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宇宙の上~下の座標系は、

「その山に登る」ことはムリ、という現代経済指数の呪縛

「Climbers」
マルクス・アウレリウスという人の逸話だった。アウレリウスが書き下した言葉が紹介した「投げられた石にとって登っていくことが善でもなければ、落ちていくことが悪でもない」という言葉だった。

こうした設定の檀上で、用意したそのA4印字原稿を読み上げる「招聘経済人」には、むりなテーマ挨拶だな、と咄嗟に感じ取った。「Climbers(クライマーズ)

といいつつ、わが身として今日は、その言葉を結論として提示したいなと思っています。
という成田祐輔氏の挨拶にあった、「マルクス・アウレリウス」という人物は、不覚にも知らなかった。テーマからして登山家なんだろうか、という浅学を晒した。

その成田氏の開口、講演挨拶からして「マルクス・アウレリウス」を比喩として語るのは、さすがにアメリカ一流大学教授の言説に相応しい。こうした例題で挙げるのは決まって、ローマ帝国かギリシア神話、ヘロドトスオデッセイ(ヘロドトス自身の叙述から拾い集められる情報バビロニア、エジプト、アナトリア、クリミア、ペルシアに伝わる伝記口述による叙事詩)、
が定番で、東アジアの仏陀、三蔵法師にはならない。

ましてや世界的な研究成果をのこした日本人「南方熊楠」偉人伝を挙げた著名人をみたことがない。

むしろ万金経済世界で話題性のあるのは古典『ケインズ論』で、以下それに続く気鋭の若手経済論客である。


フリーメイソン
16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社。

現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人を超え、うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属している。「フリーメイソン」とは厳密には各個人会員の事を指しており、団体名としては以下の通り。

英: Freemasonry(フリーメイソンリー)
仏: Franc-maconnerie(フランマソヌリ)
伊: Massoneria(マッソネリア)
独: Freimaurerei(フライマウレライ)
露: Масонство(マソンストヴォ)
以下、英語的な発音である「フリーメイソンリー」と記載するが、「フラン・マソン」や「マッソン結社」なども使われている。なお本項目は「フリーメイソン」と表記しているが、日本グランド・ロッジは「フリーメイスン」と表記している。

この友愛結社(組合)は、管轄上、独立したグランドロッジ(英語版)もしくは一部が東方社(オリエント、大東社系)の形で組織され、それぞれが下部組織(下位のロッジ)から成る自身の管区を管轄している。これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い、あるいは拒否し、境界を形成する。また、フリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付属団体が存在するが、それらはそれぞれが独立した組織である。
フリーメイソンリーは秘密結社 または「semi-secret」(半分秘密の) 団体と表現する場合があるが、いかなる団体であれ団体内部の秘密というものがあり、そうした視点においてフリーメイソンリーは広く知られた公開結社なのであるというフリーメイソンリー側の意見もある。「お前、秘密を漏らしたら首を切るぞ」と脅かして口伝で秘技を伝えた実務的メイソンの時代は400年間続いた。

西洋史に深いかかわりをもつ。帝国郵便を担うトゥルン・ウント・タクシス家出身の皇帝特別主席代理は全員がフリーメイソンであった。

石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在した、とする説もある。こうした職人団体としてのフリーメイソンリーは近代になって衰えたが、イギリスでは建築に関係のない貴族、紳士、知識人がフリーメイソンリーに加入し始めた(思索的メイソンリー。「思弁的-」とも)。それと共に、フリーメイソンリーは職人団体から、友愛団体に変貌したとするのである。

または、実務的メイソンリーとの直接の関係はなく、その組織を参考に、貴族たちが別個に作ったのが、思索的メイソンリーであるともいう。
中世ヨーロッパでは、建築はあらゆる分野の技術に精通する必要がある「王者の技術」とされ、建築学や職人の社会的地位は高かった。また、技術の伝承についても厳しい掟が設けられた。その神秘性から、実務的メイソンリーが貴族などに注目され、薔薇十字団の正体ではないかと期待する者もあった。もっとも、これについては実務的メイソンリーはあくまでも石工団体であり、期待は裏切られた結果に終わったようである。(資料ウイキペディア)

