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窓辺にて、感想。そして日記のような駄文。

そうか、映画か。映画を見よう。
と思い立ったのは現代文演習の授業を受けている時間。松村寿輝著「波打ち際に生きる」の設問を読んでいるときだった。彼は映画を波打ち際と表現していて、わたしはその表現を好きだと思った。好きだと思ってから、もうここ1年まともに映画を見ていなかったな、と思い返した。

TOHOシネマズで上映されている映画はあまり好きじゃない、と思いながら生きてきた。なんとなく世俗的な感じがして、なんとなくありきたりな高校生らしく思えてしまっていたから。だけど友達と映画を観る時は九割八分TOHOシネマズだったし、当時気になっていた人と見に行ったのもTOHOシネマズだった。TOHOシネマズの、折り返して切り取れるのに切り外されない半券がついた水色のチケットがなんとなく好きだった。

わたしは、予習一切無しで映画を見るのが好きで、大体の映画はそうやって見てきた。今回もそれに然り、いかにもわたしの好きそうなタイトルと今泉力哉監督だからという理由だけで弾丸映画鑑賞ツアーに出た。
大正解だった。
17歳で大賞をとるものの、大して読んでもいないくせに質問をしてくる会見の記者たちにうんざりしている久保留亜。
高校生の作家が出てきた時点で、わたしの勘は冴えすぎではないか?などと思った。わたしは大賞を取るような作品が書けるほどできた人間でもないし久保留亜ほど波瀾万丈な人生を送っている訳では無いけれど、どことなく彼女にわたしの姿を重ねることができた。
登場人物のモデルに知り合いを起用するところ。自分との会話で誰かが言っていたことばを作品に使うところ。
髪型がボブなところ。久しぶりに髪を切って良かったなと思った。
人間って登場人物と自分を重ねることで共感を得る生き物なんじゃないかと思っていて、例外なくわたしもそうなのである。

作品のテーマとなっていた「好き」ということに関して。
「好き」という二文字を相手にぶつけることは簡単で、それは伝えてしまえばそうであることになってしまうが、果たしてそんなに簡単でいいのだろうか。
別にもう好きじゃなくなっていても、「好き」とは言えてしまうし、逆に「好き」と言わないことこそが好きであるということなんじゃないかな、とも思う。
言わなくてもわかるということが、久保留亜の言っていた「信じることでしか人は繋がれない」(ごめん忘れた曖昧)ってことなのかもしれない。信じていても繋がっていられるという訳じゃないけど、人間にとって繋がっていられる唯一の術が信じることなんじゃないかとおもう。

茂巳さんが最後に失踪した元恋人のことを書いて以来、紗衣のことを書かなかったのは、「書いてしまうと過去形になってしまうから」と荒川円は言っていた。荒川円は、茂巳さんと紗衣を代わりに書くことで、茂巳さんと紗衣を過去形にしようとしたし、実際過去形になった。書いて過去形にできるならわたしもさっさと書いて過去形にしようと思った。

茂巳さんと紗衣は、向き合うことで終わりを選んだけれど、マサさんとゆきのは向き合わないことで続くことを選んだんだと思う。深い描写はなかったけれど、彼らは全部分かってて、それでもこの道を選んだんだと思う。娘のために。その意味でも、茂巳さんと紗衣がさっぱり過去形にできたのは、考えるべきものがそう多くなかったからなんだと思う。

遠い昔、当時好きだった人と映画を見に行ったことがあって。彼はその時、私が気に入った映画を「わからなかった」と言った。わたしはその言葉に長らくごく小さな蟠りを抱えていたのだけれど、最近やっとわかったことがあって。
今まで「わからなかった」は投げ出しの一種だと思っていたが、「わからなかった」もひとつの感想だし、わからなかったものを無理にわかろうとしないでもいい。「わからなかった」こと自体に価値があると思える人間になりたいと思った。

そして、わかりにくいものを分かりやすく書くことが大事だという訳でもなく、分かられなくていいものは、分かられないままで残していいとわかった。今回も久保留亜の親についての話は深く掘り下げられなかったし、それこそ久保留亜の言葉を借りて「全てを書きますかね?」ということだ。余白があることを楽しめるようになりたい。
わたしにひびいた作品を「わからなかった」と言う人や、わたしの作品のことを「わからなかった」と言ってくれる人を大切にしたい。「なんでわかんないの!?ここはこうで、だからこの時こうで」とすべてを説明するのではなくて、「それはわたしが全部書いていないからだよ」と言えるまでに、逆に緻密な作品を作れるようになりたい。

今日は久しぶりにいろんな感情に触れすぎて疲れた。ひとつのことをぐるぐると考えているよりも、いろいろなことをくるくるころころと考える方が脳を使う。作中にもキーとなっていた「悩むことは贅沢なこと」とはこういうことで、ひとつのことをぐるぐる思索できる先週の私は非常に暇だったんだなと、思い返した。

大尊敬している先輩から、LINEグループに応援動画が届いた。このうえなく嬉しかったし、わたしはこの先輩たちの背中を見てあのとき頑張っていたんだよな、と改めて思った。すこしだけあの頃に戻れたような気がして嬉しかった。と同時に気が引き締まった。あと3ヶ月、なるべく余計なことは考えないで、もうやるしかない。

もうすぐ2時になる。ふと冷静になって考えてみると、30分でこの文章量を書けているならわたしの脳みそもまだまだ捨てたもんじゃないなと思う。駄文をつらつらツイート感覚で書いているだけでこんな文字数まで達してしまうんだから、これがTwitterじゃなくて良かったと思う。この作風が樋口恭介氏の作品に繋がってくるのだろうか。あれはもっと期間を置いて書き重ねているものだけれど、いつかはああいうものを世に出せるほど評価される人間になっていたいと思う。

わたしへ。明日あたりにこれを見返してください。そして色々書き直してください。たぶんこの文章をこのまま世に出したらわたしのアイデンティティのうちの何かを失う気がします。
それでは、2500文字を超えたところで、おやすみなさい。

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