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「遠野物語」

3月23日「遠野物語」を発表しました。その直後に遠野高等学校(岩手県立遠野高等学校)様より『スキ』 を頂いて、かんがい深くいたしました。
そして昨日再度訪問をいただいて、おまけに10PVという嬉しい訪問でしたので、その「遠野物語」のを改定をこの度かきました。

■遠野高等学校 岩手県立遠野高等学校、明治34(1901)年創立で令和3(2021)年に創立120周年を迎えた歴史と伝統ある普通高校

私のライフワークは、日本の古典伝承芸能「神楽」「雅楽」ですが、やはりと云いますか、時代の趨勢といいますか、衰退すれども更新なし、と云うのが正直な話しです。

話せばながいのですが、それはいま避けて、東北地方の「語り部」民話をしたいと思います。その内容としては、土着的神楽舞、と相通じるものがあって、世界に潜在している民話、子どもが、花、石、動物、乗り物などに対して人間と同じ意思を持っているかのように接したり、話しかけたりする姿は、「アニミズム」と云われます。 子どもは、アニミズムを通して生物や物を大切にすることを学び、世界の有史以来の伝承形態です。

じゃいま子供はなにしてるかといったらSNSスマホ(親が買い与える)ですから、ダメ、とは拒否できないのが世界トレンドで、それは止まらない。

かりに、子供数人が集まってお喋り(ほどんどしなくて勝手にスマホ)している場合、当然人気のサイトインストールしており、それが右も左も同じもの、ですから、そこに割って入って「ザシキわらじ」したのでは、完全にはじかれます。まあ極端な例ですが、巾の長短はあるにせよ、それに近似する感覚でしょう。
そんなことを拡大解釈すると大人世界でも似たり寄ったりなものです。

■本文の部分抜粋

柳田國男「序文 『遠野物語』」 近代化の国是の基、あらゆる事象を西洋的な解釈でもって説き伏せようとする明治にあって、未だ前代的な精神で生き続けている人たちが日本に存在している「現在の事実」を当時の社会に知らしめんとする柳田の考えが書かれている。これまでの考えを否定するかのような都市部に生活する一部の「平地人」に対する警告とも、あるいは山中には列島渡来の民族とは異なる先住異民族がいまだに生存していると考えた柳田の、山人論を立証しようとする意気込みが窺える。明治にあって、未だ前代的な精神で生き続けている人たちが日本に存在している「現在の事実」を当時の社会に知らしめんとする柳田の考えが書かれている。これまでの考えを否定するかのような都市部に生活する一部の「平地人」に対する警告とも、あるいは山中には列島渡来の民族とは異なる先住異民族がいまだに生存していると考えた柳田の、山人論を立証しようとする意気込みが窺える。

家に帰ってみると縁側に小さな泥の足跡が点々と残されていて、家の中を通ってオクナイサマの神棚の前で途切れていた。主人がゆっくりと神棚の扉を開けてみると、オクナイサマの像の腰から下は田圃の泥にまみれていてという。(15話)
物語の舞台(1話) 柳田國男「序文 『遠野物語』」

農家の繁茂で人の手も借りたい時期に、「オクナイ様がそこで手伝ってくれた」という話しは仮想でしかないのですが、崇敬に値する行為として人間は肝に命じるのでしょう。(それがいま絶滅にひんしている)という「東野物語」の語り部は、日本にあと何人のこっているのだう。

柳田國男「序文 『遠野物語』」

近代化の国是の基、あらゆる事象を西洋的な解釈でもって説き伏せようとする明治にあって、未だ前代的な精神で生き続けている人たちが日本に存在している「現在の事実」を当時の社会に知らしめんとする柳田の考えが書かれている。これまでの考えを否定するかのような都市部に生活する一部の「平地人」に対する警告とも、あるいは山中には列島渡来の民族とは異なる先住異民族がいまだに生存していると考えた柳田の、山人論を立証しようとする意気込みが窺える。

物語の舞台(1話)

初冬の早池峰山

遠野の地理的情報、あるいは地名、歴史に関する解説。陸中国、上閉伊郡の西の半分、山に囲まれて盆地となった地域であり、明治22年(1889年)から明治30年(1897年)の間に旧村が再編され、遠野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮守、達曾部の1町10村となった。近代までは西閉伊郡とも称され、さらに遡れば遠野保とも呼ばれた。

役所の存在する遠野町は、鍋倉山にある横田城とも称される要害屋敷を中心に小さくも城下町としての外観を有し、山奥としては珍しい繁華の地として賑わいをみせていた。伝説では太古遠野の地は一円の湖であったとされており、またアイヌ語の「To(湖)」+「Nup(丘原)」に遠野の語源があるという由来譚も存在している。


