テルアビブ・ロッド空港事件
ほかに大事なことが、あるような気がするのですが?
まさにそれは女性向け専用記事(三面週刊誌的)の典型であって、傍から口を挟む余地(男)はどこにもないことは百も承知、として老婆心(老爺心というのはないのは何故)など、いったらさーぞ気持ちよく炎上しそうだ、などと虚心坦懐の心境になってみたい。と、そんな気持ちはサラサラありません。(下記記事)
先日、俳優「井浦新」の記事を書いた理由を挙げたのは、パソコンの不具合で、隣の画面にそれがあった、というだけの理由でした。
普段、ほとんど芸能筋は入れませんので、少しばかりの「ちゅうちょ」はありましたが、個人的には井浦新のキャラが好きだったので紹介したという訳です。
そのあとで思ったのは意外と多かった閲覧数にやはり芸能話題は、数が取れる、という現実に納得したからです。
では私のいつも書いている、国際政治、歴史科学、経済との比率を別けて、そちらに向けるか、というのは、私としても読者としても望まない、とおもうからです。
それで、今の景色が何かの理由で、不意に変わると云うのはよくあることで、その作られた「ファッション記事」から連想するのは、それらのターゲット世代の60年前は何してたか、というのは比較として連想されるのです。というのも、いま真っただ中のイスラエル問題ですから、その当時の中東はもっと過激だった、という話しです。
そして当然な経緯として日本「連合赤軍」テルアビブ事件、があるのです。(下記参照)
その中核人物として「重信房子」がいましたが数年前、日本の刑期を終えて娑婆に出た話はニュースで大々的に流されました。事の流れで、最近その「重信房子」に関連した記事がありましたが、その娘の話題に関してどうこう、というのがありました。敢えて名は出しませんが、出す理由もない。
ですから、それが現世代になにをもたらすか、という紋キリ型ではなく、その当時の被服が、今話題のファッションと何ら変わらないとなると、あまり力説しても意味がない(現世代に諭しても無意味)という諦念は否定されないでしょう。
■テルアビブ空港乱射事件(テルアビブ・ロッド空港の虐殺 (英語: Lod Airport massacre)は、1972年5月30日にイスラエルのテルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で発生した、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の対外作戦部隊 (PFLP-EO)が計画し、当時「アラブ赤軍」などと自称した日本人政治活動家(後の日本赤軍)3名が実行したテロリズム事件。プエルトリコ人(アメリカ合衆国籍)17人、イスラエル人8人、カナダ人1人の、計26人の民間人が殺害され80人が重軽傷を負った無差別テロ。別名はロッド空港乱射事件、リッダ闘争(リッダはロッドの現地読み)など。
事件の経緯 サベナ機ハイジャックの失敗
1972年5月8日に、パレスチナ過激派テロリスト4人が、ベルギーのブリュッセル発テルアビブ行きのサベナ航空のボーイング707型機をハイジャックしてロッド国際空港に着陸させ、逮捕されている仲間317人の解放をイスラエル政府に要求した(サベナ航空572便ハイジャック事件)。しかし、イスラエル政府はテロリストによる要求を拒否し、ハイジャックしているテロリストを制圧し、犯人のうち2人は射殺され、残る2人も逮捕された。93人の人質の解放に成功したものの、乗客1人が銃撃戦で死亡した。
PFLPと赤軍派の協力
そこで、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは赤軍派の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。
なお本事件は一般に「日本赤軍による事件」と呼ばれることが多い。しかし、正確には「日本赤軍の前史」ともいえるが、日本人グループはPFLPへの国際義勇兵として参加したもので、当時は独立した組織との認識は共有されていなかった。
自称も「アラブ赤軍」「赤軍派アラブ委員会」「革命赤軍」等であり、「日本赤軍」との呼称が登場するのは事件発生後で、組織としての公式な名称変更は1974年である。詳細は「日本赤軍#結成」を参照
現在の空港ターミナル内部
犯行を実行したのは、赤軍派幹部の奥平剛士(当時27歳)と、京都大学の学生だった安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生だった岡本公三(当時25歳)の3名である。
フランスのパリ発ローマ経由のエールフランス機でロッド国際空港に着いた3人は、スーツケースから取り出したVz 58自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別に乱射した。
乱射後、岡本は飛行場に飛び出すとイスラエル航空機に向けて自動小銃を数発発射、続いてスカンジナビア航空機のエンジンに手榴弾2発を投げつけた後、畑の方向へ走って逃走を始めた。ロッド空港職員クロード・シャナン・ゼイトゥン(Claude Chanan Zeitoun)は、武器を持たなかったが、岡本を追いかけ、200-300m逃げたところで、岡本が持っていた自動小銃を弾き飛ばし、彼を逮捕した。
