見出し画像

アレは何だったのか?という透視図

この「重信房子」氏については、なん度も書いているので、その点では省略する。その一方の相方「遠山美枝子」についての引用記事だった。
その当時の報道によれば本人についての記事はほとんど割かれていない。もっとも組織人数からしたら、首謀者(重信など)トップでない限り、特別な任務をおっていない限り、個人名はでないと考えられた。

話を一気に今のニュースに戻るが、昨日の記事で《旭川14歳少女凍死》を扱った文春記事がのった。
このニュースも世間を騒がせたショッキングな事件で、しかも後味の悪さばかり残る報道の仕方だつた。
その思い出したような記事は、加害者側の親のコメントをとった、というものだった。その全文詳細は見てなので、正しい判断はできないが、裁判過程範囲ではない、という経緯で報道側が、それを掲載する「後味の悪さ」も、ここでも感じられた。

話の要点はそんなことではなく、上記に挙げた「遠山美枝子」の場合と、その中二少女「廣瀬爽彩」の死に方が、とても近似しているとおもったからである。
その理由として、ともに「目立つ存在感」ではない、したがって強力な自己主張するタイプでもなく、周りの気を察して合わせる性格のように見えたし、そのことは「負った罪」また「負わせるに都合がいい」タイプの端役的ポジションにいて、いつもその役を負わされていたと分析した。

簡単にいったら「いじめ」の基本系で、正負のバランスで船頭多くばかりでは、進路も決まらない。
お山の大将一人独裁の配下に付和雷同スタッフ重鎮数名が、それを周りで支えるという組織図だ。

「遠山は山で同志に殺害された。」、という件は、ずいぶん前のNHKドキュメント番組で放送したので、その経緯は判っているつもりだ。仲間同志の裁判で妊娠した罪とか、総括しろとかまるで理論的整合性もまったくないまま撲殺され死んでいった。

ひるがえって「廣瀬爽彩」の死に方も、それらに近く氷点下の河川で水死という残忍動機は、この現代社会の中にあって想像を絶する事態だ。またオナニー自慰行為をスマホで撮らせて人に見せろ、という猥雑さは、この国の倫理観まで疑ってしまう。
どうしてそんなことができるかといったら、付和雷同、遠来で鳴るかみなり轟音に恐れおののき、一同が一斉におなじ方向に慌てふためき動き出すというシチュエーションで、それは誰にも止められない。

極論だがそれはまた昨今の、破天荒な事件ニュースの色分けにも反映している。

《旭川14歳少女凍死》加害生徒の父親が初めて語ったイジメ事件「できるものなら我が子を罰してほしい…」 旭川14歳少女イジメ凍死事件
 北海道旭川市で昨年3月に凍死した状態で見つかった廣瀬爽彩(さあや 当時14歳)さん。文春オンラインではこれまで彼女が生前に凄惨なイジメを受けた問題を報じてきた。冒頭の言葉は事件発覚以来これまで沈黙を貫いていた、ある加害生徒の父親・Mさんが取材に応じ、初めて重い口を開いた時の言葉である――。

文春オンライン


2022年08月13日記事

遠山は連合赤軍の兵士として山岳ベースに入り、25歳で命を絶たれた

重信房子と遠山美枝子、マルクスよりルソーが好き」バリケードの中で意気投合した2人
数奇な運命を分けたものは何か

江刺昭子 2022/8/10 07:00 (JST)8/11 09:14 (JST)updated c 一般社団法人共同通信社

 日本赤軍の元最高幹部で、ハーグ事件に関与したとして服役した重信房子さん(76)が5月28日、満期出所した。その前後に多くの報道が流れたが、その中で彼女の親友やその死に触れたものはほとんどなかった。
 若き日の重信さんと親友、遠山美枝子さんの生の軌跡を素描することで、あの時代の空気や党派の動向、女性たちの生き方をたどり、考えたい。(以下敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

画像 遠山美枝子画像 Yahoo!ニュース - Yahoo! JAPAN



<マルクスやレーニンよりもルソーが好き意気投合したのはバリケードの中>
 この歌の作者は重信房子、その人である。彼女は獄中で歌作を始め、2冊の歌集を出版した。この歌は連合赤軍事件で亡くなった親友、遠山美枝子の47年目の命日、2019年3月に墓前にささげられた「三月哀歌」14首のうちの1首であり、歌集「暁の星」に収められている。

