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古代秘宝の光は黄金の輝き

--シルクロード~「ガラパゴス、ジャパス」--

今朝の国際ニュース、それと国内ニュースを見ても、此れと云った書くべき題材はありません。

イスラエル関連では、その戦争終結「終い」準備とか、一方的な情報のようですが、敵対相手がその気で反撃するとしたら、この紛争は、終わらない、ということですから、その報道の意図も不明です。

またウクライナ関連では、現地投入兵が、ロシア以外の国から傭兵派兵する、というニュースがあって、いつものやり方で戦うというのは、常套手段としても、人の命のバランス感覚はどこにあるのか、という意義を考えざるを得ないことです。(うしろの高い段の上で独りほくそ笑むのがだれなのか、世界中の人が知っている)

「いったい辞める気があるのか」、という果てしない疑問は、当時者も、あらゆる宗派の教会も願望しているものの、だれも判らない、止められないと云うのは、熱願冷諦がいうように熱い恋も、時が経てば冷えてしまう、ことの例ですが、原子炉のようにつねに熱いばかりだと、何れ世界規模大火になることは判ることで明白でしよう。

そして、今起きているその「鍔迫り合い」(つばぜりあい)は、日本の古代歴史「古事記」にもあるように、国を治める、民を統治する、それに尽きるわけですから、云ってみれば戦争史なのです。

西洋史のギリシア、メソポタミアにしても同様に戦いの歴史叙事詩ですから、そこには常に勝者の弁として語られ、記録されるのです。

古事記には八百万の神々が、名を連ねていて、その当時の絵も写真もないわけですから、字面で性格判定しなくてはいけない。そこが最大の難関の一つだと思ってます。だからこれを今のITリテラシーに変換したら判り易いと思いました。

「アマテラスオオミカミ」は、絶対仮想擬人として別格の「ブロックチェーン」ボックスに封印しておき、それ以外の神武とか日本武尊は、中央集権トップのCEO のひな壇中央において、その下のしもじもには、資本民主主義標榜の的、ガーファなど配して、アップル、ジョブス、グーグル、ペイジ、フェイスbook、ザッカ―バーク、アマゾン、ベソス、元老院慈善組にマイクロソフトの、ゲイツ、など仮想バーチャルネイムを付けて読んだら、キャラクターが覚えやすいと思うのです。

と、おもいましたが、現行でさえその組合組織は「村八分」の風聞にさらされており、今話題の「AV車またChatGPT」に至っては、次世代期待とか、自虐スパイラルで、過大賛否両論渦中で、なにーがホントなのが、まったく不明という塩梅です。
まあ余命尽きる直近では、一機、急激に膨らむ、といいますから。
そんなことで、その策提案は、シュミレート段階で廃案となりました。

その対局に仮想通貨「創生」の日本人クリエイター「さとしナカモト」が、2008年、リーマンショック世界金融瓦解と同時に無名人として、ある論文を世界にアップしました。 以下詳細

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2008年11月1日、metzdowd.com内の暗号理論に関するメーリングリストにナカモトは電子通貨ビットコインに関する論文を発表。

https://bitcoin.org/files/bitcoin-paper/bitcoin_jp.pdf
ビットコイン: P2P 電子通貨システム PDF
Satoshi Nakamoto
satoshin@gmx.com
www.bitcoin.org
Translated in Japanese from bitcoin.org/bitcoin.pdf

日本語訳PDF
https://www.kk-kernel.co.jp/qgis/HALTAK/FEBupload/nakamotosatoshi-paper.pdf

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そのたった10枚程度の論文は、世界の金融システムと同等の機能を果たすという画期的なものだった。がしかし、世界エネルギー原資石油による民主世界経済支配(ドル建欧米主導)の強大な支配権と同じ効果力をもつ仮想通貨は、巨額既得権者らにとっては、破壊者以外の何モノでもなかった。

「サトシ」?は、それに対する反論弁明、特許権、金銭を独占することなく完全フリーとして、誰にでも使用を認めた。さらに、それによる個人推定所得は数兆ドル換算(100万BTC現時価5百万¥12/13)と見積もられているが、それを現金化通貨にしたという痕跡はどこにもないという。(論文はノーベル賞クラスに相当する内容だという)
すっきり云ってみれば学術売名行為も権益行使もなく、極端な物言いで換言することになれば、そこいらの街路歩道で暮らす「ホームレス」となんら変らない。
神という物理的なものを観たことがない、という人(地球全人口)に「そのカミはそこにいるのがそれだ」、と説明するだろう。