岡本が拘束された一方、奥平と安田は死亡した。2人の死について、「奥平は警備隊の反撃で射殺。安田は手榴弾で自爆した」として中東の過激派の間では英雄化されたが、詳しくは判明していない。計画に携わっていたとされる檜森孝雄の手記によると「当初の計画では空港の管制塔を襲撃する予定だった」としているが、警備が厳重な管制塔を3人だけでどのように襲撃するつもりだったのかなど具体的な計画は不明である。
赤軍への国際的非難と日本での影響
当時は、テロリストが無差別に一般市民を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に伝えられた。赤軍による民間人への無差別虐殺には国際的な非難が起こった。アメリカのニクソン大統領は、この攻撃を「醜い暴力と流血」と呼び、イスラエルを支持していると宣言した。遺憾の手紙は、イタリアからも、そして当時イスラエルと外交関係を持っていなかったヨルダンのフセイン国王からも届いた。アラブ-イスラエル間の抗争にも拘らず、実行犯が両陣営とは何の関係もない日本人であったことも世界に衝撃を与えた。
日本政府は、実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に公的に表明するとともに、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った。
日本国内でも、その年の3月に発覚した連合赤軍による山岳ベース事件に続く極左テロ組織の凶行として、日本国民に強く印象に残り、凶行を繰り広げる極左過激派と日本国民との隔絶がさらに広がる事件となった。また、この事件において、武器を手荷物で簡単に持ち込むことができたことから、この事件以降、搭乗時の手荷物検査が世界的に強化されたほか、空港ターミナル内における警備も世界各国で強化されることとなった。
事件は、パレスチナ・ゲリラを始めとするイスラム武装組織の戦術にも大きな影響を与えたと言われる。奥平らが初めから生還の望みがない自殺的攻撃を仕掛けた事はイスラム教の教義で自殺を禁じられていた当時のアラブ人にとっては衝撃的であり、以降のイスラム過激派が自爆テロをジハードであると解釈するのに影響を与えたとの説もある。
事件後、日本政府はイスラエルに特使を派遣、佐藤栄作首相署名の哀悼と支援の意を記した手紙を託し、駐イスラエル日本大使は病院に入院した負傷者を見舞った。岡本の父親も、イスラエルの首相ゴルダ・メイアに謝罪の手紙を送った。日本大使館職員が岡本が日本人であると確認するまで、日本国民は、犯人が日本人という報道を信じることができなかった。 岡本は、大使館職員に対して、イスラエル国民に対して個人的な嫌悪感は何もなかったが、革命戦士としての義務だったと語った。 資料ウイキペディア
【ウットリ、今様真似流、隣人芝ファッション】
佳子さまがお召しに?「同じものが欲しい!」ブルゾンが大人気で完売!
2023/11/16(木) 22:06配信 TBS NEWS DIG Powered by JNN
国際親善のためペルーを訪問されていた秋篠宮家の次女・佳子さま。そのファッションにも注目が集まり、完売するほどの人気になっています。 【写真を見る】佳子さまがお召しに?「同じものが欲しい!」ブルゾンが大人気で完売!
11月、国際親善のため、ペルーを訪問された秋篠宮家の次女・佳子さま。
伝統の踊りをご覧になった際は真っ赤なワンピース。遺跡でアルパカに出迎えられた佳子さまの首元にはアルパカのネックレスが。様々な装いをみせられた佳子さまですが、今、あるファッションが話題になっているのです。
それがマチュピチュを訪問した際に着られていたベージュのブルゾンです。
SNSでは…「めちゃめちゃ可愛い!どこで買える?」「同じパーカーほしい!」
佳子さまの上着と同じものでは?と言われているのがこちら。お値段は4790円、現在、注文が殺到し売り切れてしまった、というのです。
Pierrot(ピエロ)プレス 友廣真由子
pierrot_shop Instagram
「まさか!本当か?という風には思いました。もしうちの商品を着て下さっていたのであればかなり嬉しいことです」2024年春ごろ、再び販売する予定だということです。TBS NEWS DIG Powered by JNN
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天才数学者 失踪の謎グリゴリ・ペレリマン博士
リゴリー・ペレルマン(1993年)1966年6月13日(57歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、レニングラード
研究分野 数学
研究機関 ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校
カリフォルニア大学バークレー校
ステクロフ数学研究所
出身校 レニングラード大学
論文 ユークリッド空間の鞍面 (1990年)
博士課程 指導教員 アレクサンドル・アレクサンドロフ(英語版)
ユーリ・ブラゴ(英語版)
ミレニアム懸賞問題の一つであるポアンカレ予想を、多くの数学者が位相幾何学(トポロジー)の観点から挑戦する中、微分幾何学や物理学的アプローチで解決したことで知られる。
サンクトペテルブルク生まれ。元ステクロフ数学研究所数理物理学研究室所属。専門は幾何学・大域解析学 (Global Analysis) ・数理物理学。電気技術者の父と数学教師の母の間に生まれる。
