【発達障害とHSP】ラベリングの功罪・わたしはどうして診断を求めるのか

「HSPブームの今を問う」という表題で、飯村周平先生という発達心理学が専門の博士(心理学)の方の記事が紹介されており、興味深く読みました。

「HSP」は(本当に!)良く聞くところとなったけれど、そこまで医学的タームではないのだろうな、という感じがしていて(どうなんだろう?)、でも教えている高校生にもその用語は広まっていたり市民権を得てきているのを感じてもいて、不思議な概念だなという印象でした。

上記記事では、感覚処理の感受性が比較的高い人のことを、「HSPである」と呼んでいる傾向がある、と指摘し、「感覚処理感受性」は次の三つで捉えられている、と述べています。

①遺伝子的なマーカー(感受性遺伝子型)をゲノム単位で測る
②神経生理学的なマーカーを偏桃体などの脳領域の賦活化によって測る
③気質的なマーカーを、行動レベルの観察等から測る

その上で、③の気質について、次の特徴を挙げています。

感覚処理感受性が高い人の特徴には、環境刺激に対する(1)深い認知的処理、(2)圧倒されやすさ、(3)情動的・共感的な反応の高まり、(4)気づきやすさ、が挙げられています。

(ちなみに「圧倒されやすさ」はきっと、原語である英語の「overwhealmingness」なんだろうな、これを日本語に適格に訳すの難しいけれど、本当に環境や状況がoverwhealmingなことってあるんだよな、と思いながら読む)

これで思い出したのが、スーザン・ケイン『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力』(2013,講談社)です。2021年の初春にこれを読んで「偏桃体が興奮しやすく外界の刺激に一般群よりも脆弱なグループの人がいる」という純・器質的な外界刺激に対する「圧倒されやすさ」が、誰のせいでもなく、ましてや自分のせいでもない、ということを知って、私はこれでいいのだ、と思えたことは、今年のわたしの行動力に一つの推進力を加えています。(もしくは、推進力を削ぐ「押しの弱く動作のゆっくりな自分にがっかりする」という要因を、精神的に絶大に減らしています。)

上記記事で飯村周平先生も触れていらっしゃるように、「感覚処理感受性が強い」ことイコール「生きづらさ」、のように解釈されがちですが、それは適切な見方ではありません。感受性の強さがプラスにはたらく環境もあれば、そうでもない環境もあり、要は環境とのマッチングなのです。こうした感受性の強さにしろ、他の身体的特性や性格等々、ヒトに個体差がありそれぞれの程度がグラデーション、つまりスペクトラムになっているのは、多様な環境に適応するための、ヒトという生物の生存戦略なのでしょう。

ただ、と一言言わせてほしい。

現代のメジャーな社会の仕組みにあって、感覚処理感受性が強いことそのほか、そうした体制に従順にそぐえない個体特性は、生きにくさに直結するように感じています。言ってみれば、「発達障害」と呼ばれているような一連の特性だって、ごくごくシンプルにすると「人の期待するように行動する」ことがしにくい性格をもっていて、それが今の社会の大枠に都合がわるいから「障害」なんて呼んじゃっているのでは、と思うのです。広げてみれば、ほかの障害だってそうです。それが不都合な状況さえ当然とみなされていなければ、合わせることが当然、でなければ、多くの障害と呼ばれていることは障害ではなくなるのだろう、と、感じます。

自分自身のことを振り返ると、わたしはいつも、一生懸命、教えられたことを、求められたことを、こなそうとしてきました。学生時代もそうで、それはどうにかなったものの、社会人になったらいくら言われたようにやろうとしても、スピードが追い付かず、大枠にハマれず、お金の収支が合わず、残業しても徹夜しても追いつかず、最初のうつになりました。憧れていた職場だったから、なおさらです。自分がダメなんだろう、ってずっと思ってきた。人生の半分以上思ってきて、ようやくここ五年ぐらいで凹んでいる部分も含めて自分であり、それも含めて美しいのだと、認められるようになった。

でも、まだお薬に頼らないと、今の「社会」に適応するようには、機能しない。そのことはときどき、わたしを悲しくさせる。

通院にだって時間を要するし、診察を受けてお薬をもらったらお金が結構かかるし、

この不適応の代償をどうしてわたしが払わなければいけないのか?

って腹が立つのです。言われた通りにやったよ。どうして?出来る限り、がんばったし、がんばってきたのに、どうして…!?って、思って止まないときが、たまに、来るのです。


感覚処理感受性の強さにしろ、発達障害と名のつく状態にしろ、誰かが精いっぱい頑張っても報われないのは、そこに見えない天井があるから。そして、その天井を作り出しているのは、他ならない社会制度だ、って思うのです。

社会的弱者を生み出し続ける制度とそれを許し続ける政治は、悪政であり、それはちゃんと正さなくちゃいけない。そうしないのは怠慢だよ。

だから、必要なラベリングはもらい、それに対する社会的保障を受けて然るべきだと思う。程度の差に応じて、時代によって受けた傷によって、そうした保障を授けることが可能な制度を為政者には模索していただきたいし、そういう人をわれわれ市民は小さな力を撚り集めて、選んでいく社会集団でありたい。

だから、わたしはラベリングを求める。

発達障害でもHSPでも何でもいい。私がちゃんと頑張って生きてきたのに、それに答えられず蹴落とされるような社会は、そうして、助けを得て完全に回復したら、自分から変えてやるんだから。

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