 バリケードの中で「意気投合した」相手とは、もちろん遠山美枝子である。

 群馬県榛名山に連合赤軍が築いた山岳ベースで、遠山が非業の死を遂げたのは1972年1月7日だが、遺族は遺体が見つかった3月13日を命日にしている。2019年の命日も墓参会と法要があり、その後、重信の歌が披露された。

 その場にいたかつての仲間たち十数人は、今も整理しきれない複雑な感情があるのか、懇親会でもそろって口が重かった。

 遠山は山で同志に殺害された。なぜ遠山が山に入るのを止めなかったのかという後悔が、それぞれの胸の内にある。そして、もし自分も山に入っていたら被害者になっていたかもしれないという思いもある。いや、あるいは加害者か。

 重信と遠山は、明治大での学生運動、その後の政治運動を共に闘った。重信が国内での革命運動に見切りをつけて国外に脱出したあと、遠山は連合赤軍の兵士として山岳ベースに入り、25歳で命を絶たれた。

 重信はその知らせを遠くベイルートの地で聞いたのち、逮捕され、獄中生活を経て、76歳で日本の市民社会に復帰した。何が2人の生死を分けたのか。シスターフッドともいえるような親密な関係を築いた2人が、生き生きと躍動した日々を、政治の季節の結節点に重ねて見ていきたい。

画像 遠山美枝子さん(左)と重信房子さん。1967年ごろとみられる
 筆者(江刺昭子)は、遠山が革命兵士として「山」に入るまでを『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』としてまとめ、6月に出版したが、その際に服役中の重信に質問書を出して詳細な返信をもらった(以下、重信の「手紙」)。

 遠山の友人や知人の証言も取材し、彼女が夫にあてた手紙も読むことができた(以下、遠山の「遺稿」)。また、関係者の著作や論考もある。本稿はこれらの資料に依拠する。

 重信は1945年、東京都世田谷区で生まれた。父は戦前の右翼運動に関係した人物だが、子どもたちを伸び伸びと育て、重信は明るく自己肯定感の強い性格である。

 遠山は1年遅れの46年生まれで、横浜市中区で育った。5歳で父が亡くなり、双子の姉と妹の3人姉妹を育てるために働く母に代わって家事を担い、我慢強さを身につけている。

 2人とも経済的な理由から高校卒業後、就職し、1年後に明治大の2部(夜間部)に入学、働きながら学ぶ道を選んだ。1歳違いなので、入学は重信が65年、遠山は66年である。当時はこのような勤労学生が多く、大学にも受け皿があった。

 重信は高校時代から弁論大会に出たり、大学入学後もアルバイトで選挙事務所のスタッフをしたりと行動的で、大学の自治会活動でもすぐに頭角を現した。

 遠山はおとなしく、目立たない人だったと証言する人が多い。だが、勤め始めた頃、日韓基本条約に反対する労働者のデモに感激し「高校時代にも潜在的にもっていた政治意識が爆発」したと「遺稿」で書いている。

 日韓条約は朝鮮半島の南北分断を固定化するなどとして批判を浴びていた。遠山が早い時期から社会や政治への強い関心を持ち、厳しい目で捉えていたことが分かる。

 この頃、慶応大、早稲田大などで学費値上げに反対する学生運動が相次ぎ、明治大でも遠山が入学した66年に学生たちが立ち上がった。自治会と大学当局との交渉が決裂、学生は机や椅子でバリケードを築いて大学を封鎖し、自主講座を開き、示威運動をした。

 こののち、こうした光景は日本中の大学で見られるようになる。

 2人が出会ったのは、そのバリケードの中だった。遠山が学費闘争の中核を担える人材かどうか、重信が“面接”するため招いたのだ。

 遠山は「グレーのオーバーを着た小柄な女性で、控えめな感じの人」だったが「でも、そこですぐ意気投合しました」と重信が振り返っている(「手紙」)。それは冒頭の歌にも詠まれている。

