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生産性オタクをやめる

先日、書店でとある本を読んでおり、そこで「生産性オタク」という言葉が出てきました。とにかく、限られた時間の中で、あらゆるタスクを詰め込んで、やり遂げようとする人。そのために、ポモドーロテクニック(集中する時間と休憩時間を繰り返す)を使ったり、一日の予定を15分ごとに区切ったり。

そのほかにも、生産性オタクの行動一式や特徴がずらっと書いてありました。客観的にみると、行き過ぎて滑稽な気すらしてきます。ですが、私は「まさに、私のことだ」と苦笑するほかありませんでした。私は数年前にその傾向に気がつきはじめ、嫌気がさし、なんとか改めたいと思い続けてはいました。

振り返ってみると、この生産性オタクは、高校時代からはじまった気がします。中学3年の冬に急きょ、他県に引っ越すことになり、全く予定していなかった高校に入った私は、入学初日に「早く卒業したい」と指折り数えていました。友だちも少しはいましたが、それでも青春とはほど遠く「なんだか馴染めないな」と思いつつ、ひたすら勉強に打ち込みました。よい成績をとることだけが正しいことだと信じ、勉強に自分の存在価値を見出していたのだと思います。

そういう心持ちでは、当然よい成績に結びつく行動だけをしようとし、それ以外をするときは罪悪感でいっぱいになりました。

湯船にジップロックに入れた日本史のプリントを持ち込む、自転車通学の信号待ちでポケットに入れた単語帳をさっと開く、ご飯でもお風呂でもつねに時計を気にして、なるべく最短で終わらせようとする。

今考えると強迫観念的でしたが、必死の甲斐あり、志望した大学に合格しました。

大学入学後は、よい成績を取る必要はなくなりましたし、高校時代に勉強にとらわれ過ぎて勿体なかったとも思い、勉強至上主義ではなくなりました。それでも「効率的に生産的に」「何か意味のあることをしなければ」「成長し続けなければ」という意識は、そう簡単には抜けません。英語学習、ボランティア、留学、その他○○プログラム…。なかには、自分が本当にやりたかったこともありますし、そうでなくてもどれも楽しい経験になりました。

ただ、厄介なのは、高校時代にあった「成績」という、努力の結果得られるはっきりとした対価がなくなり、「本当にこれをやって正解なのだろうか」「自分が目指したい方向性に今向かっているのだろうか」とつねに、自分の行動を疑うようにもなったということです。

つまり、生産性にくわえ疑心暗鬼にもとらわれるようになりました。

もちろん、成績という指標から卒業した後には、お金や地位といった社会的に価値があると思われているものを求めることもできます。ただ、私はそうはしたくなかった。社会から定められた評価軸に見向きもしない、とまではいかないですが、それを第一にはしたくありません。

私が大切にしたいものは、本や音楽、料理、大切な人、自然、創造性…です。これまで私が出会ってきた、心から素敵だと思えるものは、むしろ社会の評価軸から離れた人や場所によって、生み出されたものたちでした。

それを理解しているのに、いまだに生産性や効率性、社会の評価軸にとらわれてしまう。この矛盾に、特にここ数か月のあいだ振り回されています。いっそのこと、以前のように「一般に正しいとされていること」をなるべく無駄なく、ひたすらにやり続ければいいのかもしれません。

ただ、そこで得られるのは一瞬の自己満足だけで、いつか振り返ったときに「なんてつまらない人間になったんだ」と愕然とするのだと思います。だから、今はぐっと踏みとどまり、きちんと矛盾に向き合っていきたいと過ごす毎日です。

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