リニアな時間を生きるか、サーキュラーな時間を生きるか
『坂の上の雲』という司馬遼太郎の近代歴史小説を新聞広告か何かで見て、ああそうなのだ、明治以降われわれ日本人はそうした憧れという点に向けてひた走りに走ってきたのだ、と感じたのは十代の中頃だった。
「坂の上の雲」を目指していた、というのは決して過去のことではなく、今までも漠然と成長を目指していた。少なくともマスでメジャーな大枠では。ローマクラブが70年代に『成長の限界』の報告書を出し、21世紀になって持続可能な社会の構築がいくら提唱されようとも、人類の総和として「坂の上の雲」をどこか目指していたところがあったように思う。
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リニアとサーキュラーという概念をはっきりと理解したのは、留学先の夏期語学講座のドクター・ルイスの講義だった。レスリー・M・シルコ―の『CEREMONY』という、大戦後のアメリカを生きる原住民の子孫が差別や偏見により自分達のアイデンティティを崩落させてゆき、しかし己が根差して来た文化や儀式の中に再生の光をみる小説を、購読していた。
ドクター・ルイスは黒板に右肩上がりの矢印を引っ張り「リニア」(liner)を、矢印を環状に循環させ円を描き「サーキュラー」(circular)を、説明した。そしてリニアとサーキュラーと、時間の概念について温かい私見を交えて解説した。
「現代文明はリニアに、つまり直線的に時間を捉えているけれども、("CEREMONY"の主人公である)タイヨーが根差して来たようなネイティブアメリカンの文化では、時間をサーキュラー、つまり円として捉えていたそうなんだ。終わりも始まりもない、円として。
そこでは生が始まりではないから死も終わりではない。莫大な成長を見込まないが、環境を含めた周囲との相互作用の中で自分の生という一つの円が完結する」
この話は19のわたしの心に深く、残った。
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【理性のことば】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
あなたの時間は、リニアでしょうか、サーキュラーでしょうか。
きっとグレーゾーンの方も多いでしょう(笑)ものごとは0か1かでは割り切れないのが常。わたしも自分の発達特性がグレーゾーンであるように、時間間隔ももれなくグレーです。でもリニアな自分8、サーキュラーと信じたい自分2、で、顕在的にはリニアが優勢です。
翻って、ものごとは思ったよりもサーキュラーなんじゃないか、と思ったのが、この話を書いたきっかけです。
コロナちゃんのリニアな感染源をトラックしようと思っても、説明のつかない飛躍的な動きをするように見えます。クラスター形成も、まるで同心円上のホットスポットが所所に点在するようなイメージを描く。ましてコロナちゃん自身も、円環の姿をしている。
リニアからサーキュラーへの回帰
われわれはここへきて、サーキュラーな社会・サーキュラーな経済に戻るように促されているよう。しかも 5.0 的に。
それに伴って、ネイティブアメリカンの時間感覚がそうであったように、サーキュラーな時間感覚を養いなおす必要がありそうです。
何せわたしたちの受けてきた教育は、既存の枠組みの中で上向きに目指せる点へ、いかに効率よく最短距離のベクトルという弓矢を飛ばせるか、その技巧を伸ばすものだったのだから!
しかしながら身にしみついたリニアな時間感覚を、どうやったらサーキュラーにプログラムし直せるのか。
そのヒントをある英書の中に見つけ、わたしは今、翻訳を進めています。こちらの note でも翻訳の過程を共有しながら、二年以内に出版します。
少し気の多い「忘れ物女王」であり「先延ばし帝王」の私の、
時間感覚の改革。
初めての本の翻訳と、出版という出産しごと。
どうぞ、応援してくださいね!
Satomi Scarlett こと 小畑 知未
April 10, 2020
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