個人的な一時タイムスリップの中

昨年(2016年01月)、東京上野の国立博物館で古代エジプト展を見た。古代エジプトについては、テレビで詳細に放送するので、改めて現地までいって(エジプトでなく上野)観ることもないが、秘蔵品(埋蔵)などの金細工など目の当たりにすると、そのミクロ的装飾技法を観察すると驚きを越して唖然とするばかり。
なにしろ電子顕微鏡を見て細工しているのではないか、というほど小さな超絶技巧を凝らしている。とてもそれが5000年前のものだと思うことが難しい。(2016年01月05 シルクロード~ガラパゴス ジャパス 復刻引用記事)

そうした観点で、現代工芸美術を較べてみると、それを凌駕しているかと問えば、けっしてそんなことはない。よもやコンピーターは創造していないにしても、それらに匹敵する。

よく云われることだが、細かい工芸品など西洋人よりもむしろ日本人の方が上だ、というのは完全に誤りで、現代社会で流通しているすべての生活用品は、西洋発祥の物が殆どで、その完成度も高い。(厳密にはメソポタミアに代表される西アジア近隣国の古代史にあり、宗教的な区分けでいまの歴史は語られている)。


現代復刻装飾品古代印 スカラベ


日本人は、そうした物理的なメカニズムを観察する能力に長け、原本以上のものを作って今日の経済国家を作り上げた。それを卑下的表現で云えば猿真似ということになる。
したがって猿真似の熟思度が高いほど、もの作りが旨いことになる。それが今日の中国だ。

画像 ヒエログリフ エジプト遺跡発掘

ウイキペディア

※2012年 上野の森美術館 メトロポリタン美術館とは「エジプトの女王と女神」

※2014年 東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、メトロポリタン美術館 KINGTUT ツタンカーメン展 ~黄金の秘宝と少年王の真実


ト辞(ぼくじ)シンイ説(亀甲ぼくじ)による「讖緯説」
古事記、和銅五年(712年)太安万侶(おおのやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上した歴史書で、現存する最古の本。稗田阿礼(ひえだのあれ)記憶をもとに帝紀と旧辞を誦習(しょうしゅう)させて天皇に献上した、という古事記の定説。

その当事の時代背景として、何を根拠に国家創建という台本を書いたのか、ということを認識する必要がある。

その殆どは古代中国思想の卜辞を起源とする陰陽五行思想にあり、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想を元にしている。

オランダの神学者「スピノザ」(1632-1677)は、神の存在を数学的に説明しようとした。《定義》、神とは全ての物の究極原因で自らはなんらの原因のもたない存在者である。定理、自らにおいて存在し自らによって解され、絶対無限の実有である神は唯一である。自然における万物は神あるいは属性の表われであり神=自然である。

と説明し西洋哲学の基本、ものの定義を明確に示している。その考え方は東洋思想と決定的に異なり、あらゆる事象において「定義」が理論を支配している。日本人の思想は、西洋の模倣知識によって、その偏重が著しく「スピノザ」の学問を疑うことなく安易に受け入れても「讖緯説」を全面的に信頼することはないだろう。

「讖緯説」.1

神武紀元が讖緯説によって作為されたことは、すでに本居宣長や伴信友によって論じられたことであるが、那珂通世博士はそれを受けて、朝鮮史その他の紀年と参照して、神武紀元は約600年、不当に引きのばされていると判定し、百歳以上の天皇や武内宿祢のような三百歳以上の重臣が現われているのは、紀元延長の故だと論じた。

「讖緯説」.2

中国の漢時代以降より盛んになった思想の讖緯説は、陰陽五行説や占星術、暦学の知識なと使って歴史や政治上の変革、また未来予言しようとするもので、その当時の先端的国際標準思想とされていた。その中に辛酉(しんゆう)・甲子(かっし)という大変節の説があり、辛酉年は革命、甲子年には革令が起こると予言している。もし、その記事が信憑性をもち信頼できる情報なら国を揺るが騒動ネタである。それで思ったのは上記の「辛酉・甲子」という大変節の説に相当するのではないかと思った。

そもそも日本歴史は神代の時代より始まっているが縄文・弥生時代のことは明らかにする情報がないので、書かれていないが、歴史上の初代神武天皇は年表に明記されている。では、それを作り上げたのは誰なのか~、ということである。
聖徳太子は蘇我馬子と協力して国史の編纂に着手する。その際、国史を位置づけるための建国の定義が必要となる。そこで当時国際世界の間で使われていた讖緯説を動員したのである。そこに歴史上の最大サイクルである「辛酉・甲子の大変革」の説を用いた。

