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2020年代の未来予想図

「#2020年代の未来予想図」~

アメリカ経済学会の会長を務めたこともあった「ガルブレイス」(1908年10月15日 - 2006年4月29日)であるが、その主張は、主流派(古典派的)経済学者からは偶像破壊主義者的に見做されることも多い。
その理由としては、「ガルブレイス」が経済学の数学的なモデリングを忌避し、平易な記述の政治経済学を指向していることが挙げられる。また、さらに進んで、彼の論理が確固とした実証研究に基づいていないと批判する経済学者も少なくない。

20世紀においてその著作が最も読まれた経済学者といっても過言ではない。終身教授であったハーバード大学において、教鞭をとった1934年から1975年にかけて、50作以上の著書と1000を超える論文を著し、またルーズベルト、トルーマン、ケネディ、ジョンソンの各政権に仕えた。1961年、ケネディ大統領は、ガルブレイスを駐インド大使に任命したため、彼は1963年までその任にあった。ロバート・ラヴェット曰く、当時の財界はガルブレイスを一流の“小説家”と見なしていた。 ウイキペディア引用

BS1スペシャル「欲望の資本主義2020~日本・不確実性へ - NHK」
資本主義とは何か?欲望とは何か?そもそも、私たちは自らが欲するものをわかっているのか・?

その番組が1月3日に放送され、それをみておもったことを書こう。全体としての書評・・・、「経済は何もわからない」といった総合判断に倣ってなにもわからなかった? 世界の著名な経済学者が自らの理論を語って経済を導こうとしたが、どれも当てはまらないと、今の学者が語っている。

唯一、金字塔のように登場するのは「ケインズ」と「アダム・スミス」だった。まったく古典的論理だが、それを核として、他の経済論が発展している。そして2020年代に入って、ますますその期待度は高まるばかりだが、われわれは、そこの何に期待しているのだろうか。結論的にそれは「何もわからない処方もない」経済に輝かしい未来があると盲目的に期待し、仮想現実をただ脳裏に描いているだけなのだろうか。と。

とくに思ったのは資本主義と民主主義の乖離が甚だしいと、ある学者が指摘していたことだ。そのことは以前より私も感じていたことだし、それは私だけでなく多くの人が一様に抱く疑問だろうと思う。

そこで考えられるのは金銭経済はともかく、民主主義とはなんだろうか、という全体像を確認する必要があった。その歴史をひもとけばギリシア哲学者のアリストテレスまでに及ぶが、そんな難しい話ではなく、人間の階級が等しく権利が与えられている、という考えだ。その近代歴史を調べてみると、世界の民は、「君主」という絶対権力者に例外なく統治されていたという歴史があり、ネットSNS発言のような自由度が与えられたのは、数十年の歴史でしかない。

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そんなことを考えれば、「民主主義」とは何か、という今更ながらの基本を復習する必要があるが、法律で謳う「三権分立」はともかくとして、それによった選挙制度がなぜ、正しく機能していないのか、という提起も考慮すると、その民主主義というのは簡単には括れない。

そもそも君主・独裁政治など過去の歴史事実を世界は経験して、それから脱却するのに途方もない時間と血を流し、そして権利を奪取したはずだったが、そこにピッタリ寄り添って歩んできた「経済」という生きるための手段に、苦しめられるとは夢にも思わなかったと感じているはずだ。

少数の階層による通貨の寡占によって富の不均衡は君主政治の時代から存在していたが、イギリス産業革命以来の工業化によって、近代社会には、そうした階層が、今度は新たな潮流として台頭したという時代推移が始まっている。その顕著な例が昨今のインターネットのデジタル革命で、そのことが世界経済に多大な影響を及ぼしていることは間違いないと専門家が指摘する。

そのことは冒頭言及した民主主義と資本主義の乖離の幅であり、ある特定の企業体(GAFA)が独占する金銭が、主要1国の国民総生産額を数字で凌駕しているという報告だった。さらに指摘されたのは、従来のアナログ的工業生産能力と比較した場合、それらのデジタル生産の能力は1000倍の能力を持っているという。

では何がそんなにもキャパシティーに差があり、仮にあったとしても、それれが人々にどうした訳で支持されるのかという、経済の謎々を解かないことには、この争点を理解することはできない。

それを一番判り易い例として挙げられるのが、新旧交代、時代変遷の過程で起きた映像コンテンツのテレビとパソコンそして動画youtubeの交代劇だった。それを語ったある投稿記事参考にしてみよう。

1980年代においてテレビが圧倒的な影響力をもちえた源泉は、ポストモダン社会を半歩先取りしていたがゆえにもたらされたものだった。したがって、社会そのものがポストモダン的になってしまったことがひろく感覚されるようになってしまえば、その力の源泉は価値を失い、枯れてしまう。1990年代以降におきたのは、そういうことだった。テレビについてテレビが語る自己言及は少なくない。だが、批判的に自己を相対化するのはむずかしく、たいていは自画自賛や自己憐憫にとどまる。これにたいし本作品は、すでに「マスメディアの王様」の地位から没落してひさしい21世紀のテレビを冷静に相対化しようとする視線を、それなりに保持しつづけているように見える。それは、業界に生きる人間として勇気ある態度と、ひとまずよんでよいとおもうつまり、テレビはみずからが先取りし、それによってみずからを「王様」の地位に押し上げてくれたものとまったく同じ力動によって呑み込まれ、凋落したのだ。ただ、ぼく個人のきわめて身勝手な願望としていえば、そういう発言をするひとがテレビやマスメディア業界の内部者であってほしくはない。ニヒリズムとしてでなく、みずからの無力さにどれだけ深く絶望できるか。そこからしか始まらないとおもうからだ。

