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「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」などいう

神話とか、古代史を知ってどうするの?

という疑問にお応えいたしましょう、というほどの学識見識、もありませんので、気楽に読んで頂けるとありがたく思います。

というのも、2.3日続いたメールスパム被害が、一応決着をつけて、切り替えたというわけです。でもメーラー内痕跡を見ると、いまだに、その犯人は様子を伺っていて、何かやろうと企んでいるようです。

その意図がまったく判らないし、要求もない(身代高額金銭要求などあったら困るし)ネット上で人から怨みを買うような罪は、犯してないとおもいますが、そこいらは人の心理のアヤで、なんともいえない。

ネットについては「誹謗中傷」が簡単にやり易く、また個人攻撃も安易にできますので、数年前でもあったし、今でも攻撃されている人もいると思われます。放置しておくと、中傷が過激になるので、法的処理されるのがいいでしょう。

そしていま中東では戦争真っ只中で、その情報戦でも武器交戦と同じくらい、フエィク情報合戦で、世界は、そのネタを読むわけですから、なにがなんだかさっぱりわからないという具合です。
いやいや、そんなこと書くとまた、的にされかねないので、止めにしましょう。

久しぶりに古代史「古事記」に戻りました。といいつつ、今書いているのが筆でなく、電子キーボートで、その臨場感などありませんし「ウンブキ」と書いたとしても、その生活感など、予想もできません。

それでいつも思うのは、古代史というのは、われわれの祖先追体験記、と誰もが認識していて、当時の生活を想像しますが、多分、全く違ったレベルの生活だと思います。

基本は「性」にあって子孫繁栄(神格化祈願)は、いうまでありませんが、では「種」(また遺伝子保存)はどうやって残すか、という重大な課題はどうしていたのか、となるとあまり証拠がない。たまにあるのか妊婦とか、性器の像とか、また戯曲による物語セックス(岩戸伝説)描写で性交を奨励するものです。

ただ、それだけでは「種」存続しません。では何かといったら、敵対者を抹殺して、種の正当性を誇示して、それを肥大化させて、国の社会を構成するという世界歴史でした。その結果が、今している中東、そして西アジアの紛争です。

そんなことを推理してみると、古代史の歴史は殺りくの連続性で、それは今も続いているという人間の業でした。

日本の古事記には何がかいてあるか


『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。

一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46センチメートル (cm) 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する。

後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也 (咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)
とあり、戦国~後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなる。

平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなった(考古遺物の節を参照)が、現存する桶代(御神体の入れ物)の大きさから推察される神器の鏡はもっと小さい。
いずれにせよ、その特大の大きさから、後に三種の神器の一つである鏡を指す固有名詞になったと考えられている。

伊勢神宮の八咫鏡

天照大御神の「御神体」としての「八咫鏡」は神宮の内宮に奉安されている。
神道五部書や類聚神祗本源等によれば、この「八咫鏡」の見分記録には「八頭花崎八葉形也」、「八葉中有方円五位象、是天照大神御霊鏡座也」とある。この「八咫鏡」は、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっている。

この「神宮の八咫鏡」の「最初の姿と大きさ」は、考古学者原田大六によれば、福岡県糸島市にある「平原遺跡出土の大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)と、同じ形状で同じ大きさのものではなかったか」と考察して、それを著書に記している。これは『延喜式』伊勢大神宮式、『皇太神宮儀式帳』において、鏡を入れる桶代の内径が「一尺六寸三分」(約49cm)としており、46.5cmの大型内行花文鏡を納めるにはちょうど良い大きさであることから。

原田によれば「御鎮座伝記を読み解いてみると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかに焼失してしまい(一度だけとは限らないかも、とも)、その時に新たに作り直された八咫鏡は、現在に残る桶代(御神体の入れ物)の大きさから推定して、直径46.5cmの大きさではなくなっている」という。また、「図象も実際に見て模写するべくもないであろうから、これも変化しているだろう」という。

宮中賢所の八咫鏡

皇居の八咫鏡は、賢所に奉置されていたことから、その鏡を指して賢所(かしこどころ)ともいう。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」と呼ぶか、またはその通称である「内侍所」といって、これを言い分けたという。しかし後世になると内侍所も神鏡のことを指す言葉となった。