その理論より導かれた年紀を大胆に策定した。

601年(推古天皇9年)が辛酉の年にあたり、これより逆算して1260年さかのぼった紀元前660年をもって神武天皇の即位元年とする。それ以後の事件を適当な時代にあてはめ歴史書としての体裁を繕う。後に編纂された「日本書紀」の紀年もこのとき採用した紀年法がもとになっているといわれる。

ここに誕生した日本国史、それを神武天皇即位元年とした。それは讖緯説による空想のものである。しかし讖緯説は世界的に権威を持っていたので説得力があったとされる。
歴史上最大サイクルとされた最初の年である辛酉には大変革が起きる。一元は60干支の一巡すなわち21元×60年=1260年となる。太子はこの説に従って推古天皇9年、辛酉601年、から1260年を遡った前660年、を日本建国の年と定めた。

「岡田芳朗・暦ものがたり」~抜粋

では、その起点(辛酉601年)とした時間から未来へと進んだ、それから1260年後の歴史上に何か大変革があったのか。推古天皇時代より1267年後の1868年は「戊辰戦争」が始まった。日本国家の革命的大変革徳川幕府が崩壊し、明治時代の夜明けである。甲子は「政治の交替の年」としているから、多少のズレを考慮しても1260年との誤差7年は無いに等しいと考えたい。

その讖緯説は、信頼に足る明確な学問か、という問いも考えておく必要がある。占星や陰陽五行説、シャーマン呪術など、近代科学から見れば胡散臭いシロモノとして見られる。しかしギリシア自然科学の時代から見れば始まりでは大差ない。
一例である、ここに示した推古天皇時代より1267年後の1868年は「戊辰戦争」は、根拠のない数字の摺合せであると揶揄されても、それを覆す定義・定理をもたない。
仮にもし西洋の文明が正しいというのであれば東洋的理論の中に定義がセットされていないからと、自虐的なひがみだけはしたくない。
当時の暦学の最高水準と信じられていた讖緯説(しんいせつ)に立って、辛酉神武紀元を推定した。まさしく推定であって史実とはいえない。しかし那珂博士の短縮論も一つの推定であって、これを絶対視することはできない。那珂説をさらに200年ほど短縮すべしという説も現われた。

自著ブログ 2015年06月15日 (暦ものがたり引用

日本では平安時代に三善清行がこの讖緯説の専門家となり、901年の辛酉の年に、縁起が悪い」ので元号を「延喜」と変えることを進言した。

古事記・日本書紀と讖緯説
神武天皇から応神天皇・仁徳天皇あたりまでの年齢が異常に長い(100歳以上が多い)ことから、記紀にこの讖緯説の影響があるのではないか?というのがよくある説。
つまり推古天皇の601年から1260年前を神武天皇の即位の年にした…(記紀をまともに採用すると神武天皇の即位は紀元前660年になる)というもの。
日本に干支が入ってくる以前であるはずの天皇でも日本書紀では干支の記述があるので、これは後から計算したか、捏造(年齢の延長)の可能性は高い。

なぜ年齢を伸ばした?
讖緯説が事実とするなら、なぜ年齢を伸ばしたのか?という問題が発生する。
皇位の長さを記述するには、「年齢を伸ばす」か「天皇を増やす」しかない。年齢を伸ばした、ならば神武から応神までの天皇は全て実在していると考えるのが自然となる。

讖緯説は妥当か?
何事もないように推古天皇の辛酉を基準として…とありますが、なぜ推古天皇の辛酉を基準とするのか分からない。辛酉革命はようは「王朝が変わる」ことです。
では推古天皇で「王朝が変わった」か?というと、そんなことは無い。それに「推古天皇を基準にして」ということは、古事記や日本書紀で「推古天皇以降は別王朝」と白状するのと同じです。それでは古事記や日本書紀の一大テーマである「皇統」が崩れ去ってしまいます。この讖緯説自体が、数字のトリックではないかと思います。

讖緯逆算説 
日本書紀は神武天皇の即位をBC660年に当たる辛酉の年に設定している。明治時代、那珂通世(なかみちよ)は、これは讖緯説によって計算されたのだという説を唱えた。この説は、推古九年(AD601年)の辛酉年を逆算起点として1260年遡った辛酉年を日本開国の年としたのである、という説。以上の那珂通世の説を「神武元年讖緯逆算説」と仮名する。

那珂通世の説のバリエーションとしては、岡田英弘の説がある。彼は、一蔀1320年説を採用してAD663の白村江の敗戦(=百済滅亡)を逆算起点とし(ただしこの年は甲子年ではなく1年前の癸亥年)、一蔀を溯った甲子年(神武四年)に最も近い辛酉年を神武元年としたのだという説を唱える。

