ストリートビュー
今日も懲りずに左脳ボードしていきましょう。
今回のテーマは、スノーボードムービーの中でも「ストリート」に特化した作品について。
スノーボードムービーにおけるストリートとは何かを念のため説明すると、階段の手すりの上とかを滑って危ないことしてるアレです。
僕自身あまりスノーボードの歴史には詳しくないし、今の業界全体を俯瞰した視点も持っていないので、あくまでも自分なりの解釈でしかないけど、
スノーボードムービーを大まかに分けると、「山」か「街」かの二つになります。
「山」というのは、スキー場ではなくて、それよりもアクセスが難しいがより良い雪や地形を求めて登っていくところ。
対照的に、「街」とは人工的なものや場所。
街でスノーボードをやっている作品はたくさんあるけど、それってそもそも何なのか。
また、そんな作品がどうすればもっと面白く観られるかについて考えていきたいと思います。
まちなかでやるのはナゼ
まず、時代を遡るとスノーボードよりもスケートボードムービーが先に存在していたはずです。
そのスケートボードムービーは、当然ですがほぼ全てストリート(街、人工的な場所)を舞台に撮影されたものです。
そして、その影響を大きく受けているのがスノーボードのストリート映像になります。
むしろ、スケートボードでやっているような事をスノーボードでやってみた、というところから始まり、ここまで発展してきたと言えると思います。
このあたりのことが、スノーボードを街でやることの意味を曖昧にしている原因ではないでしょうか。
まずはこのあたりから掘り下げていってみます。
スケートボードは街でしかできない
まず前提として、スケートボードもスノーボードも街中でやることが基本的には許容されていません。
「ここなら人に見つからないから大丈夫」とか「この辺ならやってても怒られない」というケースもあるけど、それはそもそも「良くないこと」という前提があった上での例外です。
なのに街中でやる。
「なのに」というか、スケートボードは多くの場合、「街でしか」できないんです。これがスケートボードがもっている宿命です。
「許されているからやる」とか「禁止されているのにやる」という順序ではないんです。
それとは逆で、「やったら禁止された」というほうが正確だと思います。
”法律というものは、常に人の営みのあとに作られる。”
らしいです。知らんけど。
社会があって、スケートボードというものが生まれて、スケーターが生まれて、それぞれがそれぞれにとって当たり前の営みをしたら、摩擦が起きた。
競技化、スポーツ化して社会との摩擦を減らす方向にも進む反面、摩擦そのものにフォーカスして摩擦をあえて顕在化させる作品があります。
だからこそスケートボードは存在自体に反社会性を孕んでいたり、カウンターカルチャー的なんだと理解できます。
そんな背景から必然的に、スケーターたるもの反体制的であることが良しとされる価値観が一部にできていったんだと思います。
スノーボードの方がやりやすい
では一方、スノーボードはどうか。
ストリートをメインにした作品では、確かにスケートボードと同様に社会との相入れなさが描かれている場面があります。
ただし、そこにはスケートボードほどの切実さや説得力は無いと言わざるを得ません。
なぜなら、街は本来スノーボードをやる場所ではないからです。
個々人の意見はさておき社会の共通認識として、スノーボードはスキー場でやるものにほかなりません。
こう書くと「スケートボードだって街中でやるためのものじゃないだろう」との反論もおありでしょうが、その通りです。
ただし、スノーボードと違うのは、「スケートボードはスケートパークでやるものだ」という共通認識は今のところ無いんです。
整理すると
・スノーボードは街中でやってはいけない
・スノーボードはスキー場でやるもの
矛盾してないです。
・スケートボードは街中でやってはいけない
・スケートボードは街中でやるもの
話を単純化しすぎなのは否めないけど、ここには確かに矛盾があります。
要するに、街中でやらざるを得ないスケートボードに比べて、スノーボードを街中でやることの必然性は低いんです。
マストではなくウォントとして、より良い作品にするためにより良いロケーションを選んだ結果としてストリートがあるんだといえます。
スキー場でもできるけど、街中でやるともっと良い画になるよね、と。
まずはここまでが、スノーボードムービーにおけるストリートの位置付けです。
では、その上であえてストリートでスノーボードすることで、どんなことが表現されているのか。
次はそこを探ってみます。
あのストリートか、どこかのストリートか
紆余曲折あって、あなたはこれから街中でスノーボードをやることになりました。
