参考「明治維新」の政治
2022年10月21日記事
松下村塾の゛政治スタイル゛
伊藤博文(1841―1909)コトバンク
明治時代の代表的な藩閥政治家。公爵。長州藩出身。天保(てんぽう)12年9月2日、周防(すおう)国(山口県)熊毛(くまげ)郡の貧農の家に生まれる。幼名利助(りすけ)、のち俊輔(しゅんすけ)。春畝(しゅんぼ)と号した。父十蔵が家族ぐるみで伊藤家を継いだため、士分の最末端に籍を置くことになった。吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)に学び、のち高杉晋作(たかすぎしんさく)らと尊王攘夷(じょうい)運動に挺身(ていしん)、1862年(文久2)のイギリス公使館焼打ちにも参加した。翌年藩命によりイギリスに留学、1864年(元治1)ロンドンで米英仏蘭(らん)四国連合艦隊の長州藩攻撃の計画を知って急ぎ帰国、藩主らに開国への転換を説いたが、いれられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳らの処置に憤激して高杉らと挙兵、この藩内戦に勝利し、以後藩主流派として藩政改革に参画、おもに対外交渉の任にあたった。
1868年(明治1)明治政府の外国事務掛として出仕、参与兼外国事務局判事、兵庫県知事を歴任、翌年陸奥宗光(むつむねみつ)らと当面する政治改革についての建白を提出、早くも開明派官僚として頭角を現した。大蔵少輔(しょうゆう)兼民部少輔となり貨幣制度の改革を担当、1870年には財政幣制調査のためアメリカに出張、翌年の金本位制の採用、新貨条例の公布に導いた。1871年岩倉使節団の副使として米欧に出張、その間に大久保利通(おおくぼとしみち)の信任を得ることになった。1873年帰国後の政局で大問題となった征韓論争には、大久保、木戸孝允(きどたかよし)を支持して征韓派を退け、その直後の政府改造で参議兼工部卿(こうぶきょう)となった。1875年には、その前年に台湾出兵に反対して下野していた木戸の政府復帰を図って大阪会議を斡旋(あっせん)、漸次立憲制への移行方針と元老院、大審院などの創設を決定した。
士族反乱や西南戦争の処理を終わって、新しい体制への移行を試みようとしていた大久保が1878年に暗殺されると、その後を継いで内務卿となり、明治政府の中心人物となった。琉球(りゅうきゅう)処分、侍補制度の廃止、教育令の制定などを推進した。他方、元老院起草の憲法案が政府首脳を満足させず、諸参議の憲法意見を徴することになり、1881年大隈重信(おおくましげのぶ)の急進的な憲法意見が提出されると伊藤はこれと対立、同年のいわゆる明治十四年の政変によって大隈ら開明派官僚をいっせいに追放するとともに、1890年の議会開設を約束した政変劇の主役となった。翌1882年渡欧し、ドイツ、オーストリアで憲法調査にあたり、帰国後の1884年宮中に制度取調局を創設してその長官となり、立憲制への移行に伴う諸制度の整備に着手した。同年華族令を制定して新しい華族を皇室の藩屏(はんぺい)としたのをはじめ、1885年には太政官(だじょうかん)にかえて内閣制度を創設し、初代首相に就任した。また翌年から井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎(かねこけんたろう)らと憲法、皇室典範のほか貴族院令、衆議院議員選挙法などの草案の起草に着手し、1888年枢密院が新設されるとその議長として憲法草案などの審議にあたった。
1889年(明治22)大日本帝国憲法の発布直後に、「超然主義」の立場を鮮明にし、政党の動向を顧慮することなく議会運営にあたることを宣言した。1890年の議会開設に際しては初代の貴族院議長となり、以後山県有朋(やまがたありとも)、松方正義(まつかたまさよし)両内閣の議会運営に助言を与え、民党との対立が激化すると、1892年自ら政党結成に着手しようとするが、果たせなかった。松方内閣の倒壊後は、元勲を網羅して第二次内閣を組織し、条約改正を実現し、日清(にっしん)戦争の遂行にあたった。1898年第三次内閣を担当するに際しては自由・進歩両党との提携に失敗し、戦後経営の財源として議会に地租増徴案を提出して政党側の激しい反対にあうと、政府党結成に着手するが、政府部内からの反対もあって挫折(ざせつ)、挂冠(けいかん)(辞職)した。その後、朝鮮、中国の視察旅行に出発、中国情勢の緊迫化を痛感して帰国。そうした情勢に対応できる国内体制の再編強化を企図して政党改造を構想、1900年(明治33)立憲政友会を結成し、その総裁となる。同年政友会を背景に第四次内閣を組閣したが、翌1901年には貴族院の根強い反発にあい、さらに財政方針をめぐる閣内不統一のため総辞職した。この年日英同盟論がおこると、日露協商の可能性に期待して訪露するが、具体的な成果は得られず、結果的には1902年の日英同盟締結を促進する役割を果たした。帰国後は、野党の立場を貫こうとする政友会の統率に苦悩し、1903年には総裁を辞任して枢密院議長に就任し、元老身分に復帰した。
