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【筑波での4年間を振り返って】#6 神頭 匠

「回り道も悪くなかった」

小学1年生から始めた、18年のハンドボール競技人生が幕を閉じた。

正直、ハンドボールをしていない自分というのはまったく想像できなかった。
高校も大学もハンドボールを基準に選んだくらいだ。
でも、気づいたら引退して2ヶ月ほどが経過しようとしている。
そして、恐ろしいほどにボールを投げたいという衝動に襲われない。
おそらく、自分の中でもやりきったという区切りがついているのだろう。

楽しいこと、辛いこと、嬉しいこと、悲しいこと、本当に色々なことを、ハンドボールを通して学ばせてもらった。

ありがとう、ハンドボール。

自己紹介が遅れました。
筑波大学男子ハンドボール部で2023年度副キャプテンを務めました。

神頭匠と申します。

初見でこの苗字を読めた方がいたら、ご連絡ください。
人生で一度も、初見で神頭(かんとう)と読めた人に出会ったことがありません(笑)

さて、冒頭から何言ってんの??と思った方、いることでしょう。

ハンドボールという競技とは、自分の人生を賭けたものと言ってもいいくらい関わってきて、本当に成長させてもらったと思っているので、冒頭で感謝を述べさせてもらいました。

黒歴史にならないことを祈ります。

引退ブログは何をテーマに書くか、多少悩んだけど、やはり”あのこと”を書くことにした。
4年間の筑波大学ハンドボール部を振り返ってください。という依頼されたテーマをガン無視してしまっているけど、広報局のみんな、許してね。

はじめに断っておくと、この文章は筑波大学ハンドボール部に関して、それほど多く書いていない。

私の分まで、同期の6人が筑波ハンド部の素晴らしさを語っていてくれていることだろう。

偉そうに他人にアドバイスできる立場ではないのは重々承知しているけど、私のような異質なキャリアを歩んでも、大学スポーツを何とか続けられるんだという一つの事例として知ってもらいたくて、このような内容を書くことにした。

筑波でハンドボールをしたい中高生、浪人生には特に読んでもらいたい。

ん?異質なキャリア??浪人生??と思われた方、さすがです👏

この投稿のタイトルは「回り道も悪くなかった」
そう、私は高校卒業後、筑波大学に至るまでに2年という月日を費やしているのだ。
だから、普通の人より学生生活を過ごす時間は少しばかり長い(笑)

どうしてそんなことになったのか、時間は高校3年生(2017年)に遡る。
2017年6月、旭丘ハンド部を引退した数日後、引退試合が納得できるものではなかったこと、身近な人に筑波出身者がいたこと、一般で入っても試合で活躍できる可能性があること等の理由から、筑波大学を志望した。

体育専門学群(体専)を受験予定だった私は、センター試験でまずまずの点数を取った。

このまま2次の対策をすれば受かるだろう。
周りも自分もそう思っていた。

しかし、結果は不合格。

なぜそのような事態になってしまったのかは明白だった。
保健の勉強をサボったのだ。(配点100/700)

元来サボり癖のある私だけど、センターが終わって勉強から解放されたと都合よく勘違いし、勉強が全く手につかないままに、本番を迎えることになったのだ。
(旭丘では、自分が落ちた翌年から、体専を受ける人用の2次対策が始まったとか、、(笑))

一浪して、勉強も追い込むほどやる訳でもなく、体専ではない筑波の学部を受けたが、そこも不合格。

勉強が嫌いであったにも関わらず、「体専は現役で受かってたはずだから」という謎のプライドで別の学部を受けて落ちた。(どう考えてもアホすぎる)

浪人が終わったあと、高校の部活の同期が集まる機会があった。
1浪して、高校の部活の同期はみんな志望校に受かっていた中に、全力で勉強もできていなかったのに落ちた自分は、恥ずかしくて顔も出せなかった。(センターの点数はほぼ伸びてなかった)

後期でなんとか愛知教育大学に入学することができ、迷った末にハンド部に入ることにした。(この決断は間違いなく英断だった)