反論
しかし第一には那珂通世の1260年説は一蔀1320年を十分に否定できていない。従って逆算起点は天智称制元年(AD661年)の辛酉年である可能性が残る、第二には推古九年(AD601年)は逆算起点にふさわしいような重要な事件は見当たらない、等の批判が昔からある。
推古九年説にしろ天智称制元年説にしろ、逆算起点にふさわしい大事件がないという点では説明が苦しいことにかわりはない。

神武元年から1260年たった辛酉年はAD601年で、聖徳太子が斑鳩宮を建てたというだけで格別なにか重大な事件があったわけではない。1320年説では、1サイクル回った辛酉年はAD661年で、天智天皇元年だが称制の元年であって正式に即位した元年ではなく、白村江の戦いの年ではあるが、この年は開戦しただけで決着したのは翌年だし、区切りのいい大事件は無い。つまりどちらも実際の歴史にあてはめた場合、しっくり来るような説にはなっていない。

岡田英弘の説では辛酉は革命、甲子は革令という讖緯説の論理を無視して、とにかく大事件なら辛酉でも甲子でもどっちでもこじつけてよいという考えにみえる。
むしろ革命にふさわしい百済滅亡(白村江の敗戦)を革令であるべき甲子(の前年)に当てている。
甲子年AD664年には冠位26階の制定ぐらいでめぼしい大事件がない。冠位26階は既存の冠位制度を微修正しただけで、革命の後を受けた新政府発足を思わせる革令というほどの大事件には程遠い。
さらに、もし岡田が辛酉革命も甲子革令も同じようなものだと考えるのなら、なぜ一蔀を溯った甲子年をぴたり神武元年にしなかったのかの説明が苦しい。

これだと1320年の大周期よりも60年ごとにくる小周期の辛酉の方が重要であるようにもみえる。ちなみに、実際に甲子年に初代の王が即位したとする例として、新羅の建国伝説がある。これは『日本書紀』より後に作られた話であるが。
さらに岡田説では、讖緯説の大サイクルの起点はAD184年であり、その1周前の起点はBC1137年と自動的に定まるから、日本書紀のBC660年説は讖緯説にぜんぜん噛み合わず、むしろ讖緯説を否定しているともいえる。

(岡田 英弘〈おかだ ひでひろ、1931年(昭和6年)1月24日 - 2017年(平成29年)5月25日〉は、日本の東洋史学者。東京外国語大学名誉教授。東洋文庫専任研究員。専攻は満洲史・モンゴル史であるが、中国・日本史論についての研究・著作もある。)

この他にも、本項にて既述の通りであるが再度要約すると、
讖緯説によって逆算されたとしても、逆算起点とされる年次が選ばれた理由が不明瞭のままである、とくに天智天皇を起点とするのは『日本書紀』の編集方針からいって不自然。
讖緯説が信じられるようになったのは律令国家から王朝国家へ移行して以降だが、この移行期に平安貴族層の人生観や世界観に大きな変化があって迷信の時代に突入することは家永三郎等の研究によって夙に知られている。
(※夙・しゅく・つとに、歴史民俗用語。 中世・近世にかけて,主に近畿地方に住み賤民視された人々。寺社に隷属し、古くは捕吏、清めの仕事をした。近世では農業に従事する一方、竹籠・箕(み)・土器作りなどをして行商し,また雑芸能も行なった。夙の者...など。)

三善清行はまさにその時期にずばり該当する。それ以前には正統的な儒教的教養からすれば讖緯説は異端であって公式な歴史書に採用すべき理論でないと考えられらたのではなかろうか。
『日本書紀』編纂時点で日本国内に讖緯説に類する素朴な迷信が存在したことは判明しているが、三善清行がいうような高度に体系化された理論が存在したとか、それが広く支持されたり信じられていたとか等という記録も形跡もなにもない。

神武天皇元年を推参根拠となったという問題の理論は、中国の讖緯説には存在しない。この日本独自の讖緯説は『日本書紀』編纂時点より後の時代に日本国内で捏造されたものである疑いが濃厚。

讖緯逆算説は、明治初期の学説であるが、当然ながら当時も反論は賛同論と同じくらい学界の内外問わず多々あったものと思われるが現在ではそれらを一覧することは不可能である。神武天皇架空説と日本書紀年代造作説が常識化した戦後まもない頃の歴史学界では何ら深い検討もされずもてはやされ、今も学界の内外で広く流布している。

(神武天皇即位元年が実際にはいつ頃であったかという詮索については、参考事項をノート:皇紀(神武天皇即位紀元)に仮設しておく)(記事引用)

「讖緯説」.3 

画像 エジプト「オベリスク」石塔


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