読書感想文2冊分

 この記事は上記の記事の為に作成したものです。詳しい流れはそちらをどうぞ。
 本文は本のあらすじ以外口から出任せです。責任を取れないので、読書感想文の無断転載はお止めください。


1.『水を縫う』を読んで (1,787字)

 私が小学生の頃には想像できなかった程、「男らしい」「女らしい」という言葉に色々な問題が付きまとっていると思う。それは近年になって急に現れた問題ではなく、昔から実際にあった問題なのだろう。大多数の人が知らなかった、知らないふりをしていたが、幾人もの人々が声を上げた結果、テレビでもネットでも盛んに議論されている。性別に関する諸問題は、人類の歴史とも密接に関わっている、根深い問題である。今回私が読んだ『水を縫う』も、非常に現代らしいジェンダー観に基づいた作品だった。

 本書は、一つの家庭を通じて「男らしい」「女らしい」「自分らしい」ということについて、深く考えさせられるものになっている。登場人物全員が違う価値観を持ち、ぶつかっている様子を見ていても、誰が正しいのかなんて一言では言えない。本書を読んでいる我々自身も、登場人物と全く同じ価値観を持っている訳ではないはずだからだ。

 主人公の松岡清澄は、趣味が手芸の男子高校生である。中学生の時には、裁縫が好きで得意というだけで「女子力高すぎ」とからかわれ、母からは「普通の男の子になってほしい」と顔をしかめられる。裁縫が好きということに、性別や性的指向なぞ関係ないだろうというのが、清澄の持論だった。

 清澄の姉・水青は、レースやフリル等の所謂女の子らしい、可愛いものが嫌いだった。小学生の頃、不審者に「可愛いね」と言われ、スカートを切られてから怖くなってしまったのである。そんな水青は、結婚式で着るドレス探しにも苦心していた。

 二人の母親であるさつ子は、何かにつけて「普通の子であってほしい」と話す。従来の「男らしい」「女らしい」に囚われた人であった。ただそれは、離婚した夫のようになってほしくない、学校や社会で悪目立ちしてほしくないという願いでもあった。

 清澄の祖母・文枝は、そんな三人のことを平等に肯定する人だった。「男らしい」「女らしい」という言葉で制限されるような、新しい時代をのちの世代には生きて欲しいと願っていた。

 「自分らしい」ということはどういうことなのだろう。ジェンダー問題が取り沙汰されることで、同じくらい「多様性の尊重」や「自分らしく生きること」についても議論されている。私自身、「普通の人」という言葉に納得がいかなかったことや、不満に思うことが多々あった。また、「普通でない人」から距離を取ったりすることもあった。

 一概に「多様性の尊重」と言っても、あらゆることを許容することはできないのが現実である。法律に触れなくとも他人に迷惑をかけることなら、尊重されることなぞ勿論無いし、その「迷惑」の範囲すら人によってまちまちだ。ただそれでも、自分のやりたいことや好きなことのある人というのは、本当に魅力的に見える。一心不乱なその姿は、見た人の心を良い方にも悪い方にも動かす。身近にいたそういう人の有り様に憧れ、自分の好きなことをやり続けている私のように。

 「流れる水は、けっして淀まない。常に動き続けている。だから清らかで澄んでいる。一度も汚れたことがないのは『清らか』とは違う。進み続けるものを、停滞しないものを、清らかと呼ぶんやと思う」

 清澄は自分の名前の由来を思い出して、水青のドレスに流れる水の刺繍を入れる。「流れる水のようになってほしい」という願いは、「自分らしいということ」が変化することを優しく肯定するものだと思う。自分の考えたドレスは、姉のことを尊重出来ていなかったと気付いた清澄。可愛いということを少し肯定的に捉えられるようになった水青。子供に失敗してほしくないとしても、彼らにはそれを選ぶ権利があると諭されたさつ子。自分も変わっても良いのだと、気付くことの出来た文枝。自分が今まで持っていた意見を変えるのは勇気が必要で、とても怖いことだ。人が人であり続ける以上、色々な影響を受けて自分の中の大切なことも変化する。ただ、その「大切なこと」が変わらないことが自分らしく生きることの証明になる訳ではなく、自分の中に生まれたどんな気持ちも大切に抱えていくことが「自分らしいということ」なんだろうと思う。

