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イリュージョン・ミュージック

心理感情を他に伝える方法の曲と文字言葉

ここ数日、世界の天才アーティストをピックアップして書いてますが、今日は、伝説的な二人、ジャコ・パストリアス とジミー・ヘンドリックスに絞りました。

この二人も今や伝説(故人)として語り継がれているベース、ギターの奏者です。そしてこれも共通している薬物依存(死因)があり、早逝するという近似値にあって、その理由を知りたいと思いました。

以前、リチャード・ブラウンの伝記を書きましたが、それも「失読症」という先天的な疾病をもっていました。しかし。彼の場合は家庭が裕福だったため、後に成功するというアメリカンドリームを結実させた人物でした。

それを比較すると「ジャコ・パストリアス」「ジミー・ヘンドリックス」は共に幼いころから神童といわれましたが、なにしろ家庭環境が最悪で、極貧の中で育ったという共通項です。(ハングリーだけで成功するというのは全くの嘘)

それだけの理由を併設してみると、一時成功して、その後に頂点に達するころには「ドラッグ」三昧という、いつものパターンは、アーティストの特権なのか単なる逃避なのか、よくわかりません。

音楽の別でも、絵画部門で明らかにトリップドラッグのような絵を観たことがありますが、一流画家でも、試飲?することだってあるのでしょう。

昨日、そんな記事を書いていると「ドラッグ・ソング」というジャンル別けがあることを知りました。(長い人生、知らないことが沢山あります)

それで、ジョン・レノンの「カム・トゥゲザー」歌詞をxTwitterに転載しようとしたら、そのドラックソングに抵触して記載不可、という判定をくらいました。

ですから改めで作詞を読んでみると、そう読めなくもない。勿論、その50年前当時ですから、直接的歌詞でないと、意味がないわけですから、それで音楽界の映倫にはパスしている。
そこのとについてパソコン検索してみると、それを聴いてドラック感覚に浸る、ということらしいのです。(そんなことあるかよ)

また当時はヒッピー文化でしたから、その処方薬?もいろいろあって、代表的なのがLSDでした。大麻マリファナは、たばこ代わりでしたから、殆どやってました。
一部ジョブスもやっていたというLSDですが、じゃゲイツは何してた、という話しですから、作り話しの範疇なのでしょう。としても、それでiPhoneが出来たとすればLSDさまさまですよね。

ヒッピー文化も三巡して、その残滓がいま復活しているようで、そのドラッグ処方があったりします。

私の記事に付随して関連記事の後追いされた中に、その処方箋がありましたので紹介しておきます。(読むのは自由ですがやると薬物違反です)
■幻覚剤LSDを作ったアルバート(アルベルト)・ホフマンの書、視覚の法則では量子論の視点から、この世はバーチャルだと書いておりジョブズもその可能性を50%。

ドラッグ・ソング

歴史に残る「ドラッグ・ソング20選」
コントリビューター 久保 憲司/(リード文:田中宗一郎)2018.07.27
https://www.fuze.dj/2018/07/drug-songs-20.html
ドラッグとポップ・ミュージックやロック音楽との関係というと、ここ日本ではいまだセックス・ドラッグ&ロックンロールという古のスローガンが有効だった時代のミュージシャンたちのスキャンダラスなライフスタイルを連想してしまうかもしれない。だが、こんな風に考えてみてはどうだろう。

ポップ・ミュージックこそが社会の状況や、そのドラスティックな変化をもっともカジュアルに、かつ、もっとも瞬間的にアウトプットすることが出来るアートフォームであり続けてきた、と。リーガルであれ、イリーガルであれ、ドラッグの存在は、有史以前から大方の市井の人々にとっては何かしら険しく、不条理であり続けてきた社会や現実のダークサイドを表象すると同時に、そうした現実から少しの間だけでも逃れたいという慎ましやかな希求をも表象してきた。
つまり、チャック・Dの「ヒップホップは黒人コミュニティのCNNなんだ」という言葉を例に挙げるまでもなく、様々な時代、様々なコミュニティにおけるドラッグと関係したポップ・ソングは、その時代に起こった急激な変化を誰よりも最初に世の中全体に知らすべく、炭鉱のカナリアの叫び声として機能してきた、と。要するに、何かしらドラッグと関連したポップ・ソングの歴史を紐解くこととは、それぞれの時代の社会やその価値観の変化を知ることでもある。
部分抜粋

