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ひざくりげ、柴介、二つの物語

2023年03月22日

歌川広重の浮世絵木版画『東海道五十三次』保永堂版(1833年)十返舎一九

東海道五十三次を歩く

歌川広重の浮世絵木版画『東海道五十三次』保永堂版(1833年)は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の発刊
駿府ウエイブ

東海道五十三次は、江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道にある53の宿場を指す。
古来、道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡が多く、浮世絵や和歌・俳句の題材にもしばしば取り上げられた。

東海道五十三次・丸子 保永堂版 /歌川広重

保永堂版 /歌川広重


なお、昭和になって京都から先の大坂(大津、伏見、枚方、守口)までを加えて東海道五十七次と唱えることもある。
また、奈良時代の律令制による東海道では、延喜式によると、伊勢の鈴鹿駅から常陸の雄薩(おさか)駅まで55駅が設置されている。 道標に、一里塚(東海道の一里塚一覧)が、江戸幕府の参勤交代のため、各宿場に本陣(旅籠)、脇本陣(旅籠)が指定された。

東海道の旅に関する200年前の物語「弥次さん喜多さん、駿州の旅」が、日本遺産(Japan Heritage 文化庁認定)に認定されました。

弥次さん喜多さんが主人公の『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九は、府中(現在の静岡市)の生まれといわれ、1802年に出版した滑稽本『東海道中膝栗毛』は 空前のベストセラーとなり、一九は日本で最初に文筆活動のみで自活することができた、今でいうベストセラー作家とされています。物語では、主人公の弥次郎兵衛は府中の、喜多八は江尻の生まれとされています。作者も主人公も静岡生まれという物語です。東海道53次の名所・旧跡、名物の食べ物などが描かれており、江戸時代の旅を記録する貴重な資料ともなっています。
歌川広重の浮世絵木版画『東海道五十三次』保永堂版(1833年)は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の発刊と、貸本屋での爆発的人気に目を付けた版元が製作を企画した浮世絵と言われており、一九の『東海道中膝栗毛』の発刊が呼び水となった訳です。

『東海道五十三次』は広重の作品の中で最もよく知られたもので、もっともよく売れた浮世絵木版画でもあり、北斎の『富嶽三十六景』シリーズとともに、名勝を写して、浮世絵に名所絵(風景画)のジャンルを確立したものとされています。
歌川広重と葛飾北斎は日本の画家の中で世界的に最も知名度が高く、また、広重、北斎に代表される江戸時代に花開いた浮世絵木版画の美術館・博物館所蔵数は日本国内より海外の方が多いとされています。

お江戸・神田八丁堀の住人、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)は、妻と死別したり、仕事上の失敗から勤務先を解雇されるなど、それぞれの人生で思うにまかせぬ不運が続き、つまらぬ身の上に飽き果て、厄落としにお伊勢参りの旅に出ることを決意した。
身上を整理して財産をふろしき包み一つにまとめ、旅立った二人は、東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都、大坂へとめぐる。京都、大阪にいき、そののち続編に入る。

二人は四国に行き、讃岐の金毘羅大権現 松尾寺を参詣し、中国に行き、宮島を見物し、そこから引き返して木曾街道を東に、善光寺を参詣し、草津温泉に行き、江戸に帰着する。2人は道中で、狂歌・洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働いては失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。

登場人物の紹介
弥次郎兵衛(左)喜多八(右)(駿府城・2012年9月)弥次郎兵衛(やじろべえ)東海道の旅に出発当時数え歳50歳(満49歳)。
屋号は「栃面屋」。肥っていて、作者によると「のらくら者」「ただのおやじ也」という。
作中では下俗で軽薄な性格設定がされているが、一方で楽器を演奏し、古今の書籍に通暁し、狂歌や漢詩、また法律文書も自在に作成するなどきわめて教養の高い人物として描かれる。駿河国府中(現・静岡市)出身、実家は裕福な商家であったが遊蕩が過ぎて作った借金がもとで江戸に夜逃げし「借金は富士の山ほどある故に、そこで夜逃を駿河者かな」と身の上を詠んでいる。江戸では神田八丁堀の長屋で密陀絵などを製作して生活していた。
喜多八(または北八)「きたはち」出発当時数えで30歳(満29歳)。弥次郎兵衛の居候。元々は弥次郎兵衛の馴染みの陰間であったが、弥次郎兵衛とともに江戸に駆け落ちしてくる。ある商家に使用人として奉公したが、使い込みをした上に、女主人に言い寄ろうとして嫌われ、解雇されて行き場を失い、弥次さんとともに旅立つ。
画像 エンゲルベルト・ケンペルの方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ(大英博物館所蔵)。

