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第14回 立川志ら玉の会

ハコとしても興味のあった、高田馬場の寄席「ばばん場」での開催。
自転車転がして行ってみた。

駅からは少し離れた神田川の向こう側だが、歩いて苦にならない距離で且つ分かりにく過ぎない。
都電の面影橋もしくは学習院下も歩いて行ける距離。

昭和の雑居ビルの三階だが、エレベーター無しの階段のみ。
階段には広めの踊り場があり、一と息はつける。
1階と2階は卓球道場的施設。

一段高くなった高座は幕無し。
客席は学校の椅子(身長165cm用)に薄いクッション一枚。
尻は痛いが長時間座る訳でもないので我慢は出来る。

客入れは小泉今日子。 寓意は聞きそびれた。

「初天神」立川のの一
「夕立勘五郎」立川志ら玉
「夕立勘五郎 さんばら辰の駆けつけ」東家一太郎(曲師:東家美)
中入り
「鰍沢」立川志ら玉

開口一番は志ら乃門下の一番弟子。
「初天神」は「寄合酒」と並んで「よく掛かるが嫌いな演目」なのだけれど、食い物を粗末にする不潔な描写が端折られており、感心した。
(これは師匠譲りなのか、当人の工夫なのか)
こまっちゃくれた金坊より、父親の子供っぽさ可愛らしさの造形に重きが置かれており、ストレスなく聞ける。
少年の声は野沢雅子や田中真弓、緒方恵美で育った人々が世の中の多数を占める時代、落語の担い手が女性でも、殊更男っぽく誇張したり、女性性を前に出したりしなければ違和感は無い。(噺にもよるが)

落語の方の夕立勘五郎。
わけの分からない人と、それに巻き込まれる人。
不条理劇の中の、吐き捨てるようなボヤキの面白さに見る「志ら玉落語」らしさ。
物語の中の「町内の蕎麦屋の二階に出来た寄席」と言う状況設定が、語られている雑居ビルの卓球道場の上にある寄席に被るのがまた可笑しい。
広沢虎造の遠い親戚、信州の在はヘッコロ谷の生まれと言う赤沢熊造先生の訛りが東北のようで中部のようで東海のようで、リアリズムから離れた鵺的なものであるのは、特定の何処というのではない、概念としての「田舎」を漠然と表しているのだろう。
節回しもリアリズムに寄せず「~の体で」くらいの仄めかし。
軽い根多だが、寄席で間に挟まった出番で空気を換えられる一席。

浪曲の方の夕立勘五郎。
曲師の音合わせがオーバーチュアとなって気分も盛り上がる。
(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band のイントロの感じ)
カラッと明るい乱暴者がやる無茶の数々で留飲を下げる、侠客物の精華。
冷静に見ると実に非道いのだけれど、バカ負けして笑ってしまう。
今の小松川あたりにあった逆井の渡し(中川)で馬を乗り捨てるのだけれど、その手前の今井の渡し(江戸川)はどうしたのだろうと言うのはありつつ、まぁ細けぇ事はどうでも良くなる話ではある。
当世風の派手なものでは無く、ケレンの無いしみじみ聴いて浸れる節回しを堪能。

中入りを挟んで「鰍沢」。
圓喬の逸話から夏に演るイメージがあったが、そもそも厳冬期の噺であり、先入観抜きにすれば季節に合った選択。
鄙には稀な乙な年増。 
恬淡と運命を受け入れているようでいて、欲望の炎は熾火の様に眠っており、ふとした切っ掛けで燃え上がる。
意図しないところまで燃え広がって、ダメ男のダメさ加減に見切りを付ける居直りの美しさ。
登場する男は総じて間抜けである。

大スペクタクルのお仕舞いとしては拍子抜けの下げ。
昔話の結語のような「これでおしまい」のものとして、妙にこねくり回したようなものより、私は好きだ。

次回は両国亭での開催とのこと。
年二回で、あちらとこちらと。

(2024.03.10 記)

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