今回は、早逝(1987年9月21日36歳)したJaco Pastoriusの音楽歴を紹介します。

ジャコ・パストリアス (Jaco Pastorius、本名 ジョン・フランシス・パストリアスIII世
1951年12月1日 - 1987年9月21日) は、アメリカ合衆国のジャズとフュージョンのエレクトリックベース奏者、作編曲家。

1970年代半ばに頭角を現し、1975年にはパット・メセニーの初リーダー作に参加、翌1976年にはファースト・ソロ・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』を発表すると共にウェザー・リポートにベーシストとして参加。革新的なテクニックを持ち、エレクトリック・ベースの中でも少数派であるフレットレス・ベースを用いて、アンサンブルでの花形楽器にまで昇華させたことで知られる。

フォークからジャズ路線へと足を踏み入れていた70年代後半のジョニ・ミッチェルとの活動も有名。


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生い立ち

ペンシルベニア州ノリスタウンにて誕生したジャコは、幼少の頃から地元の聖歌隊に参加し、音楽的な素養を身に付けていた。
ジャコが7歳の頃、家族はフロリダ州フォートローダーデールに移住した。彼のアルバムでスティール・ドラムが多く用いられているのは、フロリダで過ごした影響が大きいとされている。
地元のバンド「ラス・オラス・ブラス」にドラマーとして参加していたが、13歳の時にフットボールの試合中、左手首を骨折してしまいドラムを続けることが難しくなり、ベーシストへ転向した。

高校卒業後には地元でウェイン・コクラン・アンド・ザ・C.C.ライダーズというソウルバンドを始め、多数のR&Bやジャズのバンドで活動しており、この頃に入手したフェンダー・ジャズベース(1960年モデル)とその後入手したジャズベース(1962年モデル)のネックとボディーを入れ替え、理想的な1本を作り上げ使用していた。
その後更に変更を加え、フレットを抜きパテ埋めしたあとに船舶塗装用のエポキシ樹脂で指板全体をコーティング。実際は著名なギター職人、ジョン・カラザースによって演奏可能な状態に仕上げられている。米国アコースティック社製ベースアンプのModel#360と組み合わせ、自分のベース・サウンドを煮詰めていった。

愛称の由来

ジャコは幼い頃から Jocko というニックネームで呼ばれていた。これは1950年代のメジャー・リーグ名物アンパイア、ジョッコ・コンランから取ったものだった。「Nelson Jocko Padron」という変名で活動していた事もあったが、アパートの隣に住んでいた音楽仲間のアレックス・ダーキィがフランス風に Jaco と綴った所これを気に入り、それ以降自分の事を Jaco と名乗るようになった。

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アルバム・デビュー

マイアミ大学でジャコ同様に教鞭を執っていて、良き音楽仲間でもあったパット・メセニーの1975年にリリースされた初リーダー・アルバム『ブライト・サイズ・ライフ』にベーシストとして参加。そして同年、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズのドラマーであるボビー・コロンビーとジャコが出会い、驚異的なベース・テクニックはデビュー・アルバム制作をコロンビーに決断させた。アルバム制作作業と併行して約2か月間コロンビーのバンドに参加し、そこでマイク・スターン(ギタリスト)と2年ぶりに再会し、以後の音楽活動とプライベートの両面で親しくなった。翌1976年、コロンビーのプロデュースで『ジャコ・パストリアスの肖像(原題・Jaco Pastorius)』が発表された。

ウェザー・リポート時代

フロリダにウェザー・リポートのツアーで訪れていたジョー・ザヴィヌルに自分のデモ・テープを渡すなど、ジャコはベーシストとしてバンドに参加したい旨を直接ザヴィヌルへ伝えていた。

丁度その頃には2代目のベーシスト、アルフォンソ・ジョンソンが脱退する予定であったため、1975年12月から1976年1月にかけての『ブラック・マーケット』のレコーディング・セッションで、ジャコはザヴィヌル作の「キャノンボール」と自作の「バーバリー・コースト」の2曲にベーシストとして参加した。