 勤務先は重信がキッコーマン、遠山はキリンビールで会社同士の交流もあった。職場の話も家族の話もしている。

 そして1年先輩の重信が先導するかたちで運動に関わっていく。重信の「三月哀歌」から2首を引く。

歌集「暁の星」。亡き親友に捧げた歌も収められている
 <水仙の微かに香るバリケード焚火を囲み歌いしインター>
 <洗い髪に震えつ急ぐ冬の道 銭湯終い湯バリケードへ帰る>

 バリケードに泊まり込み、たき火を囲んで革命歌「インターナショナル」を歌った。
 今より東京の冬は寒く、銭湯の帰り、洗い髪がバリバリに凍った経験が筆者にもある。しまい湯であってみれば、寒さもひとしおだったろう。それでも仲間と連帯して闘う高揚感がエネルギーとなり、運動を支えた。

 67年2月、明治大の学費値上げ反対闘争は学生側の敗北に終わったが、2人は男子学生らと新たに「現代思想研究会」というサークルを立ち上げ、公正で平等な社会を実現しようと、学外に飛び出して、次々に起きる政治課題に向き合うことになる。
 その過程で、学生運動を指導する新左翼党派の中でも武闘派のブント(共産主義者同盟)に誘われ、さらに過激な赤軍派に加盟、数奇な人生を歩むことになる。(続く)

画像Yahoo!ニュース - Yahoo! JAPAN

文春オンライン


重信房子と遠山美枝子(2) 47NEWS

「社会科の先生に2人でなろう」お茶の水をカルチェラタンに 重信房子と遠山美枝子(2) 佐世保・王子・三里塚…続く闘い

 オランダ・ハーグ事件などによる懲役20年の刑を終え、日本赤軍の元最高幹部、重信房子が出所してから1週間後の6月4日、東京・お茶の水の居酒屋で「重信房子さんを歓迎する宴」が開かれた。主催は公判や獄中生活を支援してきた明大土曜会である。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)
   ×   ×   ×
 パレスチナにたったときから50年の空白がなかったかのように、彼女は自然体で元学友たちの中に溶けこんでいく。このしなやかさが、命の危険と隣り合わせの革命運動や、4度もがんを患いながら獄中生活を生き抜いた原動力なのだろう。「生きて出てきました」とあいさつし「大学時代は、楽しいことと、社会を良くしたいということが一致して、本当に楽しかった」と振り返った。

「歓迎する宴」での重信房子さん
 「楽しかった」というのは、大学時代の全部ではないだろう。おそらく「現代思想研究会」(以下「現思研」)の仲間との交流を指している。
 現思研は、明治大の学費値上げ反対闘争が学生側の敗北に終わったあと、重信や遠山が参加して作られたブント(共産主義者同盟)系の学生組織である。政治組織だが、サークルを装ってそう名付けられた。
 ブントは1958年、共産党から分かれ前衛党を名乗って組織され(第一次ブント)、60年安保闘争をリードしたが、解体。1966年に再建された(第二次ブント)。(■ブント(ドイツ語: Bundは、結びつき、絆、連合、結束、提携、盟約、同盟、連邦、束を意味するドイツ語の名詞。)
 現思研は勤労学生の集まりで、夜間の授業の合間を縫って明治大の学生会館に集って学習会を開いた。悩みごとも打ち明けあいながら、ときには寝泊まりもする家族的な関係で、時間が許す限り学外の活動にも参加するというスタイルだった。当時の幹部の一人も、とにかく楽しかったと振り返る。
 折しもベトナム戦争の激化で、米軍の兵たん基地となった日本からはひっきりなしに爆撃機が飛び立っていく。特需で景気は潤った。
 これに対し、同じアジアの民を見殺しにしていいのかという声が高まる。65年には市民団体の「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が抗議デモを始め、60年安保闘争の後、沈静化していた学生たちも反戦の声を上げ始めた。
 67年10月8日には、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に反対した羽田抗議デモで、18歳の京大生、山崎博昭が死んだ。60年安保闘争の樺(かんば)美智子以来、反権力闘争における学生の2人目の犠牲者である。
 ヘルメット、石、角材が、闘争の武器として本格的に登場した闘争でもある。衝撃は大きく、これをきっかけに学生運動に入っていった人も多い。日大や東大など全国の大学で学生運動の嵐が吹き荒れることになる。
 翌68年には世界初の原子力空母エンタープライズの佐世保寄港、東京北区の王子野戦病院設置、成田空港建設などに反対する学生たちが大挙してそれぞれの現地に集結し、機動隊と衝突した。
 一連の運動を指揮したのは、日本共産党に反対する新左翼の諸党派で、各大学自治会の主導権を争った。
 その一派であるブントの学生組織の書記局が明治大の学生会館に置かれたこともあって、重信や遠山ら現思研メンバーは、ブントの指導を受けて学外の政治運動に関わっていく。
 この第二次ブントは京大や同志社大といった関西の学生が中心で、武力による世界革命を掲げており、のちの赤軍派につながっていく。
 政治運動といっても、重信と遠山は主に救援担当で、ヘルメットをかぶったり、ゲバ棒を振るったりしたことはなかったという。羽田事件のときは、けが人が大勢出たので、応急手当てをしたり、病院に運んだりした。