内侍所の神鏡は天徳4年(960年)、天元3年(980年)[4]、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文を提出させた。翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。

平安時代末期、平家の都落ちとともに西遷し、寿永4年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇とともに海中に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。

室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)に起こった禁闕の変で、後南朝勢力が宮中を襲撃した際、三種の神器をのうち宝剣と神璽は奪われたが、神鏡のみは難を逃れ、翌日近衛殿に移された。

宗像大社邊津宮の八咫鏡

筑前国風土記は現存しないが、逸文に明確に記述される。古代の記録では八咫鏡を依代とするのは、神社では伊勢神宮と宗像大社邊津宮だけであるとされる。

神話

記紀神話によれば、天照大御神の岩戸隠れの際に天津麻羅と伊斯許理度売命が作ったとされ、『日本書紀』には天照大神を象って作られたことや、試しに日像鏡や日矛を鋳造したことが伝わる。天宇受売命が踊り狂い、神々が大笑いすることを不審に思った天照大御神が岩戸を細めに開けた時、この鏡で天照大御神自身を映して、興味を持たせ、天手力男神によって外に引き出した。そして再び高天原と葦原中国は明るくなった、という。

天孫降臨の際、天照大御神から邇邇芸命に授けられ、この鏡を天照大御神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された、という。

考古遺物

福岡県糸島市にある遺跡「平原遺跡」において出土した国宝に指定されている直径46.5cmの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)4面(後に5面に修正)は原田大六によると八咫鏡そのものという。
この「大型内行花文鏡」は、図象のみの大型の青銅鏡である。つまり、文字や神獣などの図柄は無い。 また、『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

この鏡のうち4面は伊都国歴史博物館で、また1面は九州国立博物館で常時展示されており、実物を見ることができる。

千葉一宮上総国 玉前神社伝


神楽殿撮影筆者 うずめ神

鎌倉幕府を創建して老中職にあった時、一宮の玉前神社へ頼朝の武運 永禄五年八月里見義頼は、 ... 八咫宝鏡(やたほうきと呼ぶ) ... 装束=赤毛に角形の半天白毛に白の伴天. 

玉前神社神楽 (たまさきじんじゃかぐら)千葉県長生郡一宮町宮台(玉前神社)  県指定無形文化財上総神楽保存会~

 玉前神社の神楽奉納の記録は、天保九年(一八三八)成立の「社用録」に、宝永七年(一七一〇)に神楽殿で土師(はじ)流の御神楽が奉納されたとあるのが最初です。神楽は代々五軒の社家を中心に伝授され、現在では氏子十三名が、上総神楽保存会を組織し継承しています。

 神楽は、神社の春・秋の例大祭を含め年七回演じられます。明治期の記録では、三十六の演目から成っていた ようですが、今は次の十六座を伝えています。「加茂明神概(かもみょうじん)」「天狐乱舞(てんこらんぶ)」「八咫宝鏡(やたほうき)」「種蒔(たねまき)」「両神和合(りょうじんわごう)」「龍神舞楽(りゅうじんぶがく」「悪魔降伏(あくまこうふく)」「磐戸少開(いわとしょうかい)」「蛭子(ひるこ)」「猿田彦舞(さるたひこまい)」「剣玉(けんぎょく)」「神剣貢(しんけんのみつぎ)」「風神安鎮(ふうじんあんちん)」「戸隠(とがくし)」「千能里(ちのり)」「大山祇神」です。春季祭では「種蒔」が、秋季祭では「猿田彦舞」が必ず最初の演目となっており、平素は「八咫宝鏡」に始まり、「大山祇神(おおやまずみ)」で終えます。面は総数二十三面あり、装束・楽器は氏子らの奉納によって伝えられています。

「房総の祭りと技」 千葉県文化財保護協会発行 平成六年四月二十八日


画像 玉前神社 神楽「八咫宝鏡」

玉前神社神楽
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52078281.html

http://fshima.my.coocan.jp/gallery/fnbs05.html


船橋 二宮神社


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