馴れ合いタコ

私はクリスマスが嫌いだ。1年でいちばん惨めになる日だからだ。それは何も「クリぼっち」だ「リア充むかつく」だとかそういった理由からではない。これは恋人がいても同じことである。
私にとってはなんてことない1日で、特別重大な日でもないけれど、世の中の人々が、みな恋人や家族、大切な人を連れて街中に幸せをまき散らしながら過ごしている。このことが私の生きてきた26年間を全て否定しこの世界のどこにも居場所がない様に感じさせる。恋人がいたってとりわけこの日にこだわって時間を作ったり、贈り物を送りあったり、そういうやり取りを大切にする様なタイプの恋人は今まで付き合ってきた人の中にはいなかった。なんならそういった体で他の女と会っていたのかもしれないが、もうそんなことは確かめる術もないし今となっては特に知りたいとも思わない。
加えてこの日は私の誕生日が近い。世の中のクリスマスが12月24.25日で盛り上がりを見せるなか、私の誕生日は12月27日である。誕生日、クリスマスが一緒になるのは常の事だし、なんなら誕生日があるからクリスマスはなし、そんなことももちろん当たり前に行われてきた。私にとっては誕生日がクリスマスと一緒だろうが誕生日があるからクリスマスが無しだろうがもうどうでもいいことなのだが、いつもいつもすべてが一緒になってごっちゃになって、祝われているのがクリスマスなのか自分の誕生日なのかそれともどちらも祝われていないのか、わからなくなってしまう。だから私の中には誕生日を特別に祝ってもらったという記憶は残っていない。これは非常に残念なことで、過去に私の誕生日にあった出来事を、祝ってくれたのかもしれない友達、恋人、家族のことを私はあまりはっきりと覚えていない。
だから私は自分の誕生日の存在と、クリスマスを行うということと、何の意味も感じられないのである。自分にとって何も感じられない日でも世間は残酷だ、『誕生日とはその人が生まれてきた大切な日』、『クリスマスは大切な人たちと残り少ないその年を過ごす特別な日』そんな価値観をメディアや学校教育で植えつけられる。だから自分ではどうでもいいと思っていても、祝福されない自分には価値がない人間なんだな、という思いが内側からではなく外側から湧き上がる。親には祝われず、ドラマやアニメでよく見る<友達を呼んで誕生会をする>なんてことをいちどもしたことがない。さすがに、両親には祝福されたことがあるのだろうが、クリスマスの延長線、年末のドタバタ等もあってか、記憶には残っていない。
もし幼いころにこのようなことを行うような人物であったなら、今とは全く違った人生を歩んでいただろう。
そしてなんと、今年の12月は24日が土曜日で、25日が日曜日という最悪のカレンダー並びであり、加えて23日の祝日が金曜日という最悪の3連休であった。
毎年(恋人がいても)仕事を入れてクリスマスを避けて通ってきていたにもかかわらず、2016年12月23日クリスマスイヴイヴに友達との待ち合わせに駅ビルを使ってしまったばっかりに、私は人々のキラキラに中てられて参ってしまったのである。
嫌なことは重なるもので、3日前から連絡途絶えていた恋人は何も言わずに地元に戻ってきているし、去年の年末もつらい思いをしたことを思い出してしまった。
毎年毎年この時期を迎えるたびにバランスを失う。感情は抑えられないしどうしようも伝えることができない。
毎日が単調な何の変哲もない日々で、世間に強要されることなく祝ったり贈ったりできればいいのにとさえ思う。
しかしとりわけ理想あるというわけではないのだ。
(tumblrから引越20161223)

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