 大人になった今でも決して遅いことなんてない。今までの自分に間違った所があったなら、意固地にならずに変えていきたい。それでも、それが正しいとかつて思っていた私のことを、私だけは肯定してあげたい。

2.『残像に口紅を』を読んで(1,687字)

 もしこの世界から「あ」という存在が消えたとしたら、「あ」の付く単語も全て消滅してしまう。アイスを「アイス」としか表現することが出来ないなら、それはもう食べられなくなるし、「ありがとう」とお礼を言うことも出来なくなってしまう。今回読んだ『残像に口紅を』では、そのようなことが延々と続いていた。

 主人公の佐治勝夫は作家として順調に売れ、妻と子供とも良好な関係を築けているが故、人生を空虚に思っていた。現実と虚構が曖昧になったり、現実と虚構を同一にするような小説を書いて、評論家達から酷評を受けたりする。とある小説で非常に酷評を受けた佐治は憤慨し、自分の思想を実践する為に、「世界から言葉が少しずつ消えていく小説」の主人公となる。

 佐治の体現した思想と言うのは、「動物や無機物だけでなく、言語そのものに読者を感情移入へ導く」というものだった。そして、これは十分に成功していると思う。

 佐治には3人の娘がいたが、たった6章の内に彼女らの名前に含まれる平仮名が消え、それと同時に娘らも消えてしまう。その際佐治は使える言葉を尽くして、思い出せない娘に思いを馳せる。しかし本書内で佐治がセンチメンタルな様相を示すのはこの辺りまでで、言葉に困ることもほとんど無く、存外平凡な日常を過ごす。固有名詞のあるものは勿論消えるのだが、感情表現や普通に話すことなら、その豊富な語彙でいくらでも言い換えをすることが可能だからだ。佐治なら恐らく、アイスのことを「氷菓」のような言い方をして、消える言葉から逃れるだろう。私はそのうちに、固有名詞を持たない、言い換え可能な言葉に哀れみのようなものを感じるようになった。彼の豊富な語彙あってこそではあるが、小説の体裁を保つことが出来る程度には、代替可能な言葉が沢山ある。一つの事象に沢山の言い回しがあるのは日本語の美しい所だが、言葉を尽くさない簡素な言い回しにも魅力がある。しかし、小説を読みながら代替可能な言葉を思い出すのは、私にとって難しいことだった。それぞれの言葉にはそれぞれの美しさがあるのに、簡単に忘れられてしまう言葉たちを思うと、悲しい気分になっていった。これが言葉に感情移入をさせるということなのだろうと思う。

 使える言葉が減っていくと、街の一般人も段々言葉少なになっていく。その様子を見た佐治は、語彙の少ない彼らを馬鹿にするようになる。時には、その語彙の少なさを嘲笑うようなことを言って、相手を怒らせたりもした。憤慨した彼らはいつも以上に言葉が浮かばない。彼はそれを見て、今まで言葉に関心を持っていなかったからだと、威張って笑うのだった。

 しかし、物語の終盤で出会う医師は、言葉が消えたことなど意にも介しておらず、言葉が欠落したまま話をしていた。佐治は、自分はなんて幼かったのだろうと恥ずかしくなる。その恥も、残り少ない言語では表現しきれていないように思った。

 「残像」とは、外部刺激がやんだあとにも残る感覚興奮のことを指す。読者にはいつどのタイミングで言葉が消えるか勿論明記されている。登場人物らが発することの出来ない言葉を理解することが出来た時のもどかしさは、まさに「残像」だと思う。情感豊かに別れを惜しむ言葉を紡いでいた娘のことも嗜好品のことも、最後にはそれらを表現する手段も無くし、明確に存在が小説から消えてしまった時は悲しい気持ちになる。しかし佐治は、自分が虚構の存在だと認知しているからこそ、読者ほど感傷的にならない。そういう冷酷に見える部分も、読み心地が切ないのだろうと思う。消えることによって読者の脳内に刻み込まれる言葉たちは、真っ赤な口紅のように頭に残るが、登場人物がそれを認知できないことを理解できることも、切なさの一因なのだろう。

 世界が段々とカタチを失い始め、終わるまでの11ページの間に、佐治は何を思ったのだろうか。最後にまともに発することの出来た「痛い」という言葉は、打ち付けた身体が痛むのか、それとも心が痛んでいるのだろうか。読者の感じた切なさを同様に感じていたとして、それを我々に分かるように表現することは叶わない。

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