ロックフェラー 中野渉The Huffington Post

ロックフェラー氏は1915年、ニューヨーク・マンハッタン生まれ。祖父は石油大手エクソンモービルの前身であるスタンダード・オイルを創業して巨財を築いたジョン・ロックフェラー。ハーバード大学を卒業した後、40年シカゴ大学で経済学博士号取得。ニューヨーク市長の秘書などをした後、46年に金融業界に入り、69~81年にチェース・マンハッタン銀行(現JPモルガン・チェース)の会長を務めた。時事ドットコムによると、日本との関わりも深く、73年には日米欧の民間有識者で構成する政策協議グループ「三極委員会」を創設。94年の天皇、皇后両陛下のニューヨーク訪問時には歓迎委員会委員長を務め、自宅での晩餐会にも招いた。

ニューヨーク近代美術館(MoMA)などに、日本円で計2250億円相当の寄付を行う慈善家としても知られていた。

AFPBB Newsは21日、ロックフェラー氏の経済界における功績の一つとして「1972年にリチャード・ニクソン大統領が旧ソ連と中国を訪問した後、モスクワと中国本土にそれぞれ米銀として初となる支店を開設したことが挙げられる」と伝えた。
いま、そうした一部の人間に拠って世界の金の99パーセントが彼らに拠って寡占状態に占有されていることが指摘され、富の格差とそして国家レベルの貧困が世界平和の脅威だとして、問題視されている。

考えてみれば紀元前のメソポタミアよりギリシアにいたるまでの歴史は神話で語られ、そこには戦争勝利逸話によって埋め尽くされている。
その原動力は一般人からなる「傭兵」であり、そこに武勇伝説が書き加えられる。その部分をよくよく検討してみると戦争行為は現代の企業戦略であり傭兵とは、その企業の社員であることがわかる。

古代欧州歴史を調べてみれば、セレウコスとアンティオコス王権に二分され、それが現代までに存続している。

セレウコス4世フィロパトル(紀元前218年? - 紀元前175年)はセレウコス朝シリアの王(在位:紀元前187年 - 紀元前175年)。アンティオコス3世(大王)の子。アンティオコス4世エピファネスの兄。フィロパトル(愛父王)と称される。
父アンティオコス3世がシリア戦争においてローマに敗北し、アパメア和約(紀元前188年)により莫大な賠償金を課せられたため、父の死後即位したセレウコス4世は賠償金の支払いに苦しめられる事となった。

アンティオコス3世(紀元前241年 – 紀元前187年、在位:紀元前223年‐紀元前187年)は、セレウコス朝の君主。 セレウコス朝のセレウコス2世の息子。兄弟であったセレウコス3世が暗殺されたのを機に即位した。
前代まで縮小傾向にあったセレウコス朝の領土を拡大し、東方はインドにまで遠征して大王の称号を得た。

また傭兵を確保するには厚生施設が不可欠であり、ローマ帝国はその充実ぶりで戦力を誇っていたという。(ウイキペディア)

ヨーロッパ君主代表的超富豪は、アナログ時代の産物でありまた、地球人間歴史そのものと換言していいが、戦後より始まったITインフラが飛躍的発展を遂げて、これまでの地球支配権の構図が変り始めている。
そこに描かれた過去の「神話」は存在せず、すべてが新たに書き加える必要に迫られている。

そこで原点を今一度俯瞰してみれば「金銭価値観」を再定義する必要がある。そのサンプルとして、それが「仮想通貨」だと、肯定する必然性はどこにもないが、ではその代替はなにか、という問いにだれか答えられるだろうか。
もしそれがなかったら既成事実の現況として消すに消せない物理価値としてしばらくは存続するはずだ。