『さよならテレビ』の逆説 2020年01月03日 20:25 より
長谷川一 明治学院大学 文学部 芸術学科 教授(芸術メディア論コース)。博士(学際情報学)東京大学。専門は、メディア論、メディア思想、文化社会学。エッセイスト、散歩旅人。テクノロジーがその隅々にまで浸透した現代の「日常」のあり方を探求・考察している。日常を、機械と身体の協調的に運動する「アトラクション」という単位からとらえ、さまざまな「あたりまえ」の背後にある思想を読み解く。しばしば旅に出るが、基本は引きこもり系。

これはテレビ凋落の話しだが、そこに「新聞」とセットしても、ほゞ同じ論調になる。

でもそれが本当の話しだろうかと、疑ってしまう。劇映画の勧善懲悪でパターン化したステレオタイプの、そのテレビ骨董論が果たして正鵠な論理だろうかと。

そのテレビは、その昔、ぴったり寄り添って観て耽溺していたテレビが、今となっては無用の長物として邪魔もの扱いするとは、どういうことなんだろうか。例えて見れば、生まれてこの方育ててくれた父親母親が老齢化して人間として機能しなくなった、また健在でありながら価値観の相違で骨肉論争にいたるという宿命は判っているが、どうにもこうにもそれが許容されないという、そこいらによくある世間話しの定型だ。

ではその骨董化したテレビが、世界を席巻しているモバイルコンテンツと何が違うのかと、よくよく眺めると、なんにも変わらない二次元動画が動いているだけの話しだ。試しに、テレビ番組をそのままスマホ放映(現既成化)を無料で24時間アウトプットして、市場に公開したらどんな反応があるのか見てみたいものだ。サイズの問題だろう。新聞のタブロイド四辺サイズが今のデジタル社会に適合してなかった。だからテレビインチサイズだったらコンパクトにしてスマホサイズで放映したら同じ土俵で戦えると。

何が云いたいのかといったら、現スマホコンテンツに満載されているい情報が、ユーザーの需要をどのくらい満たしているかといったら、せいぜい星占いの「今月の運、天秤座は大金が手に入るかも」といった未必の故意のような、あるかないかもわからない情報を、単に垂れ流しているように錯覚しているのは私だけではあるまい。

それがまったく無益かといったら、そうでもなくて、実際1万円札をその帰りに拾った、という話しは確率として低いがないことはない。そんな人にUFOはこの世にない、と断定しても、それを真っ向認めないという二者間、に横たわる価値観の話し以前の、云った、云わない、みた、みないの相違である。付け加えるなら、番組の中で岩井克人(経済学者)が述べていたコメントが記憶にのこる。SNSの中で取引される「いいね」はまったく無根拠だと。たしかに、それをしている私もあなたも、「いいね」がどれほど有用であるか、考えたこともない。それは単なるサイト側の人気取りバージョンであり、それが連帯(ある時期にあった)を生むということはない。また、ネットSNSが現代人の守護神になり得るとはいいがたく、本質的に仮想空間世界であることは理解しつつも、神不在の空みこし同様、姿形は「みこし」金ピカスタイルだが、その筐体にセットすべき「御神体」がないただの箱を拝んでいる様に近似している。いまの世相は、それであるし、その中に何があるのか知らない世代が、スマホに熱中するというのは、まったく相関関係で逆説論として、それは間違っていない。

だからそれは対立構図の座標軸比較として必要なのである。

そして世界を揺るがす経済論を展開してみれば、まったくそれと同じ付和雷同の人間思考で、遥か彼方で鳴る風神雷神さまが鳴らす落雷音に、一喜一憂し、一斉にそちらに関心を示すという故事は、物事の描写を四字熟語で見事に語っている。

金は人様がそれを金と認めているから金である、という経済の大原則は、その「〇」部分になにをセットしても有効となるのは、それがすべて仮想とする前提があるからにほかならない。それは「いいね」論ロジックと寸分の狂いもない。

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BS1スペシャル「欲望の資本主義2020~日本・不確実性へ - NHK、これは毎回、欠かさずみているが、その主題曲と、ガイドナレーション「やくしまるえつこ」がとてもよくて見ていた。この「やくしまるえつこ」はてっきり薬師丸ひろ子の娘かと妄信していたが、縁もゆかりもない他人であることを初めて知った。「やくしまるえつこ」は既に音楽家として知名度があり坂本隆一などとアルバムを作ったりしており、実力派であることが判った。前項の経済論と同じく、新旧交代が著しい近代世相にあって、今までにない逸材が多数輩出していることは悦ばしいことと溜飲を下げる。画像はその「やくしまるえつこ」ジャケットを引用した。


「欲望の資本主義2020~日本・不確実性へ - NHK 主題曲 三宅純



#2020

#BusinessInsider


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