「サイレンと犀」に寄せて/吉田奈波

話は変わって今年の夏は暑くなさそう
あい変わらず季節に敏感にいたい
東京/くるり(作詞・作曲/岸田繁)

空気の汚れた都会の方が、塵一つないアフリカの空よりも、夕焼けの色はきれいらしい。空気中の塵などに光が反射しやすいからだそうだ。十四歳の頃の私はそれを聞いて嬉しくなった。私の見ている空は間違いじゃなかった、美しいと感じてよいものだったのだ、と。中途半端な都会で暮らす後ろめたさがそこにはあった。
当時の私は、大人になりたくなかった。とにかく十五歳になりたくなかった。本気で時間よ止まれと願っていたし、十五歳、十六歳と老けていく自分を想像するだけで、叫んで走り出したくなる衝動に襲われていた。中二病、自意識過剰と言われればそれまでである。が、本人にとっては自分の中の牙城を揺るがす大事件であったのだ。
私が一番恐れていたのは、感受性を失ってゆくことだった。ビルの隙間から見える夕焼けの色、車の排気ガスのにおいをすり抜けて一瞬鼻に届く季節のにおい、アスファルトの隙間から生えてきた草、スーパーの帰りの夕暮れの色、そんなものを十四歳の私の感受性は百倍、二百倍もの「すてきなもの」として自分の中に還元し、味わうことができた。それを失うのが怖すぎた。都会の夕焼けをきれいと思う心を手放したくなかった。そしてあの頃の私は、姿かたちこそこの世のものを成していたものの、魂は別のところにあると信じて疑っていなかったように思う。それは雲の上のような、一日中ピンク色の夕焼けにみたされているような、不可侵で神聖な場所だった。自分が塾にいようが、ドラッグストアにいようが、学校にいようが、イオンにいようが、友達と恋バナをしていようが、私はいつもそこから離れたくなくて、それゆえに現実世界との違和を感じていたものだった。
そのころ常に極限まで張りつめていた感受性のアンテナのおかげで、私は今でも十四歳の自分のいる風景を鮮明に思い描くことができる。当時気になっていた男の子の住んでいた地域にあったイオンにかかる夕焼けの美しさを、純粋に美しいと感じていた。新築の、有機溶剤のにおいのする塾から見た、世界の終わりみたいな夕焼けも忘れはしない。青白い蛍光灯に照らされて、友達とテストの点を見せあった光景も、深夜の住宅街を駆け抜ける送迎バスで聴いた音楽も、すべて原風景として、私の心をいつまでも彩る。

ラッセンの絵の質感の夕焼けにイオンモールが同化してゆく
夕焼けにイオンモールが染まっててちょっと方舟みたいに見えた
塾とドラッグストアと家族葬館が同じにおいの光を放つ

この歌を初め読んだとき、自分の中に閉じ込めていた風景が息を吹き返すように蘇ってきて驚いた。作者と私は居住地が近いので、思い描いたのは同じイオンかもしれない。しかしイオンなんて見た目こそどこも同じである。塾も、ドラッグストアも、家族葬館も、基本的にどこも同じようなものだろう。きっと、私のように、青春の思い出が蛍光灯に照らされた塾のプラスチック机に刻まれている若者なんてごまんといるのだ。初めてのデートは地元のイオン、家族総出の買い物はドラッグストア、人生の終わりは無機質な家族葬館で、それはマイルドヤンキーでもなんでもない、現代に生きる一般的な日本人の原風景となりつつある。ふるさと、と聞いて思い出すのは、田んぼでもなく野山でもなく、イオンモールと国道沿いのフードチェーンだ。家族の思い出、人生の節目のすべてに有機溶剤の匂いが伴っていようとも、その人生は誰の手によっても価値判断の天秤にかけられることはない、人ひとりの人生であり、命である。
しかしギリギリのところで作者は魂をそこへ沈めない。誰もがなんの疑問も持たず享受しているそれらの風景に対して、微かな違和感を見逃さず、常に捕捉し、可視化し続ける。

きれいな言葉を使ってきれいにしたような町できれいにぼくは育った
一軒で何でも揃うコンビニをはしごして揃えるマイランチ
ユニクロの部屋着のままでユニクロへ行きよそいきのユニクロを買う

作者は世の中から一ミリ浮いた視点で世の中を俯瞰する。しかしそこには批判や揶揄の視点は含まれていない。私はこの歌集のもつニュートラルな雰囲気はそこに由来すると思っている。作者は世の中の違和感を見逃さず、それでいてまるごと受け容れ、肯定し続けているのだ。いろんな生き方があっていいのだ、時代は絶えず移り変わってゆくんだから。表紙に描かれた色とりどりの旗や動物たちも一緒になって、そう優しく語りかけてくるようである。本の帯としては珍しい、つるっとした白色も、すべてをフラットな視点で見つめ、本質を暴く作者の姿勢の象徴のようだ。
私がかつて持っていた十四歳の感受性のような、いやもっと鋭くエッジィな感受性を日常的に発揮しながら、作者は世の中をひそかに楽しんでいるように見える。微かに感じる、その違和感さえもまるごと。

においから先に世界は立ちこめてそれから雨が降るときは夜
そうだとは知らずに乗った地下鉄が外へ出てゆく瞬間がすき
散髪の帰りの道で会う風が風のなかではいちばん好きだ

この歌集にドラマチックな恋愛や、大きなイベントは出てこない。作者は、このスタンスで生きるぞ、とかつて決めた先にある日常を淡々と過ごしている。その日常の連続性、淡白さにより浮かび上がる微かな違和感は、滋味深い味わいとなって生活を彩りもする。感受性の鋭さは、ときに見えなくてもよいものを可視化するため、自分を傷つける道具にもなりうるが、一方で思いがけない幸福感を与えてくれるものでもある。作者の感受性の鋭さは、その両方のベクトルに大きく振れている。だからだろう、大きな衝撃もなく、無機質な訳でもなく、読後感は至って爽やかだ。そして、一つ一つの歌に忘れたくない気持ちが真空パックのように閉じこめられている。忘れたくないから何度も開く。
ああそうだった、これだこれ。私はこの歌集を通して久々に十四歳の私と出会う。十四歳最後の夜、泣いてまで萎んでゆくことを惜しんだ感受性のかたまりに触れられることができる。そして私は十四歳の私に教えたくなる。こういうことを忘れることが大人になることじゃないんだよ、こういう気持ちを持っていながらも、きみは大人になれるんだ、だから嘆かないで。きみの持つ、心の奥のやわらかい場所は守られたまま大人になれるから。しかもこうやって、短歌という形でまた出会えることもできるから。
私たちが生きているのは、ツイッターでありライブハウスでありイオンモールでありグーグルのストリートビューに遍く監視された世界だけれど、誰の心にも不可侵で神聖な領域がある。永遠の夕暮れをひとつ、皆が心の中に持っている。それでいいんだと、この歌集はすべてをかけて教えてくれた。

きみという葡萄畑の夕暮れにたった一人の農夫でいたい


執筆者:吉田奈波/ななみーぬ

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