近い将来、この金銭価値(紙幣、銀銅貨幣)は生産コストを考えると無用な物理系スタイルとして淘汰されることが考えられる。いや実際そうなっいてる。

一方で、あてどもない大量生産は誰のためか、はたまた世界人口激減で起こるべき消費形態の方法論の解説書を誰が書くのか。また過去の歴史を踏襲して「国敗れて山河あり」の跡地に他民族が移入して、国そのものの入れ替えで再度歴史が同じ道を歩むのかその選択の仕方は誰もしらない。おそらく古来より、そうしたリサイクルはあっただろうし、それが千年ニ千年前の古墳時代の形態だったら、記録にも残っていないので、現代人は知ることもない。
そしていま一番はっきりしているのが、箱はあっても空箱ばかりで、その数がどんどん増えているという事実だ。

いまさら物欲主義はやめようぜ、電気はいらないからランプで暮らそうなんて御伽話しは逆説絵空ごとで、利発な賢い小学生に笑われ一蹴される。
それでも手本の実績として真にそれを見せれば納得してくれるだろうとほのかな期待はある。
その最初は、このデジタルインフラを駆使して、するべき事柄を啓蒙し、賛同者を募ることだと思っている。

その方向を定めるのに手元でコンマ1ミリの誤差は先方100キロ先では、数千倍のズレが生じる。それを修正しながら進むのは、このデジタルテクノロジーがもつとも優れた機材であるとおもう。

■南方熊楠は、幼少時から和漢の博物学を身につけた後、アメリカとイギリスで研究を進め、科学誌の『ネイチャー』、フォークロア誌の『ノーツ・アンド・クエリーズ』に多くの英文論考を掲載する等の活動をおこなった。33 歳で帰国した後は、「南方マンダラ」と呼ばれる独自の世界観と紀伊半島の生物の悉皆調査に基づいて生態系の保全運動を展開した。熊楠の活動は、従来、根拠のない逸話やイメージのみによって語られることが多かったが、近年は急速に資料調査が進みつつある。本研究は、一次資料をデジタル画像化し、適宜翻刻やデータベース化をおこなうことで、熊楠の知的活動を、実証的に読み解いていくことを目的としている。
出生地: 和歌山県 和歌山市
生年月日: 1867年4月15日
死亡日: 1941年12月29日, 和歌山県 和歌山市
南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。

生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。

1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。

民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。

フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称され、現代では「知の巨人」との評価もある。

現在の和歌山県和歌山市に生まれ、東京での学生生活の後に渡米。さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。

熊楠の学問は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学など様々な分野に及んでおり、その学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎や那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。

1893年(明治25年)のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表した。また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や考古学、宗教学、セクソロジーなどを独学した。さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史、民俗学、人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ(英語版)』に次々と寄稿した。

生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。

帰国後は、和歌山県田辺町(現・田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しい属となった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。

来歴 ※日付は1872年まで旧暦

慶応3年(1867年)4月15日、和歌山城城下町の橋丁(現・和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む南方弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる。南方家は、海南市にある藤白神社を信仰していた。藤白神社には熊野神が籠るといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」と熊野の「熊」そして、この大楠の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。
南方家の子どもたちは、全て藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かった。生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字を貪り読んで成長した。学問に興味を持ったのも幼年期からで父親の前妻の兄が学文好きだったので、その残した書籍を読んでおり、学校に入る前から大抵の漢字の音訓を諳んじていた。父弥兵衛は熊楠の様子を見て「この子だけは学問をさせようということで、随分学問を奨励して呉れた」と熊楠は語っている。そのため熊楠は就学前に寺子屋に通わせてもらっていた。他にも漢学塾、心学塾にも通っている。

1873年(明治6年)、雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)が創設され同校に入学。
1874年(明治7年)頃、近所の産婦人科佐竹宅で『和漢三才図会』を初めて見る。数え10歳の時に売りに出ていたものを父にねだったが買ってもらえなかった。
1876年(明治9年)、雄小学校卒業、鍾秀学校に入学。しかし父からあまり書籍を買ってもらえなかったため、岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶しながらの筆写を始める。
この他12歳迄に『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等をも筆写も本格的に行う。これにより熊楠の生涯にわたり筆写で行なう学問スタイルが培われた。ウイキペディア

「Climbers」 (クライマーズ)~


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