 成田空港反対運動では地元農家に泊まって援農。後列左端が遠山美枝子さん、右が重信房子さん
 成田空港建設予定地の三里塚では、反対運動をしている地元農家に泊まって、学習会をしながら農業の手伝いもした。
 68年3月に全学連が反対同盟を支援する1万人近いデモ隊を組み、空港公団公社に突っ込む。このとき武器を用意するよう頼まれた重信と遠山は、社会人を装って、金網を切るための道具をコートの下に隠して成田まで運んでいる。
 王子の野戦病院反対集会では、ジグザグデモに機動隊が襲いかかってきて、路地に逃げこんだら、近くの民家の人が庭にかくまってくれた。「こんなところにベトナムからの傷病兵を連れ込む病院なんてまっぴらゴメンだわ。学生さんたち、がんばってね」と励まされたという。
 闘う学生たちをメディアは「暴徒」と決めつけたが、市民は好意的で、カンパを募るとヘルメットに千円札がポンポン投げ込まれた。悲惨な戦争を体験した大人たちが、学生の純粋な行動に共感したのだろう。
 外国でもスチューデントパワーが爆発し、68年5月、フランスで5月革命が起きる。ド・ゴール体制に反対する学生や労働者が機動隊と闘って、パリのカルティエラタンを解放区にした。

1969年1月18日、東大安田講堂の攻防に呼応して、明大通りで学生が乗用車などで道路を封鎖した
 日本でもやろうと、6月21日、中央大で開かれていた全学連総決起集会の参加者と明治大の現思研メンバーに、昼間部の学生らも加わって、校舎から机と椅子を持ちだし道路をふさいだ。クラクションを鳴らす車を横道に誘導、あっという間に御茶ノ水駅から駿河台下までの明大通りを解放区にした。
 機動隊が駆けつけてバリケードを壊す。すると、また積み上げ、道の敷石をはがして投げつけ、やじ馬も混じって解放区の中でデモ行進をした。夕方のラッシュ時。御茶ノ水駅で1時間近く電車が止まり、約20万人の足が乱れたと、翌日の新聞が報じている。
 パリの5月革命は労働者のゼネストと結合してド・ゴール政権を追い詰めた。一方、神田カルティエラタンはこののち何回も行われるが、解放区の中で「インターナショナル」を歌いながらデモをするだけに終わっている。
 参加者たちの思い出を読むと解放感が伝わってくる。若者たちにとっては、祝祭のようなできごとだったのだろう。重信と遠山にとっても最も充実した時期だったようだ。
 しかし、生活の中心が政治闘争になっていくと、会社勤めと学業の両立が難しくなり、2人とも会社を辞め、アルバイトや奨学金で学費を得ながら活動を継続している。それでも学業はおろそかにせず、重信は教師になるという子どもの頃からの夢に向って教育実習にも行き、69年の卒業後は政経学部に学士入学している。
 遠山はどうだったのか。服役中の重信からの手紙には次のようにあった。
 ―遠山さんも「卒業は絶対してね。社会科の先生に2人でなろうよ」と話していました―
 2人はそれぞれ、どこでどのようにして、その道から外れて行ったのか。(続く)

重信房子と遠山美枝子(1)
https://nordot.app/927070795949735936?c=39546741839462401


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?