東海道中膝栗毛では、弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏である 。
一九は1795年(寛政7年)から、職業作家として多くの黄表紙ほかを出していたが、まだ大ヒットはなかった。この滑稽本の初編は、1802年(享和2年)正月に、村田屋治郎兵衛が出版した。一九が、挿絵を描き、版下の清書もするという安直さに、乗ったらしい。
名所・名物紹介に終始していた従来の紀行物と違い、旅先での失敗談や庶民の生活・文化を描いた本書は絶大な人気を博し、翌年に続編を出した。

書名はそれぞれ『浮世道中 膝栗毛』『道中膝栗毛 後篇 乾坤』で、『東海道中 膝栗毛』の外題になったのは、つぎの第3編からであった。
そして、『東海道中』シリーズは、1809年(文化6年)の第8編(大阪見物)で一段落したが、1814年(文化11年)に、旅立ちの発端(はじまり)の編が、追いかけて出された。序編が、最後に書かれたのである。

一九は、頻繁に取材の旅をしたが、京都は未見で、『名所図会』などによったのではと言われる。東海道中膝栗毛では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏(京の大仏)である。

方広寺大仏は東大寺大仏を上回り、大仏として日本一の高さを誇っていたが、寛政10年(1798年)に落雷で焼失してしまった。東海道中膝栗毛の初版刊行は、方広寺大仏焼失後であるにも関わらず、それが描かれた理由について、先述のように一九は京都は未見で、焼失の事実を知らなかったためとも言われる。
本書には狂歌が多くはさまれている。狂言、浄瑠璃、歌舞伎、浮世草子、落語、川柳などに関する彼の素養が、篇中に生かされている。長編としての一貫性がととのっているとは、言い難い。

本書は初出版から完結まで何年もかかっているが、記述された弥次喜多の江戸から大坂までの旅のストーリーの時間軸は、13日間である。
一九はさらに後続の『続膝栗毛』シリーズを書き、弥次喜多は、金比羅、宮嶋、木曾、安曇野、善光寺、草津温泉、中山道へと膝栗毛する。
『続膝栗毛』1810年(文化7年)から1822年(文政5年)にかけて刊行され21年後にようやく完結した。さらに日光東照宮に向かう『続々膝栗毛』も書かれたが、こちらは作者の死去により未完に終わった。出版の経年的なデータを、次節にまとめる。

版元は、第4編まで『通油町 村田屋治郎兵衛』であったが、第5 - 8編には、江戸の『本石町二丁目 西村源六』・『通油町 靏屋喜右衛門』と、大阪の『心斎橋唐物町 河内屋太助』も加わり、後発の『発端』のそれは、『馬喰町二丁目角 西村屋與八』であった。『通油町』は、現在の中央区日本橋大伝馬町である。

挿絵は、『発端』の喜多川式麿のほかは、ほとんど一九の自画である。
1809年(文化6年)発行の第8編末の広告に、「版木が減ったので、初編を再板」する旨が、すでに記されている。ヒット作ゆえに、古版木を加工したり、版木を彫りなおしたりの異本は多く、1862年(文久2年)の改版が知られ、その後も翻刻が重ねられて来た。
(その昔より出版システム、それを描くクリエイターの駆け引きは、このnoteと同じように変わらない 筆者)

参考画像
日本の立山黒部アルペンルートの非常識な深さの雪:Reddit高山の雪の除雪

Reddit

東海道中膝栗毛 弥次喜多

この長編を朗読するのは大変なので、「柴介」お伽話し、を使った。もともと、其の時代を再現するのは大変だし、江戸時代の「参勤交代」道中の説明も大変なので、またしたところで、今どきSNSスマホで、浮世絵広重を、見せた所で、まったくそれは「お伽話し」の世界であるし、実際、そこで人が生活していた、なんて信じられないだろうし、困ったな~、ということでした。

そんなら、「むかしむかし、あるところに、」と童話した方が、より判りやすいと創作したのでした。
参照ウイキペディア


淡路島・洲本八狸物語 「柴介物語」 一部掲載


voice.柴介物語

voice

柴助狸はな、柴右衛門の長男で、体は大きくないが、生まれてから病気ひとつせん、いつも動きまわっている元気いっぱいの子狸じゃった。

柴助は、誰にも負けん大きくて太いしっぽを持っとった。赤ん坊の時には、このしっぽで体が見えんほどじゃったそうな。

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