以後元老として内外の重要政策の決定に関与し、とくに日露戦争の遂行と戦後における朝鮮問題、満州問題の処理には重要な役割を果たした。1905年韓国統監府が設置されると、初代統監に就任、韓国の外交権を掌握し、逐次内政の諸権限を収奪して植民地化を進め、韓国併合への地ならし役を務めた。1909年(明治42)統監を辞任し、同年10月、日露関係を調整するためロシアの蔵相ココーフツォフと会談するため渡満、26日ハルビンに到着した際、駅頭で韓国の独立運動家安重根(あんじゅうこん)に暗殺された。
幕末の長州藩で尊王攘夷運動に活躍し、イギリスへの留学が欧米への開眼となり、とくに明治維新以後は国際通として欧米列強の動向を慎重に顧慮しながら内外政策を推進した。他方、対朝鮮・中国政策の面では強硬姿勢をとり、日清戦争の講和交渉や、日露戦争中から戦後における対韓政策などでは、日本の利益実現のため強圧的交渉を推進している。国内政策の面では、明治初年より開明派と目され、諸制度の近代化を積極的に推進するとともに、立憲制への転換を主導した。議会開設にあたっては、当初「超然主義」を宣言して政党無視の立場をとろうとしたが、初期議会の経験から政党の必要を痛感すると、自ら政党組織に乗り出すなど、状況の変化に対して柔軟な政治姿勢を示した。こうした政治路線は、山県有朋らの保守派官僚層との対立を表面化させることになり、彼らは外交面で伊藤の立場を軟弱外交として攻撃し、またその政党結成に対しても拒否的反応を示した。しかし、明治天皇の信任は厚く、明治期を通じて元老中第一の実力者として内外政策に大きな影響力を行使した。
[宇野俊一]『春畝公追頌会編『伊藤博文伝』全3冊(1940・統正社)』▽『岡義武著『近代日本の政治家』(1960・文芸春秋新社)』▽『遠山茂樹編『近代日本の政治家』(1964・講談社)』▽『伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書』1~9(1973~1981・塙書房)』▽『戸川猪佐武著『明治・大正の宰相1 伊藤博文と維新の元勲たち』(1983・講談社)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書1 伊藤博文』(2005・ゆまに書房)』▽『豊田穣著『初代総理 伊藤博文』上下(講談社文庫)』▽『羽生道英著『伊藤博文――近代国家を創り上げた宰相』(PHP文庫)』
世界大百科事典いとうひろぶみ【伊藤博文】1841‐1909(天保12‐明治42)明治時代の代表的な藩閥政治家。長州藩の貧農の家に生まれ,のち父が伊藤家を継いで士分となる。吉田松陰の松下村塾に学び,高杉晋作らと尊王攘夷運動に挺身し,1863年(文久3)イギリスに留学したが,4国連合艦隊の長州藩攻撃計画を知って帰国,藩論の転換をはかったが失敗した。幕府の第1次長州征伐に対する藩首脳の処置に反対して高杉らと挙兵,藩内戦に勝利して藩の主導権を握り,幕府との武力対決に備え諸改革を進める中でとくに武器の輸入や他藩との交渉の任に当たった。帝国憲法発布前の1886年(明治19)に各省官制を制定し行政機関を整備するのに合わせて帝国大学令を制定し,東京大学などの官立高等教育機関を再編して帝国大学(現,東京大学)を創設。大学の目的を「国家ノ須要」(同令1条)に結びつけるとともに,法科大学をその中核に位置づけ,法学科には体制に忠実な行政官僚の養成を,前年に文学部から引き離して法科大学の一部とした政治学科には国家学会を創設して新国家体制のイデオロギー的支えを求めた。また,工部卿時代の1871年(明治4)に帝国大学工科大学の母体となった工部大学校の設立建議を山尾庸三とともに行うなど,直接間接に発足時の日本の近代大学に与えた影響は多岐にわたる。著者: 舘 昭 伊藤博文いとうひろぶみ
