んでいるのが、ジョン・エルダー・ロビンソン著『変わり者でいこう―あるアスペルガー者の冒険』だ。アスペルガーを持つ男性が自らの経験・観察・分析と知識の蓄積で「収集してきた」ともいえるライフスキルを豊富なリンクと共に語っている。

私は彼の分類でいえば「ややアスペルガー型」にひっかかるかどうか位だと思うが、「ありふれ型」はこう考えている、という記述に「そうだったのか!」と目を丸くする部分もあり、「フツウノ人」がどう考え行動しているのかを理解する助けになっている(ピロリロリ~ン←宇宙語)。

そして一番の収穫は夫の理解に役立っていることだ。これはまた別の機会に書きたいと思うが、彼の理解不能な行動に悪気がなかったんだなということが本の三分の一を読み進んだ今何となくわかってきた。

だからと言って、夫婦で心が通じ合えないのは辛い(ミラーニューロンが少ないらしい)。

でもじゃあこの人たちは、私を含めて何で地球で生を受けたのだろう?


そんなことを想いながら、今日も師走の一日を全うしようという朝です。

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