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19歳の送辞に代えて

 お久しぶりです。結城玲夏、久しぶりのエッセイです。
 気づいたときには数週間が経過し、ティーンエイジャー最終日となってしまいました。そんな大事な日であるにもかかわらず、起床直後の立ち眩み(a.k.a.寝不足)によって授業をぶっ飛び(結果的に総武線が使い物になっていなかったので助かったのですが)、午前中は完全に惰眠を謳歌しきるという、完全に立ち回りをミスった最終日となりました。

 わたしらしいと言って仕舞えばそうなのでしょう。

 それでもいいように感じます。それでもいいと受け止めるしかないと言った方が正しいのかもしれません。半ば帳尻合わせのように始めたこのエッセイ期間すらも帳尻合わせに走っているのですから。

 とはいえ、しばらくパソコンを開いてゆっくりと自分に向き合う時間もないような日々が続きました。疲れている人間ほど生産性のある行動ができなくなるというのはこういうことなのでしょうか、それとも、これから社会に出てもっと思い知ることになるのでしょうか。

 洋楽が流れるカフェスペースで、一面の大きな窓に目をやりながら、パソコンに向かっています。パソコンの右横には最近買ったzfcが置いてあって、結構、自分の持ち物はお気に入りばっかりだな、なんて多幸感に浸っています。
 最近買ったzfcちゃんについての話も、近いうちにしたいなんて考えています。というか、多分します。

 6月に入ってから、10代の自分の有効期限が着々と迫ってきていることを知りながら、それでも何かをはっきりと意識を持って残すということをしないまま、一日1日を過ごしていました。そんな中で、だんだんと、グラデーション的に過ぎる日々について考えるようになりました。
 きっと明日が来てもわたしはわたしのままで。それは、今まで2009年が2010年になったときでも、わたしが中学から高校に上がったときでも、高校を卒業したときも、それぞれ「わたし」のままでした。
 何か節目があったとしても、大きく変わることはなく。それでも着々と、昼の明るさが夜になっていくように、グラデーションのように、わたしが形成されていったのだと思います。

 この20年間、わたしが変化するきっかけになった出来事はいくつもあります。小学校の頃に得た無双感も、中学校のときに経た大失恋も、高校のときにした大挫折も、コロナ禍の冬に祖母が亡くなったことも。
 少しづつ節を作って向きを変えながら成長していく木の枝のように、いろんな方向に手を伸ばしながら、途中で枝先になって栄養が行き届かなくなって、それでも伸ばし続けるところを残しながら、ここまでやってきました。
 前にも言ったと思いますが、演劇と文筆だけは、わたしが自信を持って、ずっと続けてきたと言えるものです。演劇は幼稚園のお遊戯会で楽しいと気づいてからずっと好きで居続けてきたと思っていたのですが、母に聞いた話によると、どうやら言葉を話すようになった頃から好きだったらしいです。

 ちいさいちいさい頃のわたしは、ピーターパンが大好きで、毎日母に絵本を読み聞かせしてもらって居ました。ウェンディがピーターパンに助けを求めるシーンが一番好きだったらしく、そのシーンだけ特に何度も繰り返し読んでとせがんでいました。
 その結果、そのシーンのセリフだけ音で覚えてしまって、まだ文字も読めないのに、絵を見ただけですらすらとセリフが出るようになったらしいです。自分では記憶がないのでなんとも言えないですが、わたしだったらやりかねないななんて妙に納得しました。

 文筆の方は、掘り返すとあまり直視したいものではないのですが、小学校の頃にパスワードシリーズに憧れて探偵ものの短編小説を描いてみたり、中学の頃は趣味で二次創作を嗜んだりなどと、それなりに好きなことをつらつら書いて生きてきました。
 結城玲夏として書いたのは高校一年生の「アイスボックスクッキー」という作品が初めてで、そこからノベルジャムにお誘いをいただいたりして、今に至ります。「アイスボックスクッキー」も結構気に入ってるので、気が向いたらnoteで公開しようと思います。

 さて、綴っているうちに残り1時間半となりました。
 二十歳になっても大きく変わることは、そこまでないのでしょう。今まで通り大学に通って、やりたいこととやらなきゃいけないことのバランスに苦しみながら、それでもどうにかやり過ごしていくのでしょう。

 十九歳のわたしからは、正直改めてなんて、あまり言うことがありません。
 ただ、すこやかに生きてね。色々考えすぎてしまうことはあると思うけれど、すべての物事はどうにかなると思って、どうかすこやかに。

 カフェスペースで流れる曲と曲の間の少しの沈黙に、永遠を見出せるような気がしました。
 成人してできるようになることといえば酒タバコくらいで。それよりも18.19という最大のモラトリアムを謳歌できていたかの方が、大事なように感じます。あと少し、縋っていたい気もするけれど、緩やかな変化に身を任せていくことにします。

 2050文字をすぎたあたりで、カフェスペースが静かになってきたので、この辺でおしまいにします。

 明日からのわたしはもう10代じゃないけれど、何も変わることはないです! みなさんがそうであるようにね。
 これからも、結城玲夏共々、わたしのこと、よろしくお願いします。

それでは!

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