NHK 解説 未解決事件「File.5 ロッキード事件」「ロッキード問題に関する特別委員会」山縣有朋※第二帝政期の1870年7月19日に起こり、1871年5月10日まで続いたフランスとプロイセン王国の間で行われた戦争である。ドイツ諸邦もプロイセン側に立って参戦したため独仏戦争とも呼ぶ他、フランス側では1870年戦争と呼称する。戦後の国際外交はビスマルクの思惑通り進み、1873年、ドイツ帝国はロシア、オーストリア両帝国と三帝同盟を結ぶ。ウィキぺデアこの西ヨーロッパ戦争混乱模様を諜報活動していたのが日本陸軍の「山縣有朋」だった。
すべて金に支配される人間の欲得
明治維新のゴーストライター ?
山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦し、越後口では御陵衛士残党の篠原泰之進や高鍋藩兵と共に戦った。その活躍は、「勤王美談野村三千三」として京都で芝居にもなった。gold-bitcoin-large-extent-640x336明治維新後に山城屋和助と名をかえ、新政府の軍政にたずさわるようになった山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となり、横浜の南仲通り3丁目に店舗を構えた。明治4年には、東京の本石町にも店を出した。
長州人脈を活かし、軍需品納入の商売は繁盛した。明治5年(1872年)、彼は山縣ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出す。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。
軍が融資した金額は総額64万8000円に達し、山城屋は一時は500人以上の店員を使うほど隆盛した。しかし、普仏戦争勃発の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗。山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡った。ところが、パリのホテルに滞在し観劇や競馬に興じ、女優との交際や富豪令嬢との婚約話など、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使鮫島尚信が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した(山城屋事件)。
当時、陸軍省では、長州閥が主導権を握っていた。これを好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾する。山城屋と最も緊密だった山縣有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、高島嘉右衛門や堀越角次郎ら豪商に協力を求めたが叶わず、借りた公金を返済する能力が無い事が明らかになっただけであった。山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶った。窮地に立たされた山城屋は、同年11月29日、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。
山城屋の自殺により、山城屋事件の真相は究明されないまま終わった。
ただし、山縣有朋が明治6年3月付で、在パリの鮫島弁理公使に書いた書簡には、「(和助は)帰国後商法種々手違之故をもって旧臘(昨年の和暦12月)自刃におよび相果て、自首致候手代とも即今裁判所にて取糺中にこれあり」とあって、死後も司法省によって事件が追及されていたことがわかる。
墓所は、横浜市の久保山墓地と東京都杉並区の浄土宗松苔山峯巌院西方寺墓地の2ヶ所にあり、少なくとも昭和17年まで、両墓ともゆかりの人々によって篤く弔われ、神奈川県防長郷友会が発行した「山城屋和助」にはその法要の写真が載せられている。
日本に初めて西欧式の牛革製の鞄を紹介した人物とされる。また、祝日に各家に国旗を掲揚することを力説し、大祭日における民家での国旗掲揚を政府に認めさせたのも山城屋和助と言われている。武人として酒豪として知られ、剛邁な気質は商人となってからも変わらず、奇行もあった。和歌に親しみ、号を正風と称した。和助の自殺騒動は、多くの書物に書かれ、芝居や講談にもなった。
