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ヘレン・ケラーと外国語学習

 新しい言語を身に付けたことがあるでしょうか?

 ええ、皆さん必ずあるでしょう。母国語を身に付けた時のことです。

 周囲の人の口から出されているぺちゃくちゃには意味があることが分かり、その意味とそれが表す対象が直感的に理解される。言葉と呼ばれるそれらは自分の複雑な心の働きも表象し紡ぎ出して人々にそれを伝えることができる――!

 …なんて言語化して、しかもそれに驚きを理解をする2歳児や3歳児はいないでしょう。だって、そのプロセスはあまりにもゆっくりで自然に、行われるから。

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 でも、その言語獲得プロセスにバリアがあったとしたら
 それを乗り越えるための意図的な努力や時間の投資が必要でしょう。ただ、その分そのハードルを乗り越えた時の喜びはひとしおだと、思うのです。

 言語獲得プロセスのバリアの一つは、言語を音素レベルで統合する脳の器質的な要因や、そもそも音を認識する聴覚的要因におけるものです。つまり、言語獲得における器質的な障害です。もしこれがあったとしたら、【言語という表象】と【実際の意味・実物】の間にバリアができ、従って両者の距離を縮めるための努力を、それらに障害がない場合に比べて多く費やす必要があるでしょう。

言語獲得における器質的な障害がある場合
【言語という表象】――― ― ― ― ―/―/―【実際の意味・実物】
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  <感覚として入って来る情報に制限があるので両者が結びつきにくい>

 もう一つのバリアは、その言語の言語漬け(イマージョン)環境が不十分で生存への重要度が低い場合、つまり外国語学習です。その音素の組み合わせと意味が結びつくのに十分な例がその言語が話されている環境で生活する母語話者と比べて絶対的に不足してしまうから、音と意味の組み合わせが脳にインプットされにくい。そもそも、音素の組み合わせ自体、意味を成すものとして認識されない。

 ある程度長じてから外国語学習をする場合はなおさらで、これは効率的にある特定の言語を学習し理解したい脳が、一定年齢になると母国語以外の音の組み合わせを締め出してしまうという特性があるからだそうです。それが生存に代表される何か重要な必要性を持ち得ない限り。

外国語学習の場合
【言語という表象】―   -    -    -    -   -   -   -    -  ―【実際の意味・実物】
\                     /
<例と重要性の不足で結びつきにくい>

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 だけれど、それらの障害を越えて【言語という表象】と【実際の意味・実物】が結びつく瞬間が、ある。そしてその瞬間はビッグバンのように脳内で何かが弾けるように言語が生き生きと理解される。それが長じてから外国語学習をする一番の面白みだと、思うのです。

 外国語学習のその甘露を想うとき、私はいつもヘレン・ケラーを思い出します。確か小学校の国語の教科書で読んだサリバン先生とヘレンの話、皆さんも読んだことがあると思います。

 ヘレンの場合、言語を聴覚的に理解することができなかっただけではなく、言語が具体的に表す物体を「見て」認識することも叶わなかったため、言語の存在すら「認識」することが難しかったでしょう。そして、その自分が置かれている環境が分からず、自分の思いを外の世界へ伝える術すら知らなかった彼女の内的世界を思うと、文字通り暗闇に居るような気持ちだったことでしょう。幼い彼女がそれをかんしゃくでしか表現する手段を持たなかったことは、想像に余りある程、辛い。

 その彼女が「水」という単語と実際の「水」という概念を獲得した瞬間は、いかばかりの感激だっただろう、と思わずにはいられません。まるで、自分の内側の世界と外側の世界に、橋がかかったような、瞬間だったであろう、と想像するのです。言語を形の上では操作できてはいたものの、それが自閉的傾向のせいか、発達が恐ろしくゆっくりだったせいか、つい最近まで、自分の内面を十分に表す手段としてはうまく機能しなかった私にとって、それは共感せずにはいられない瞬間なのです。

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 そして、外国語学習の虜としても。

 私は、海外旅行や外国とはほとんど縁のないような環境で12まで育ち、多くの皆さんと同じように中学校1年生から英語を学習し始めました。最初は、五教科の一つとして、次第に、音を身に付ける喜びにほだされ、NHKのラジオ英会話を毎日、ただ15分聴いて、繰り返しました。それがチャンスを産んで、17の時に奨学金を得て初めての海外となる3週間のアメリカ学生キャンプに参加させてもらい、そこで「英語が自分の思考の表現手段となる」瞬間のビッグバンを体験しました。

 その瞬間は、それまでやってきたことが実を結んだような、生きていてよかった、家族も周りの人もありがとう、と思えるような、たぶん私の山あり谷ありの人生において、幸福な瞬間ベストワンに輝き続けています。

 そうして今、その喜びに一人でも多くの人に触れて欲しくて、英語を教えることを仕事としている。そして、その瞬間をまた味わいたくて、インド映画好きの趣味も高じに高じて、ヒンディー語学習をしています。細く、長く、ロングランで、一つ、一つが理解される瞬間を待っている。

 そして、ヒンディー語に触れ始めて5年、小さな小宇宙が弾ける瞬間がぽつ、ぽつと出てきて、その度にこの上ない幸せを味わっています。

 あなたも、「WATER」の瞬間を味わいませんか?

 ぜひ、ご一緒に^^



 



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