これ以降、ジャコはウェザー・リポートの正式メンバーとなり、次作『ヘヴィ・ウェザー』以降ではジャコ・プロデューサー としてクレジットされるようになった。

ソロ以降

1981年、ワーナー・ブラザース・レコードとソロ契約し、セカンド・ソロ・アルバム『ワード・オブ・マウス』をリリース。翌1982年にはピーター・アースキンと共にウェザー・リポートから脱退し、ジャコは自身のビッグ・バンドに活躍の主軸を移した1982年4月には「ジャコ・パストリアス・バンド」として来日公演が予定されチケットも一般発売されたが、来日直前で病気などを理由に急遽ツアーは中止となった。

そして、同1982年8月下旬~9月上旬にかけて、オーレックス・ジャズ・フェスティバルに参加する形で「ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド」としての来日公演を行い、各地で大成功をおさめた。この来日公演の模様は、後日NHK放送枠でオンエアされ、コンサート音源はライブ・アルバム『Twins I & II』などにも収められている。

日本側からは東京ユニオンのメンバー数人がホーン・セクションとしてビッグ・バンドに参加していた 。翌1983年5月21日と22日には、再び「ジャコ・パストリアス・バンド」として東京新宿厚生年金会館大ホールでの来日コンサートが行われ、小編成ながらジャコの健在ぶりをアピールした。

ほぼ同じ編成でモントリオールでのジャズ・フェスティバルへも出演していて、その模様は『ライブ・イン・モントリオール』としてビデオ・テープ版とレーザー・ディスク版で発売され、後にDVD版でも再発売されライヴ映像として残されている。

その後から晩年にかけてのジャコは、彼の健康状態や、奇行や荒れた生活から来る悪評によりニューヨークのジャズ・クラブ等の多くから出入り禁止を受けるなど、業界から「干された」状況となって行く。

しかし当時のニューヨーク以外ではこの事実は知られず、ギター誌の表紙にもなり、ジャコ自身も多くのレコード会社やプロデューサーへ電話を掛けるなどしカムバックを画策していた。小規模なギグ中心の音楽活動自体は続けており、マイク・スターンやハイラム・ブロック、ケンウッド・デナード等とのセッションを行っていた。

精神疾患と死に至るまで

キャリアの初期のジャコはドラッグとアルコールを完全に避けた生活を送っていたが、ウェザー・リポート在籍時よりこれらを使用するようになっていった。1982年にウェザー・リポートを脱退した頃からジャコの生活は荒れはじめ、コカインに溺れたり双極性障害 (躁鬱病)に悩まされた。これは二人目の妻イングリッドと離婚して以来、悪化したという。同年の来日コンサート・ツアー中にも奇行 が目立つようになり、帰国後はマイケル・ブレッカーから勧められて精神病院へ入り、リチウムを処方された。

1986年の時点では彼の精神状態はさらに悪化し、アパートを追い出された後は路上生活を送っていた。この年の6月には前妻のイングリッドの助けを得て精神病院に再び入院するが、年末には再び路上生活に戻っている。

死に至った経緯と最期の様子

1987年9月11日、地元フォートローダーデールに来ていたサンタナのライブに無許可で飛び入りしようとしたところ、警備員に取り押さえられ、会場から追い出されてしまった。翌日未明、「ミッドナイト・ボトルクラブ」という店に泥酔している状態で入ろうとしたところ、空手技能を持ち合わせたガードマンと乱闘になる。乱闘の際、コンクリートに頭部を強打、脳挫傷による意識不明の重体 に陥ってしまった。

病室では昏睡状態が続いて一向に意識回復などの兆しがみられず、植物状態としてかろうじて心臓だけは動き続けていた。親族による話し合いの末、ジャコの父親であるジャック により人工呼吸器が外され、1987年9月21日、21時25分、親族と病院関係者らが見守る中、永眠。

彼の生まれ故郷であるフロリダの地で35年9か月あまりの生涯を閉じた。暴行容疑で逮捕起訴されたガードマンのリュック・ヘイヴァンは、後の裁判で第二級謀殺罪が適用されたが、4カ月の収監の後保釈された。

使用楽器 フェンダー・ジャズベース

フェンダー社製の1960年製と1962年製ジャズベースを使用。3トーンサンバーストの1962年製を購入後、そのネックは黒の1960年製(塗装がリフィニッシュされた可能性があるとも言われる)の方に付け替えられ、1960年製の方は後年までフレット有りのままだった。ジャコのトレードマークにもなっている「Bass Of Doom」と名付けられた1962年製の方は先に述べた1960年製のネック搭載であり、1970年代前半にフレットが抜かれフレットレスに改造された。