幼少期に母親から数学の英才教育を受け、なおかつ自らも数学や科学を好んでいた。ペレルマンの父親は頭を使うパズルに子供を挑戦させるのが好きで、チェスで遊びながら物事を論理的に考えることを教えていたとされる。
選りすぐりの秀才が集まるサンクトペテルブルク第239高等学校(ロシア語版)に入学。在学中から数学、物理学に比類のない才能を発揮する。サンクトペテルブルク大学で学びアレクサンドル・アレクサンドロフ (Aleksandr Danilovich Aleksandrov) の下でカンジダートを取得。
学生時代、16歳で国際数学オリンピックに出場した。これは当時の最年少出場記録であり、そして満点で個人金メダルを獲得した。
この時、物理学にも興味を持っており、その才能は高校時代の同窓生で当時の友人アレクサンドル・ガラバノフ曰く「もし国際物理オリンピックに出場していれば、そちらでも満点(金メダル)を取っていたに違いありません」というほどのものだった。
数学オリンピックに出場したのも数学研究所に身を置いたことも他人に強く推薦されたことが発端である。その後、ソビエト連邦の崩壊を受け1992年からニューヨーク州立大学ストーニーブルック校、カリフォルニア大学バークレー校で研究を行った。
この間に微分幾何学のソウル予想 (Soul conjecture) を解決し注目を浴びる。1995年のロシア帰国後はサンクトペテルブルクのステクロフ数学研究所に所属していたが2005年12月に退職届を提出し、2006年1月以降は同研究所に現れていない。
ロシア国営テレビが誕生日祝いの報道をおこない、ケーキを差し出したが無視している。
ポアンカレ予想の解決以前にもユーリ・ブラゴ (Yuri Dmitrievich Burago) 、ミハイル・グロモフとともにアレクサンドロフ空間 (Alexandrov space) の幾何学を構築したことで、すでに著名な業績を残していた。
アレクサンドロフ空間の構造論を生み出し、リーマン多様体の安定性定理を与えた。この分野におけるグロモフの予想 (Gromov's filling area conjecture) の解決もペレルマンの仕事である。中でもソウル予想 (Soul conjecture) の論文は驚くほど短かった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天才数学者 失踪の謎グリゴリ・ペレリマン博士
グリゴリー・ペレルマン
NHKスペシャル 100年の難問はなぜ解けたのか~天才数学者 失踪(しっそう)の謎~
放送年度:2007年度 https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010734_00000
宇宙はどんな形をしているのか。近年、この謎に迫る数学の難問「ポアンカレ予想」が、ロシアの天才数学者、グリゴリ・ペレリマン博士によって証明された。ところが、博士は数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞の受賞を拒否し、数学界からも姿を消したのである。世紀の難問はなぜ解けたのか。彼はなぜ失踪(しっそう)したのか。博士の行方を追いながら、世紀の難問に魅せられた数学者たちの100年間の闘いに迫る。
2006年、あるロシア人数学者に、数学界で世界的な権威があるフィールド賞が授与されました。
授賞理由は、この100年間誰も解けなかったポアンカレ予想という難問を証明したことでした。
ところが、受賞したグレゴリ・ペレリアン博士(1966年生まれ)は賞金やメダルを拒み、さらに数学界からも完全に姿を消してしまったのです! 実はポアンカレ予想には数々の数学者の人生を狂わせてきた過去があるといいます。
さらにポアンカレ予想は、宇宙がどんな形をしているのかという問題にも深く関わっていました。
番組は、高次元宇宙、「宇宙は最大で8種類の異なる断片から成り立つ」というサーストンの幾何化予想、そして物理学と微分幾何学を援用したというペレリアンの解決案まで、ポアンカレ予想に魅せられた研究者=「ポアンカレ病患者」たちの努力の跡をたどります。
ペレリアンはその後スウェーデンに移住して研究を続けているとか。2008年パリ・国際科学フィルムフェスティバル・脚本賞、第35回日本賞・東京都知事賞、2010年度日本数学会賞・出版賞の受賞番組です。
コメントより アカイさん
難問に魅せられた数学者たち。なぜ挑むのか?そこに難問があるから? いろいろと考えさせられました。また再放送してほしいです。
くんじゅさん
頭がいいっていうのも辛いなぁ~って思った。教授の少年時代の屈託のない笑顔が、消えてっちゃうんだよ、幸せって何!?って考えてしまいました。 そんな難問解かなくていいからこっち戻って来~いっ!!って思いました。
更紗さん
数学にドラマあり。思いもよらぬ番組でした。「ポアンカレ予測」が何なのかはさておき、それを解こうとしてきた数学者たちと、難問を解きながらも失踪してしまった一人の天才数学者。全く縁も所縁もないと思っていた数学界が、少しだけ身近に思えた素敵な番組でした。
テレビ大好きさん
孤高の天才のミステリアスな人生と数学の不思議さをうまく絡めた作品でした。わけがわからないのに感動した!
語り:小倉久寛
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