ハンド部のメンバーは、人柄も素晴らしく、自立した人が多くて、楽しい部活動生活を送らせてもらった。

しかし一方で、筑波への思いを捨てきれなかった。両親に筑波をもう一度受けたいと相談をし、了承してもらうことができた。

そして、愛教大は後期を休学し、実質2浪の末に体専に合格した。
嬉しいというよりは、ホッとした。

こんなどうしようもない自分にチャンスをくれた親には感謝してもしきれない。
加えて、突然チームを去ることになったにも関わらず、筑波を受験し直すことを応援してくれた愛教ハンド部の皆さんにも感謝しかない。

本当にありがとうございました。

さて、ここで浪人期の話が終わると、あれ、こいつさぼってただけで全然回り道悪かったんじゃね?という突っ込みが飛んできそうなので、弁明させてもらいます(笑)

正直、浪人した2年間の多くの部分はさぼりまくってるし、親にかなり迷惑をかけているし、必要がなかったことだったかもしれない。でも、この2年間という月日を経て、ある一つの気づきを得た。それは、自分は「本当にやりたいと心から望んだこと」じゃないと本気で頑張れないということだ。

いや、そんなん当たり前じゃん。と思われるかもしれないが、自分にとってはかなり大きな気づきで、この経験がなければおそらく、大学ハンドでこんなにやりきったと感じて引退を迎えられなかった。というのも、「絶対に筑波で試合に出る」「インカレで優勝する」という心から望んだことを常に意識しながら大学ハンド生活を送ることができ、そのために4年間行動できたからだ。

加えて、自己責任を痛切に感じられたのも貴重な経験だった。2年連続で受験するところを自分で決めて、2年連続でほとんど全て落ちたのだ。誰のせいにもしようがない。

嫌でも自分のダメなところ、弱い部分と向き合って、自問自答する時間を取ることになった。

そして、回り道も悪くなかった、むしろ良かったと思えた一番の要因は、素晴らしい人との出会いがあったからだ。ルートを外れたことで、愛教の部員や本来違ったはずの筑波の同期、先輩、後輩など様々な出会いがあった。正直、かなり運がよかったと思う。この出会いがあったことで、ブログでも自信をもって、「回り道も悪くなかった」と言い切れる。

また、ハンドボールの面から言うと、吉田守一さんという日本代表の怪物がすごすぎて海外に移籍したことにより、3,4年時には、PV(自分のポジション)に推薦入学者がおらず、人数も少ないというラッキーな事態も実は起きていた。

やっと本題に入ります、、
(ここからはできるだけ簡潔にまとめます)

晴れて筑波に入学し、ハンド部に参加できると思った矢先にコロナが流行し、週2回のオンライントレーニングしかできなくなった。

「せっかく念願の筑波に入ったのに」という焦りばかりが募った。

ようやく8月ごろには練習ができて、PV(ポジション名)が不足していたこともあり、少しずつ試合に出れるようになった。

そして迎えた、11月25日。

感じたことのない痛みが右膝を襲った。

怪我をした瞬間、これはヤバいと分かった。(けど、前十字が切れてるとはわからなかった)

病院で前十字が切れてますと告げられたあの瞬間は、今でも鮮明に覚えている。
目の前がまともに見れなくなった。「え、捻挫と打撲くらいしか怪我したことないのに」
「まさか自分が」そんな言葉ばかりが頭を駆け巡り、次の瞬間には絶望していた。

人生で1番落ち込んだのは、間違いなくこの時だった。

今までの人生は、自分自身の努力が足りてなくてできないことばかりだった。

もちろん、セルフケアは今振り返ると不足していたが、それ以外は筑波で試合に出るために誰よりも努力しているつもりだった。それだけに、自分の努力が全て否定されている気がした。

そんな時、悠雅さんがボーッと練習を見てるところに歩いてきて、言葉をかけてくれた。
今でもあの時のことは鮮明に覚えている。とてもありがたかった。
こんな言葉をかけてもらって、落ち込んで怪我を言い訳にしてるままじゃ、かっこ悪いなと思った。

そして、どうせだったら”怪我をしたおかげでこれができるようになった”というものを作りたかった。怪我の前後で何も変わっていないのは嫌だった。

同期や部員、スタッフに支えられ、なんとか9ヶ月間のリハビリを乗り切ることができ、
”フィジカル”をかなり強化して、コートに戻ることができた。正直、前十字を切ってよかったとは口が裂けても言えないけど、このフィジカル強化期間があったことは、間違いなく自分の競技人生において、大きなプラスだった。

