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なぜ「同い年」「日本人」「男性」に緊張するのか

私は基本的に、誰に対しても話すよりも聞く方が断然好きで得意だ。最近はだいぶ話すことも楽しめるようになってきたけれど、それでもまだ同い年(ため口)の日本男性と会話することは得意ではない。

この三大要素、「同じ年齢」「日本の人」「男性」が揃うというのがミソだ。

大学生の時に、女の子の友達から「○○(私)ちゃんって、△△くんと話すとき、なんかのけ反ってるよね~」と言われたことまである。この△△くんは私が当時気になっていた男の子で、最も緊張する相手だった。そんなことを知らない友達でさえ、私が緊張のあまりのけ反っているのが目視で分かるとは。どこまで反り返っていたのだろう。

そのような中で、日本を出て日本人以外とも多く関わるようになって、なぜ私が同い年の日本男性に緊張するのかが分かってきた。

それは、「同じ日本人であるがゆえに、相手が同年代の女の子にどういう要素を求めるのか、好むのか、その基準が分かっているから」、そして「無意識のうちにそれに合わせようとしてしまう自分がいるから」ということだった。

(これは日本の男性に非があるわけでは全くないし、そもそも日本男性と一括りにすること自体、本当は良くないことを断っておく。)

たとえば、「常に笑顔で優しくて、素直で可愛い『女の子』」というのが男性が求める「一般的」な理想像だろう。私ももちろん、そういう子はきっと素敵だろうなと想像できる。

ただ、私自身がそうなることにはどうしても違和感を覚えてしまうのだ。笑顔が素敵で優しい「人」にはなれても「女の子」にはなれないし、なりたくない。

そう思っているのに、いざ「三大要素」を目の前にすると、気がつかないうちに「そういう女の子」に寄っていっている自分がいる。少しリアクションを大きくしたり、笑顔を増やしてみたり。もはや何も考えることなしにそうなっている。

一方、三大要素のうち、一つでも欠けると緊張は減っていく。
たとえば、同い年でもフランスの男性と会話しても緊張しない。その理由はおそらく、フランスではどういう要素が女性に期待されるのか、私が分からないからだと思う。基準を知らなければ合わせにいこうともしないし、そもそもできないから、いつもの私でいるしかない。
同様の理由で、私と年代が違う10代や30代の日本男性との会話は気楽でいられるう

ところで、三大要素に加えてその場に典型的な女の子らしい子がいると私はさらに居心地が悪くなる。飲み会で「三大要素」と向かい合って座り、私の隣には「The 女の子」がいる。髪を巻き、きれいにピンク色のネイルをしたその子は「え~そうなんだ~」「すご~い!」といつもより何だかテンションが高い。

その子を横目に私も何となくそうならなければならない気がして、自分の「女の子」の側面が発動する。でも、家に戻り、飲み会のテンションが抜けてくると、自己嫌悪のような気持ちが静かに押し寄せてくる。
「The 女の子」たちは全く悪くない。相手に好かれたいという気持ちは、自然なものだし理解できる。ただ単に私が「自分はそうはなりたくないのに、それに無意識のうちに近づこうとしていた。そんな自分がいやだ」と割り切れないだけなのだ。


このやって私は、同い年の日本の男性を前にすると、相手が求めるであろう「女の子要素」を勝手に想像して、緊張や居心地の悪さを感じてしまう。ただ、男性の中にも、同じ気持ちになったことがある人が一定数いるのではないだろうか。



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