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だれかに聞こえるように。


小学生の時に,“喋ること=空を言葉で切り裂くこと”という方程式が既に頭の中で組み上がっていたほど,喋ることがずっと怖かった。
自分の言葉がみんなの前に現れてしまうことに恥ずかしさを覚えていた。

中学校の時の先生のことを思い出したとき,自分の好きな先生は,授業のノートをよく見てくれる先生だった。私は発言は全くしなかったものの,ノートの見やすさ,伝わりやすさにはものすごく拘っていた。先生のチョークの色をノートには何色で書くかだけではなく,図を書いたり,文字を濃くしたり大きくしたり。先生がみんなの前で私のノートを褒めてくれたときは最高に嬉しかった。すると,それを聞いた友人がクラスメートにノートを見せて回って,私はクラスのイケてる子たちに褒められた。嬉しかったので止めなかったけど,止めないとおかしい気がして,止められる距離じゃないくらい短めに手をのばしてやめてとか言った気がする。
ほかに,教育実習に来た先生がたくさんコメント書いてくれるのが嬉しくて,私も感想を枠からはみ出すくらい書いていた。

ずっと喋らなくてもコミュニケーションをして生きる方法を考えてきた。それほど,喋ることが嫌なんだろう,
だから,手を良く動かすようになったし,表情を意図的に見せようとするようになったし。

喋らないで生きることが,褒められたいことと,自分の中では同じくらい大切だった。でも,そんなことが実現しそうな場所はなかった。
というか,本当に喋らなくて生きていける場所とかあるのなら,自分は何でもできる気分になってうかれてしまうとも思った。
苦手なこともやらないと成り立たない仕事をやらないと,自分がうかれて人に上から目線の悪態をつくと感じた。だから,喋る仕事をした方が良いんだと思った。でも,喋らないと成り立たない仕事というだけでは苦痛,やりたくもない。
折角なら,憧れの仕事を。ということで,憧れが一番つよい仕事,憧れの感情が苦手の感情を上回る仕事を見つけた。そして今目指している。

今でも喋ることに躊躇する。言葉を発するのに間を置いてしまう。見切り発車で言葉を紡ぎ出せない。喋ると,見てる人たちが見てくれるような書き,描きとは違って,その場にいる人全員に自分のことが伝わってしまうから嫌だ。
伝えられない・・・・・・。
信頼仕切っていない人に自分のことを言うことが怖くてできない。
なので,信頼している先生のところには話をしに通い詰めてしまう。
でももちろん,その先生ばかりに頼ることはできない。
となると,はき出せるのは,書くことと描くことだ。noteが大好きなのは,絵も,文章も,だれかに届いていると分かるから。自分が一人にならないから。そうやってだれかに結局届いていることでいきている。



いいことありますように!