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晴知花 写真展『遊泳』(再訪)

写真そのものとだけ、向き合う事にして再訪。
予定を整理して、見る写真展を歯応えのある物二つだけに絞る。

日の暮れ方、早稲田へ。
客の引いた時間帯に、文字情報抜きにして写真そのものと向き合う。

制服ポートレート
水中
セルフポートレート

の3種で構成。
制服ポートレートは 佐藤おと。
水中の分はどちらだか判然としない。

水中撮影分については、苦労と試行錯誤の跡は見えて、意図したものに近いものが出来ているようには感じた。 写真として美しい。
しかし、心象を表すものとしては分かりにくい。

水の中での藻掻きの徒労感、水面はあるにはあるが、そこから顔を出しても安息は得られない、果てしない息苦しさを表現しようとしたことは、説明を聞けば分かるが、初会に読んだ、写真に添えられた文章からは伝わらない。
言葉にしない方が、漠然とした不安、恐怖、息苦しさが、感覚として伝わったのではないかと思う。
美しいからこそ感じられる、負の感情。

セルフポートレートは、肌の質感や色味を或る程度整えたものの中に、一点だけ「敢えて整えていない物」が混じる。
下腿部の、脛の外側の部分。
毛穴まで描写して、薄っすらと残る自傷痕

他の写真と同じように整えると消えてしまうからなのかもしれないが、一点だけ風合いが異なり、それを大きく見せている作為が、視覚的に感じる棘のようなものとして不快感を生ぜしめる。

詰めが甘いのではなく、割り切れていない、向き合えていない。
身体的なものではなく、心にあるものとしての傷が癒えていない。
自傷行為がそうであったように、それをあからさまに見せる事を止められない。

写真にするには、まだ早かったのかもしれない。
それ以外のセルフポートレートは、良く撮れていた。

制服を着せて学校で撮った3点。
これは大過去を引いた目で見て描けているからか、落ち着いた視点と、練られた構図。

心持ち顎を前に出し、ブラウスの第一ボタンを外し、リボンタイを緩めた、汗ばむ首元をアップで切り取ったもの。

屋上と思しき場所に置いた椅子の上に立ち尽くしたもの。

教室の後ろの方の席。
ひとり座る女生徒の膝から下が、机の下から覗く。
倦怠を表すように、爪先を立てた右足の足首が外側に曲がる。
他に誰も居ない、教室の一と齣。

青山裕企の撮る「スクールガール・コンプレックス」の記号化された少女の対極にある、生の人間としての少女がそこに在った。

男子の目線とフィルターを通したものと、それが介在しないものとで写り方が変わるのは当然だが、それ以上にフラットではない感情が乗っている事で、写る少女から発せられる体温、湿り気、息遣いなども込められたものになっている。

師から何かを受け継ぎ、そのままではなく、自分なりに消化して表現できている。
この3点は実に良かった。

文字情報は写真を理解するための助けにもなるが、言葉の強さが写真の見方を制限する事も有り、それが重なると鬱陶しくもなり、写真展としての流れを阻害する要因にもなり得る。
裏を返して「文字情報抜き」で見てみたが、私はこちらの方が写真と向き合いやすかった。

もう一つ、流れを阻害する要因として、机の配置がある。
順路の末端を机で塞ぐことにより、循環が阻害される。最後の一枚を見た人の逃げ場がなく、滞留が生じる。

記帳台としてだけでなく、写真集の受付の為にも使われているので、事務作業が始まると対応に人が入る。こうなると奥の数枚を見る為の待ち時間が必要になる。
待てない、待ちたくない人は、見てくれない。

主観が強すぎて「こう見せたい」が「こう見たい筈」「こう見えている筈」に変換されてしまっているので、こうなる。

暗め、重めの写真も多い中、希望の持てる写真で纏めて、最後の一枚を心持ち高めに飾る事で、見終えて顔を上げて終われる構成など、考えられている部分はあるのに、生かし切れていない。

青山裕企は写真そのものだけでなく、写真展の空間設計にも長けているのだけれど、この点については、アシスタント経験者に受け継がれていないように思われる。

(2023.10.29 記)

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