2年生のインカレ準決勝でもコートに立つ経験をさせてもらい、3年生からはコートに立つ時間が多くなった。

また、3年生からはDFリーダーをたかすけ(同期)と一緒に務めた。相手OFの分析をしてDF形態を決めたり、オフシーズンの練習を作ってみたりとかなり自由にやらせてもらうことができた。

こんなにコーチや監督が選手にやることを任せてくれるチームは、なかなかないと思う。

春リーグでは、大学に入って初めて、優勝を経験することもできた。この優勝は、初優勝だったのもあるが、リーグの中では4年間で一番うれしかった。始まる前は、「入れ替え大丈夫だよな」とか言いながら始まったリーグで優勝できたこと、2年生以上の全員が出場し、得点できたことが主な理由だ。

4年生、ビジョンをどうするか、春リーグどうするかとか言ってたら、教育実習、遠征、ホームゲームなどがあり、気づいたら秋リーグが始まっていた。

これから大学生になる、もしくは下級生のあなたへ、大学生も、学年が上がるごとに時間は秒ですぎます。後悔のないように気をつけてください。(僕も新年度から気をつけます)

秋リーグ優勝後に迎えた最後のインカレは、惜しくも準優勝だった。
もちろん悔しさもあったけど、大学まで全国大会に縁のなかった自分が、決勝のコートでプレーできていることが幸せだった。

そして何より、インカレの5日間は、これぞチームだというチーム力、チームのまとまりを感じられて、最高に楽しい5日間だった。

振り返ると、筑波での4年間は、とにかくずっとハンドボールを楽しみ続けることができた4年間だった。もちろん、辛いこともあったけれど、多くの時間を楽しく過ごさせてもらった。

こんなに長々と文章を書いてきたけど、
私が伝えたい、筑波大学男子ハンドボール部で学んだことは、2つだ。

1つ目は、私たちはいろんな人に支えられて、運良くプレーしているということ。

高校生の頃は、OBや保護者に感謝の気持ちを持ってプレーなんて、わかってるようで全く分かってなかった。今なら少しはわかる。私たちの多くは、周りで支えてくれている人がいるから、運良くプレーできているにすぎない。

今の環境は、「当たり前」であるはずがない。

少なくとも私は、筑波ハンド部で4年間過ごすまでは、確実にそのことを理解できていなかった。

※YouTubeのインカレVlogでOBへの感謝に関して話しています。
すごく暇があればご覧ください。「ありがたい話」かは分かりませんが。

2つ目は、「頑張ることをあきらめない」ということだ。

意外と、本気で努力すれば叶うことはあると思う。もちろん叶わないこともあるだろう。

しかし、もし叶わなくとも、本気で「やりたい」と決断し努力したならば、何かが自分の中には残るはずだ。

私自身、4年間でインカレ優勝という目標には届かなかったけど、多くのものが残っている。
そして、それは「かけがえのない財産」になっている。

実はこの言葉、本田圭佑さんが「努力しても、成功という結果が出るかはわからないけど、自分自身は絶対に成長する、努力に裏切られたことはない」という趣旨のことをおっしゃっていて、非常に共感したので、ここで紹介した。

私たちは目標設定の段階で、 “知らず知らずのうちに限界を決めてしまっている”なんてことがあるかもしれない。

回り道をした1人の人間として、本当に達成したいことならば、他人に何を言われようができる限り高い目標を掲げることを強くおすすめしておきたい

“If you don’t aim for the top of the mountain, how are you ever going to get a halfway.”
                            
「頂上を目標にしないのであれば、どうやってその途中まで行けますか?」
– Ed Sheeran

最後に、このような拙い長文をここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。
このnoteを読んでくださった方に、少しでも何かを伝えることができていれば幸いです。

いつも一緒にいた同期、筑波ハンド部の方々、そして、応援してくださっている皆さまに改めて感謝致します。ありがとうございました!

これからも、筑波大学男子ハンドボール部の応援を宜しくお願い致します!!

筑波大学 男子ハンドボール部
体育専門学群4年
神頭 匠


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