フレットが抜かれた指板にはパテ埋めを施し、指板全体には船舶の船底などで使用される「マリーン・エポキシ」と呼称され、乾燥後には強く硬化するエポキシ樹脂製のクリア塗料が塗られ、ローズウッド製の指板をラウンド・ワウンド弦の擦れなどから保護していた。

当初ジャコ本人が塗布したエポキシは剥離しやすかったため、後にジャコの楽器のメンテを最晩年まで手掛けたギターテクによってデュポン社製のモールディング用エポキシ樹脂をネックの周囲に型枠を組んで流し込み、それを指板のカーブに合わせて1mm程まで薄く削り、研磨することで剥離が発生しにくいエポキシ加工の改良が施された。

ボリューム及びトーン・コントローラー関連

1962年製ジャズベースのオリジナル・コンディションは、ボリュームとトーン・コントロール・ノブが各1個ずつの計2組搭載される仕様だった。それは2階建て構造の可変抵抗器で構築された、2連式ボリュームとトーン・コントローラーの各々が、フロントとリアに搭載される2個のピックアップ各々のボリュームとトーンを調整する方式だった。
ジャコのジャズベースは1963年式以降と同様に、フロントとリアの独立したボリュームが2個と、マスター・トーン・コントロール・ノブが1個搭載のものに変更されていた。コントロール・ノブのパーツはジャズベース本来の黒いプラスティック製の物ではなく、テレキャスターやプレシジョンベースなどに使われていた金属メッキ・タイプの物を装着。

トリビュート・モデル

ジャコが使用していた1962年製ジャズベースが、トリビュート扱いでフェンダー社のカスタム・ショップ・トリビュートという、特定のギター・ビルダーが作成するラインから「ジャコ・パストリアス / トリビュート・ジャズベース / フレットレス」として製造発売され 、ボディー上の傷や塗装の剥がれ、ネック裏の汚れ、指板のフレットラインとエポキシによるコーティングまでもが、ジャコ・パストリアスの楽器担当テクニシャン協力の元、フェンダー社独自のレリック・フィニッシュ によって忠実に再現された。

各種エージング処理などは施されず、通常の製品ラインであるシグネイチャー・モデルでは、指板のフィニッシュはポリウレタン塗装によるコーティングが施されていて、指板の材質もローズウッドではなくパーフェローを採用しているなど、カスタムショップ製トリビュート版とは差異がある。

ベース弦

英国ロトサウンド社製 (ROTOSOUND) のRS-66 SWING BASS (スゥイング・ベース) というラウンド・ワウンド弦を使用していた 。
一般的にはロック・ミュージシャン御用達のベース弦だが、ラウンド・ワウンド弦の特性の明るい音質と、エポキシ樹脂でコーティングされた硬い指板との相乗効果によるトーンが、彼の独特な音色を構成している。

ベース・アンプ

米国アコースティック・コントロール・コーポレーション製の、オール・ディスクリート 構成ソリッド・ステート回路のベース・アンプ Model #360 +361の組み合わせと、Model #320 +408の組み合わせを主に使用。
ウェザー・リポートへの参加初期は Model #360 +361のみだったが、その後は複数台並んだ状態でセット・アップされ、ディレイ及びコーラス・エフェクトとフレーズのループ・サウンドなどは別々のセットから出力されていた。出典ウイキペディア


ベース博士 解説 ボビー・コランビーの尽力により制作されたベーシストの聖典「ジャコ・パストリアスの肖像」は、1976年にリリースされた。

ジャコの魅力を十分に伝えるべく、ボビーはジャズ/R&B/ポップスといったあらゆるジャンルの音楽をアルバムに取り入れることを提案、チャーリー・パーカーの名曲を超人的な速弾きでカバーしてみせた「ドナ・リー」に続く「カム・オン・カム・オーバー」ではヴォーカルにサム&デイヴを起用。

その他にもハービー・ハンコック(key)、デヴィッド・サンボーン(as)、ランディ・ブレッカー(ts)、ランディ・ブレッカー(tp)、ナラダ・マイケル・ウォルデン(dr)、レニー・ホワイト(Dr)ドン・アライアス(Per)といった蒼々たるメンツが顔を並べており、バラエティ溢れる楽曲が揃うアルバムとなった。





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