見出し画像

極めてなにか生命に対する侮辱を感じますのこと


 2016年NHKスペシャルで、「終わらな人宮崎駿」と言う番組が放映された。
 そこで、AIで描かれたゾンビの動きが、身体障がい者に見え、宮崎駿さんは知人の身体障がい者を思い出し、侮辱だと言った。
 多くの人は、AIというのが品源の才能に回らない証拠だとこの発言を絶賛し、特にアニメ界の重鎮で或る宮崎駿さんの発言だから、この感覚が正しいと思っていたことだろう。
 私は違った。
 差別しているのは、宮崎さんやん!と思ったのだ。

 私の娘は、身体障がい者ではないが(身体障害者手帳は持っているけど、歩ける)、知的障害が重すぎて、養護学校の中でも「肢体不自由児校」と言うところに通った。娘以外の人はほとんど、車椅子に乗っている。知的障がいは、ある人もない人もいる。
 肢体不自由児校の運動会を初めて見た。普通の学校の運動会とは違う。昨今批判された、棒を持ってゴールすると言うような意味じゃなく、誰にも平等な競技が行われたのだ。それを見て、「このコンテンツ、売れるかも!」と思えるくらい面白く感動できた。
 歩ける子は歩く、走れる子は走る、這える子は這う、車椅子の子は車椅子で進む、車椅子を自分で勧められない子は紐を握りその紐を先生が引く。距離は夫々皆違う。コースを二周する子も居れば、五メートルの子もいる。
 特に、這える子を這わすのは、日常でもどこでも見たことがないことだったので、びっくりした。今考えてみると、それは宮崎さんが批判したAIのゾンビと同じような光景である。
 少年の足は麻痺しているので左右違う方に曲がり、それでも手や肘で這って進む。当たり前のことなのだが、少年は自宅ではそうやっていつも自分の意志で移動しているのだ。
 その姿を歓声を上げて応援する観衆は、生命に対する侮辱ではなく、賞賛であり、いつもの応援だった。
 オリンピックやパラリンピックの選手が快走する姿とは違うけど、かっこよかったと思う。
 あと、宮崎駿というビッグネームがそう言うのだから、多くの人がそれが正しいと思うことが、もっと気持ち悪いと思っている。AIがダメだと言うことが正しいみたいな言い方も嫌いだ。もし気持ち悪くて映像として価値のある動きなら、身体障がい者を役者として、AIのデータとして使っても悪くはないとも思う。
 とにかく、知人の筋ジスがいるとかじゃなく、多くの人が障がい者を見慣れていく方が良いと思う。目を背けず、ジロジロ見るわけじゃなく、普通になれる方が、いいと思う。
 この一件で、ますます障がい者から目を背け、見てはいけないモノだと思う人がいるようなので、残念だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?