音楽と政治、そのウロボロスの蛇〜パラドックス定数『Das Orchester』

2019年3月23日にシアター風姿花伝でパラドックス定数『Das Orchester』を見た。
生活がバタバタしていたので、感想が遅くなってしまった。

前回の『トロンプ・ルイユ』と同じく、長くパラドックス定数を見ている友人と一緒に行った。
前回と今回とだったら、『Das Orchester』がパラドックス定数の得意なカラーがよく出ているとのことだった。なるほど。


1年間にわたる連続公演がおわり、劇団としては休息にはいると聞いた。
次にどのような作品を上演してくれるか、楽しみにしている。
次の上演が楽しみになる劇団と出会えたことが、幸せである。

時代は1930年代。ナチスが政権を奪取した直後のベルリン。
政変の中である天才指揮者に率いられたオーケストラが政治的・経済的に締め上げられて窮地に立たされる過程が描かれていく(指揮者のモデルとなっているのは、フルトヴェングラーである)。

警戒と緊張がベースとなって終始響き、ふとした瞬間に爆発が訪れる。この緩急のつけ方が見事だった。
劇中では演奏会の実演は描かれない。描かれるのは、ナチスと楽団との間のじりじりとした闘いである。


舞台裏で、事務所で、指揮者の部屋で、楽堂の外で、人を窺い、言葉尻をとらえ、沈黙に意味を読み込み、絡め取ろうとしたり絡め取られるのを回避しようとしたりする、婉曲的な闘いが繰り広げられる。
その中で、ナチスの鉤十字旗や松本寛子演じる指揮者付秘書の叫びなど、視覚や聴覚に直裁的に訴えかける表現の鋭さが際立ち、胸が掴まれる。


野木萌葱の筆力の高さを、存分に示す作品だったと思う。

演出に関しては、見ている間にいくつか違和感を覚えたのだが、その違和感こそが仕掛けだったのではないかと書いている今は考えている。
どこでだったかは失念したのだが、指揮者付秘書が指揮者を送り出す時に腰から曲げるお辞儀をしていたのを記憶している。
また、ナチス宣伝部の部長と楽団の事務局長が面会する時に、(少なくとも)事務局長は名刺を両手でつまんで交換していた。
いかにも日本のビジネスマナー的な振る舞いが、「1930年代ベルリン」についての劇なはずなのに浮いているように見ている時は感じられた。
だが、今は2つの点である効果を狙ったものではないかと考えている。


1つは、ナチスの振る舞いとの差を強調するため。
もう1つは、「1930年代ベルリン」と「2019年東京」とを切断させないため。

音楽は簡単に「動員」に使われる。
メロディは気分を高揚させ、リズムは秩序を規定し、音の圧は私たちを呑み込み批判的な距離感を鈍らせる。


音楽がこのような機能を発揮することに、時代や地域の違いはない。
「2019年東京」でだって、そのような機会は起こりうる。し、おそらく起こるだろう。何か大掛かりなイベントに際して。


音楽が煽る恍惚感と朦朧感、思考の筋道を定めていく強制力にどれだけ相対化できるか。
どれだけ陰鬱と緊張に日々苛まれながら闘いに挑まなければならないか。
という「1930年代ベルリン」に生きる「彼ら」の闘いを、「私ごと」としていくための仕掛けだったのではないか。
そんな風に今は考えている。


私はどこかでこの劇で描かれていることと「2019年東京」をオーバーラップさせることにためらいを覚えていた。
だが、この作品はためらっていなかったのだ。

ただひとつだけ、どうしても違和感が残る演出があった。


この作品における「芸術 対 政治」は、「音楽の自由/自律 対 音楽に対する政治的意味の付与」という形で描かれる。
政治的立場から自由であるはずの音楽が、ナチスの権威発揚として意味づけされ演出されることに天才指揮者は憤慨している。
最後には、「毒を以て毒を制する」と言わんばかりにベートヴェン交響曲第九番を演奏会のプログラムに組み込み、ナチスへの抵抗の意を表明する。
ナチス宣伝部による急ピッチの囲い込みを引き延ばしてきた将校が舞台裏で見守る中、第九の第一楽章が鳴り響いて劇は幕となる。


この第九の使い方は非常に感動をかきたてるし、幕引きの演出としてとても「キレイ」である。


同時にとても恐ろしい幕引きでもある。
意味や解釈という軛から自由な音楽などないのだと言わんばかりである。
「意味の付与」という蛇が尾っぽを噛み、音楽と政治の循環がはじまる。そんな終幕だった。


このようなアンビバレントな音楽の使いかたを際立たせるためには、第九まで徹底的に、ストイックに、音楽を鳴らさなくても良かったのではないかと感じられた。(劇中では数箇所、音楽が鳴っていた)


鳴らしたとしても、秘書がベルリオーズ幻想交響曲第四楽章「断頭台への行進」を聴いて戦慄する箇所にとどめるほうが効果があったように感じられた。
あのベルリオーズの場面は、「音楽は自由」という指揮者も実は、音楽に意味や解釈を付与してしまうことを端的に表していたからである。


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