創作活動という地獄、売れる売れない等諸問題

創作活動は難しい。何かを生み出すという行為自体は勿論のこと、カルチャーになるならない等の諸問題も付き纏う。

よく耳にするのは「あのアイドルが好きだから売れてほしいけど、決して有名になって欲しくはない」といった半ば自己中心的で消費者本意な願いだ。この願いは矛盾していると言えよう。しかし私自身、どちらの立場でもあるので前者後者どちらの願いにも共感できる。たしかに、活動を続けるにはある一定以上売れなければいけない。それで生計を立てるのであれば尚のこと。しかし、アーティストの中にはインディーでサブカルチャー的な立ち位置にいる人達も少なくない。むしろ其の要素が相まって作品が完成されたりもすると思う。だからこそ、有名になって飛ぶように売れてしまうと、そうなれば最早其のアーティストはインディーで我らの秘密基地的な立ち位置でも何でもなく、大衆受けでカルチャー的な存在になってしまうのだ。

これに於いては、様々な事情が絡み合う。そう単純明快な問題ではないのだ。発信者と消費者の間には双方の立場上どうしても目線にギャップが生じる。発信者は体のよいことを滔々と述べるが、本心では少なからず自身のことが頭にある。というか其れしか眼中に無いと言っても過言では無い。気がする。逆に消費者は発信者の一挙手一投足にすら目を光らせ、何か失言を発すれば揚げ足を取り、スキャンダルがあれば失望したなどと抜かす。世間で謂れる「メンヘラ」のような行動に出たりもする。結局は互いに自分の保身というものがあって、自分さえ満足できれば好い、そんな姿勢を感じ取ることができる。

昨今のエンタメというものは、些か浅いように感じられる。浅はかな音楽を垂れ流し、軽薄な映像を呆けながら目にすることで、些か「エモーショナル」な感覚を得る。「最近の曲なんかゴミみたいなものしかない」などと言っているオジサンになどなりたくはないが、たしかに大きな動きで見れば徐々にエンタメをはじめ、社会全体的な事象の解像度の水準は下がりつつあるように感じる。時代の流れだ、と言い捨てられれば其れ迄なのやもしれないが、私はこの社会の流れは決して良いとは言えないと思う。
意識の変革が必要である、とは言っても何をすれば好いのやら果てさてわからんだろうから、云々かんぬん長ったらしく講釈を垂れてみようと思う。

とにかく頭を使うべきである。社会の一時のムーブメントに呑まれていないか、流されていないか、常に内なる自分に問いかける。その結果として自身の意思でそのコンテンツを好くなら其れは結構。
浅薄な流行は花のように儚いが故凋んだ後長期的に大衆に記憶される(「あの頃は良かった」の感覚に近い?)が、其れはもっとも社会全体での同調圧力的なものに他ならず、より刹那的に生きていくのであればその時花(はやり)とやらに抗い続けるしかないであろう。しかし、それで偏執的になるのは却って悪手になると云えよう。ここで求められるのは、固定されているようで流動的、『現代思想入門(千葉雅也 著)』から言葉を拝借するならば「仮固定」の状態にある能力だ。うーむ。(私の頭の引き出しが少ないため)言語化が極めて難しい。なんと表現するべきなのだろうか。フワフワゆらゆらとしているようで何処かドッシリと構えている、そんなイメージではある。上手い喩えが見当たらない。
極端な話になるが、「どうでもいい」で済む話な気もする。

時花(はやり)であろうがマイノリティなムーブメントであろうが「どうでもいい」。自分の好きなものは好きなもので、それ以外は見聴きするし面白いと思うけれどある一定以上の興味はないけどいざ調べて見たら案外ハマったりもする。それで好いのではないか。


さて、ここ迄消費者目線の事情をつらつらと書き綴って来た訳だがここからは発信者目線で少しまた講釈を垂れさせていただこう。

これら諸問題はどうしても各々の活動生命に関わってくるのでそう簡単には言い捨てられない。
そうは言っても何を云えるかだなんて、もはや「バランスを模索し続けて臨機応変に適応していくべき」くらいしかないだろう。ただ、パワーバランスにだけは気を配らねばならない。発信者:消費者=7:3(せめて6:4程度)くらいが良いのではないか。あくまでも発信者は消費者を選ぶことができる。自分がコンテンツを"発信"しているので其の方針を決めていく権利がある。ただ、其れが活動継続のための資金(活動費は勿論、生きていく為の諸経費も含む)になるくらいお金が入るかはまた別問題で、これがなかなか悩み苦しむところだと思う。わかりやすい例を挙げよう。
「一次創作で稼ぎたいけれどなかなか売れないだろうから、最初は知名度が伸びやすい二次創作から始めよう」
これ以上にわかりやすい例が浮かばない。
たしかに二次創作も人を選ぶと言えば選ぶだろう。作品やシチュエーションといった要素が絡んでくるからだ。だが、一次創作は其処から更に消費者をふるいにかける。元となるコミュニティ(作品)が存在しないし、新たな荒野を開拓することになる。



まあ結局は運の要素が強いのだろう。
これに尽きる。無責任ですまんな。

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