「お浪」という妻がおり、和助没後は本郷湯島天神坂で煮豆屋を営んでいたが、横浜の薬種商に引き取られ、70歳で病死した。.補注. 山縣有朋と山城屋事件隠れたる事実明治裏面史. [正編]伊藤仁太郎 著 (大同出版社, 1939)
(資料ウイキペディア)
司馬遼太郎と明治維新.2 記事
「坂本龍馬」を偶像に仕立て挙げた司馬氏の功績坂本龍馬、今年没後150年を迎える( 1867年12月10日)。幕末のヒーロー・坂本龍馬。薩長同盟と大政奉還の立役として知られるが実のところは定かでない。殆どと云っていいくらい「龍馬」は司馬遼太郎が作り上げた人物偶像であり、また「明治維新」を語る上で、そのキャラクターは必須である。また「暗殺」という死に方もカリスマには必須条件である。そこにスポットを当てたのが司馬遼太郎であり「司馬史観」という一定の基準を示した。
ちょうどそれは「新聞メディア」が健全で社会の信頼を得ていた時代という背景が重なり対となって司馬史観を肯定していた。
歴史書は過去の史実を語るものだが、その時代を書いている本人でさえ、時代を生きていないという非現実をリアルに描くというのは、そもそも嘘、虚構を語っているのであり、真実ではない。それを充分承知しているからこそ膨大な資料を集めて時代考証をきっちりするのである。それでも、それを基にした映画テレビ脚本など、嘘臭いものが散見する。
そうした中の「被写写真」というのは、無条件に説得力がある。(現在、その加工技術が高度なため反対に写真そのものの信憑性に疑いがある)。たった1枚の写真がすべてを語る人物像も珍しく、龍馬画像ネット検索すると膨大な数の写真がでて来る。かりに司馬氏が原稿に書く100枚と、龍馬1枚の写真はそれに同等であるといったら云い過ぎだろうか。
以前は、この司馬史観による坂本龍馬はあまり好きでなかった。というのは話しがよく出来すぎていて、地方藩主土佐藩の一介の侍が脱藩して朝廷と徳川政権と、それに対抗する薩摩長州土佐勢力の仲介者ファクサーとして暗躍するという設定は、エンターテイメント劇としてはギリシア神話オデッセイア的で興味をそそるが、はたして、そこまで自由に動けるか、という懸念があった。当然、身内からも「スパイ」嫌疑がかけられ信頼性が疑われる、ということもある。結果的には、暗殺という誰からも支持されないという死に方は、まさにそれだった。
時代はそれより少し経過して、明治が始動したころの話だが、政府軍が海外の諜報活動していた時期、「山縣有朋」の私的腹心として「山城屋和助」という人物がいた。有朋は陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。しかし、その後も関係は維持していたが、フランスで贅沢三昧していた山城屋和助の行動が国内に知れ、有朋に呼び戻され、消費してしまった軍費の負債を命でつぐなえと有朋に迫られ自害して清算した。その内容の詳細については伝記も調書もまた、後の小説も出されていないので不明だが、それで一番救われたのが「山縣有朋」本人ではなかったかと推察している。
その死に方が「坂本龍馬」とよく似ているな、と思うことがある。暗殺と自害の別はあるが、いずれも本人が存在していてはまずい、という状況にあり、抹殺することで溜飲を下げる人間が多数いたというバランス感覚だ。その大基の原因はなんであったのか、ということになるが、よくある話で、知ってしまうと、とるに足らぬ理由であったり、訊かなければよかった話しというのはいくらでもある。
「山城屋和助」に限っていえば、「フランスで豪遊」というのはまったくの嘘で、ヨーロッパ生糸相場崩落でそこに投機した軍費が大幅損失を招いてしまった。また、所持していた巨額現金がある理由で使えなくなってしまった(偽造札発覚)という理由等、さまざまな憶測が可能だ。ただ、それを証明する物品がどこにもないという点で、余計にミステリアス仕立てになる。「坂本龍馬」の暗殺理由に至っても同様で、いまだに確たる理由が見当たらないし、直接手を下した藩、軍、組織など判っていない。
そうした諸事厄介な歴史の闇部分を含めて、判りやすい小説というスタイルで、社会に提示した功績は評価にあたいする。その物語の信頼性とか、時代考証の正確さとか、多少は許容範囲としてやり過ごしても、その内容は学校で教えるリテラシーに匹敵する。
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