神の始(2話)

遠野物語の位置

早池峰山  遠野三山

遠野の町は南北の川の落合にあり、以前は七七十里として、月に6度開かれる市には7つの渓谷、70里(およそ28km)の距離から売買のために商人1000人、馬1000頭が集まる賑わいをみせていた。周囲には遠野三山と呼ばれる山々があり、早池峰山、六角牛山、石上山(石神山)、これらには成り立ちに関する神話が存在する。大昔に女神とその3人の娘が遠野を訪れ、来内村の伊豆権現のある所に宿った際、女神は娘達に最も良い夢を見た娘に対して良い山を与えると伝えた。その夜深く天から霊華が舞い降り、姉の胸の上にこれが降りるも、末の娘が目を覚まし、これを自分の胸の上に移すことで最も美しいとされる早池峰山を手に入れた。そして姉達はそれぞれ六角牛山と石上山を得た。

草稿版には、夢の中でそれぞれの娘にそれぞれの山が宛がわれたという記載は無く、姉から奪うことで利益を得たという(妹の行為に対して柳田の手が加えられたと考えられている)。
早池峰山はその経緯より、盗みを働いた者がその発覚を免れるよう願掛けをする、といったことでも霊験を得られると考えられ、早地峰信仰の普及に一役買ったとされている。また、これら3つの山は女神が住まう山であるため、遠野の人たちは神罰を恐れ、戦前までこの山には女性が入ることが禁じられていた。かつて神職であるため差支えがないと石上山に入った巫女はその琴線にふれ、大雨風が起こり、姥石と牛石になってしまったという逸話も残されている。

オシラサマ

部落に1軒は旧家があり、この家は大同と呼ばれ、オクナイサマという神を祀っている。この神の像は桑の木を削って顔を型取り、真ん中に穴の開いた四角い布を上から被せて衣装としている。正月の15日には小字中の村人達が集まってこれを祭っている。また、オシラサマという神もいて、同様に桑の木から造られ、正月の15日には白粉を塗って祭られることがある。大同の家には必ず畳一帖の部屋があり、この部屋で寝ると枕を蹴飛ばされる、体の上に乗られる、何者かに抱き起こされる、部屋から突き飛ばされるなどされ、静かに眠る事ができない。(14話)

オクナイサマを祀る家には幸せが多いという。土淵村大字柏崎の長者、阿部氏が田植えを行っていた時のこと。空模様が怪しいことから早々に田植えを行ってしまいたいと考えていたが、人手が足りず翌日に少し持ち越してしまいそうだと危惧していると、どこからとも無く背丈の低い男の子が現れ、田植えを手伝うと申し出た。昼飯時に差し掛かったので、食事をとらせようと辺りを見回すが姿が見えなくなっていた。しばらくするとどこからか再び現れ、サセ取りを手伝ってくれたこともあって無事、その日のうちに田植えを終える事ができた。主人は感謝し、夕食をご馳走すると男の子を誘ったものの、日が暮れても現れることは無かった。家に帰ってみると縁側に小さな泥の足跡が点々と残されていて、家の中を通ってオクナイサマの神棚の前で途切れていた。主人がゆっくりと神棚の扉を開けてみると、オクナイサマの像の腰から下は田圃の泥にまみれていてという。(15話)

コンセサマ(16話)

コンセサマを祀る家も少なくない。この神の神体はオコマサマとよく似ており、石や木で男性器を模ってこれを祀るのだが、オコマサマの社は里に多く見られるが最近ではその数も少なくなった。

コンセサマとは金勢様、あるいは金精様の漢字が充てられる男性器を模った精神で、生命力の象徴に悪霊や邪気を祓う力、あるいは縁結び、子宝、安産祈願などの加護が得られると考えられ信仰されてきた。オコマサマは東北地方から関東にかけて馬の守り神として信仰されてきたが、祀られた当初は他の神を祀ったものとする考え方もある。多数の駒形神社や馬頭観音の石塔などが存在する遠野で名高い駒形神社は附馬牛の駒形神社であるが、これは中世阿曾沼時代に蒼前駒形明神を祀ったのが初まりとされている。この「そうぜん」という言葉はやまとことばには存在せず、駒形神社の宗社である水沢の駒形神社は延喜式神名帳にも記載されている式内社で、原初山の神である水分神を祀ったものであったという。こういった伝承により、本来の駒形の神というものは北方より伝来したアイヌ語における山の神と関わりのあるものであったが、奥羽からアイヌの影響力が失われていくと共にその原義を失い、何を信仰していたものかわからなくなったところに、全国有数の馬産地としての必要性から馬の神としての神格が与えられたものと考える説もある。いずれにおいても石や木でできた男性器を神体とする点で同じであるが、コンセサマは主として女の神であるの対してオコマサマは馬の神であり、別の神格を有している。『拾遺』14、15、16話などの話から佐々木喜善は少なくない伝承を柳田に語ったと考えられるが、柳田の性の民俗に関する伝承の考え方から、『遠野物語』に取り上げられた内容は極々概説的なものに限られている。

