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"昭和の森" 小食土(やさしど)廃寺跡

縄文時代遺跡の宝庫 千葉県上総地方の風景

小食土(やさしど)のある昭和の森は、あいにく小雨でした。でも、せっかく来たので、1時間ばかり、公園内を歩いて回りました。

といっても東京ドームの22倍ですから、ほんの一部を見た(と云っても鬱蒼とした森の樹々しかない。発見栗の巨木を始めてみた)ですから、見たことにはならない感じでした。

次回、天気をみながら再挑戦したいとおもいます。(同行参加希望の人がいたら受け付けます。予定、6月24日(土)頃 コメント欄に記入してください 對馬つしま)

黒戌ケ原遺跡・中ノ台遺跡 : 千葉県長生郡一宮町

総南文化財センター編(総南文化財センター調査報告, 第41集)総南文化財センター , 一宮町教育委員会, 1999.3

千葉県長生郡一宮町黒戌ヶ原遺跡・中ノ台遺跡 黒戌ケ原遺跡中ノ台遺跡 : 千葉県長生郡一宮町
黒戌ヶ原遺跡・中ノ台遺跡 : 千葉県長生郡一宮町
クロイヌガハラ イセキ  ナカノダイ イセキ
: チバケン チョウセイグン イチノミヤマチ


 "昭和の森" 小食土(やさしど)廃寺跡

縄文時代になると、あすみが丘にも人々の定住が始まりました。前表の太字で書いてあるあすみが丘の東台・文六1・小山と昭和の森の辰ケ台・住吉がその例です。これらの遺跡からは、竪穴式住居の集落跡、墳墓も見つかっています。

集落跡 昭和の森・住吉遺跡 6千年ほど前は、気温が高く、海面が上がり、海岸はあすみが丘に迫っていた。当時は、地球の温暖化がみられ、あすみが丘の気温は、今よりも気温は2、3℃高く、海面が上がり、海は東京湾岸で、誉田・鎌取辺りまで、九十九里側で昭和の森の下、1キロ辺りまで迫っていたことが貝塚の分布からわかっている。房総半島は村田川と大網白里辺りが一番狭くなっていた。この状況を「縄文海進」といいます。

見つかった縄文土器 あすみが丘プラザの展示室には、文六1・弥三郎1の遺跡から出た縄文前期の縄文土器が見られます。中期・後期の複雑なデザインのもの。

縄文土器 昭和の森・辰の台遺跡 狩りの様子、落とし穴と弓矢、貝塚

あすみが丘プラザの展示室には、あすみが丘から出た石鏃と狩りに使った落とし穴が出ています。この時代になると、比較的小型のシカやイノシシが狩りの対象になったと言われています。昭和の森の辰の台遺跡からは貝塚も見つかっているそうです。温暖な縄文時代は、木の実やイノシシ・シカの山の幸、貝や魚の海のさちに恵まれた時代だったと思われます。また、土器の発達は食料の貯蔵・煮炊きの技術も進歩し、豊かな生活が営まれていたと思われます。

参考資料 まとめるにあたり、 あすみが丘プラザ展示室、千葉県立中央博物館、『千葉県の歴史』資料編・考古1、千葉市教育委員会『千葉市遺跡地図』、高校日本史Bの教科書・参考書を参考にしました。また、千葉市埋蔵文化財史料調査センター、市原市埋蔵文化財センター、千葉県立中央博物館に種々教えて頂きました。感謝します。


千葉市教育委員会 加曾利貝塚



2017年01月12日記事

小食土(やさしど)廃寺跡 "昭和の森"

‐古代人の定住が始まった‐
あすみが丘および昭和の森には縄文遺跡が30カ所を越える
次の表は『千葉市遺跡地図』(平成12年)の記載をもとに、あすみが丘および昭和の森の縄文時代の遺跡を編集し直したものです。
あすみが丘および昭和の森には、今から1万6千年前から2千5百年前の縄文時代の遺跡が、30カ所以上も発掘されています。

とくに、1万3千年前から4千5百年前の縄文早期から中期の遺跡が多いのが特徴です。縄文後期以降から弥生時代にかけては、あすみが丘の遺跡は極端に少なくなります。
人々は何処に行ったのでしょうか? この頃から、千葉市および市原市の東京湾岸の遺跡が増えているので、そちらに移ったのでしょうか?
若葉区桜木町の国指定史跡「加曾利貝塚」がその代表的な例でしょう。

当時は、地球の温暖化がみられ、あすみが丘の気温は、今よりも気温は2、3℃高く、海面が上がり、海は東京湾岸で、誉田・鎌取辺りまで、九十九里側で昭和の森の下、1キロ辺りまで迫っていたことが貝塚の分布からわかっている。房総半島は村田川と大網白里辺りが一番狭くなっていた。この状況を「縄文海進」といいます。

見つかった縄文土器 あすみが丘プラザの展示室には、文六1・弥三郎1の遺跡から出た縄文前期の縄文土器が見られます。中期・後期の複雑なデザインのものではなく、シンプルなデインの土器です。

あすみが丘プラザの展示室には、あすみが丘から出た石鏃と狩りに使った落とし穴が出ています。この時代になると、比較的小型のシカやイノシシが狩りの対象になったと言われています。昭和の森の辰の台遺跡からは貝塚も見つかっているそうです。温暖な縄文時代は、木の実やイノシシ・シカの山の幸、貝や魚の海のさちに恵まれた時代だったと思われます。また、土器の発達は食料の貯蔵・煮炊きの技術も進歩し、豊かな生活が営まれていたと思われます。

http://asumi.town-web.net/folder_history/history/page_jomon_age.html


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