以下の4つのロケーションの中から2つ選んで滑ることができます。
映像作品をつくる上で最適な組み合わせはどれとどれでしょうか。
A. よくある階段の手すり
B. 公園の珍しい遊具
C. 工場か何かの廃墟
D. 学校の屋根や壁
という問題が出たら、どう答えるでしょう。
字面だけじゃイメージが湧かないなんて言うのは無しです。なにしろ左脳でスノーボードするんだから、字面が全てです。
正しい答えなんてものは無いけど、僕なりの持論では2パターンの答えがあります。
ではさっそく解答を発表します。
解答は
AとD。
または、BとCです。
勘の良い方なら既にお分かりだと思います。見出しの文言のとおり、
AとDは「あのストリート」。
BとCは「どこかのストリート」という風に分けることができます。
では「あの」と「どこかの」の違いについて考えていきたいと思います。
あの
まずは、Aのよくある階段の手すりと、Dの学校の屋根や壁ですが、これらに共通するのはほぼ全ての人が知っているものだという点です。
具体的にはどんな手すりか、どこの学校かは人それぞれ思い描くものは違いますが手すりとは何か、学校とはどんな場所かという意味づけについてはあらかじめ十分に理解されています。つまり、その場所がもつ文脈が共有されているといえます。
たとえば階段の手すりであれば、本来の文脈では「安全のため」のものですが、その上をスノーボードで滑ることは非常に危険を伴う行為へと反転します。
また、学校はというと心身の安全を確保する、学ぶ、成長する、規律を重んじる等の文脈が既にある場所ですが、その建物の屋根や壁を使ってスノーボードをするのはルールや常識から逸脱していることをより際立たせることができるでしょう。
多くの場合「どうぞ滑ってください」と言われている場所より「絶対ダメだろ!」ってところをあえて滑るんです。
つまり「あのストリート」とは、その場所がもつ文脈が多くの人に共有されている(それが何かを知っている)ことを、スノーボードの表現に利用しているもののことです。
有名な例を挙げるとすれば、バンクシーです。
この有名な絵は当然ながら、単に上手だから有名になったのではありません。
「イスラエルとパレスチナを分断する壁」という、この場所がもつ文脈を利用した表現だから注目を集めたんです。
この絵が一枚の画用紙に描かれていても、シンプルにひとつの絵として存在するだけですが、分断壁に描かれていることよって、この壁が持つ暴力性を顕在化させているのです。
これはこの壁でしか出来ない表現です。
先程、"スノーボードを街中でやることの必要性は薄い" と書きました。
だけどどうでしょうか。分断壁のバンクシーの絵みたいに、その場の文脈を社会が共有しているからこそ成立するアートがあるように、
誰もが知っていて当たり前に使ってきた場所を、当たり前ではない使い方をしてみせて社会通念に小さな穴を開ける作業が目的だとしたら。
それなら街中でしかできないスノーボード。つまり街中でスノーボードすることが必要となります。
どこかの
一方で「どこかのストリート」とはなにか。
これは、「あの」とは逆に、その場所がもつ意味や文脈が誰にも共有されていないところを使ってスノーボードすることです。
先の問いの「珍しい遊具」も、「何かの廃墟」も、多くの人が日常で目にする景色とはかけ離れています。
先程の話でいうと、マストでなくウォントとして、より良いロケーションを探した末に、そこにしか無いような面白くて映像映えするスポットが選ばれます。
ただ、そうして選んだ結果、その場所でスノーボードすることにある種の必要性を帯びるようになります。
「あのストリート」をやっている場所は誰もが知っていて、昔も今もこれから先もそこにあり続けるものです。
対照的に「どこかのストリート」をやっている場所とは、どこかにしか無く、いつまであるか分からない。
つまり固有性、一回性が高く、「今、ここでしか出来ないスノーボード」をしているという点で、必要性が薄いとも言い切れません。
ここまでをまとめると、
スケートボードは『存在』のレベルで、
スノーボードの「あのストリート」は『行為』のレベルで、
スノーボードの「どこかのストリート」は『表現』のレベルで、
街中でやることを必要としています。
今後、ストリートの作品を観るときは、「あの」なのかそれとも「どこかの」なのかについて意識してみると面白いかも知れません。
あと、作品を観ることの必要性について考えるのも面白そうなので、いずれそれをテーマに左脳を動かしてみたいと思います。
p.s.
「どこかのストリート」についての解説が不十分なのは、まだ僕の理解が浅いせいです。すいません。
とりあえず「どこかのストリート」の例を挙げるとすれば、ちょうど最近公開のこれなんかいいんじゃないでしょうか。