ザシキワラシ(17話)

旧家にはザシキワラシという神様が住む事が少なくない。多くは12~13歳ほどの童子で、時折人に姿を見せることもある。先日も土淵村の大字飯豊の今淵勘十郎という家で、高等女学校で学ぶ娘が帰宅していた時のこと、廊下で男のザシキワラシに遭遇して驚いた事があったという。同じ村の山口に住む佐々木氏の家では、妻が独りで縫い物をしている時に、隣の部屋からなにやらガサガサと物音がするものだから板戸を開いてみるも人影は無く、しばらくは縫い物を続けていたが、しばらくすると今度は鼻を鳴らす音が聞こえてきたという。ザシキワラシが住む家は名誉も財産も思うがままだという。

孫左衛門家の盛衰(18話、19話、20話、21話)

ザシキワラシは女の子供の場合もあるという。土淵村山口の、山口孫左衛門の家には童女のザシキワラシが2人いると伝えられていたが、ある日、同じ村に住む男が街へ出て、その帰り道に橋を渡ろうとしていると、向かいから見知らぬ童女が2人歩いてくるのに出くわした。2人はなにやら考え事をしているようで、男はどこから来たのか尋ねてみると、山口の孫左衛門の家から来たとの事であった。行き先も尋ねてみると、ある村の豪農の家の名を答え、男はこれはおそらくザシキワラシであろう、孫左衛門の家もそう永くは無いだろうな、と思った。ほどなくして、孫左衛門の家では主従20数名が茸の毒にあたり死亡し、その間に出かけていた7歳の娘だけが生き残ったという。(18話)

孫左衛門の家である日、梨の木の周囲に見たことのない綺麗な茸が生えているのに気づき、これを食べるか否かで男たちが相談していた。孫左衛門はあまりに綺麗な茸には毒があるものだ、と食べるのを止めるよう忠告したが、一人の下男がどんなきのこであっても、水を張った桶にいれ、苧殻(アサの茎)でもってよく廻してから食べればあたることはないものだ、と言うのでこれを信じて皆は食べることにした。命の助かった娘はその日、遊びに夢中で昼飯を食べに家に戻らず、難を逃れたという。残された者たちが突然の主人の死に動転している間、生前に主人に貸しがあった、あるいは約束をしていたなどと言う者が次々に現れ、孫左衛門の家からは味噌の類まで持ち出されてしまい、この村はじまっての長者であったが瞬く間に滅んでしまったという。(19話)

これらの悲劇が起こる前にはさまざまな異変があったという。下男たちが刈っていた秣を取り出そうと鍬で掻き出していると、その中から大きな蛇が出てきた。主人の孫左衛門は蛇を殺さないよう下男たちに命じたが、下男たちはそれを聞かず勝手に殺してしまった。すると、秣の下からは小さな蛇たちが次々と出てきたので、下男たちは面白半分にそれも皆殺しにしてしまった。それだけの数の蛇ともなると捨てる場所も無いので、下男たちは屋敷の外に蛇塚を作り、そこに蛇を埋めたというが、埋めた蛇の数は竹籠で何杯もの数になったという。(20話)

孫左衛門とは村に珍しい学者で、京都より和漢の書を取り寄せては読みふけるような者であった。狐と親しくなることで家に富をもたらそうと考え、庭に祠を設置し、自ら京都に出向いて正一位の神階を得て日々油揚げを供えることを欠かさないなど、少し変人とも言われていた。そうして孫左衛門には狐も慣れ、近づいても逃げたりせず、時には首を掴ませる事も許すほどに気を許すようになったというが、それを聞いた薬師の堂守は、うちの仏様は何も供物を捧げずとも、孫左衛門の狐よりご利益があると度々笑いものにしたという。(21話) 資料ウイキペディア


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voice.朗読ファイルは別ページにて有料販売するようにしました。

東野物物語 ざしきわらじ


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