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月夜の姫 山口 小夜子

日々 大学生、音楽が好き。の「かや」さんからスキをいただいたので、改めて「山口小夜子」 の追憶更新を書こうとおもう。

内容は、ウイキペディア資料そのまま引用掲載なので、とくに新しいものではない。もっとも亡くなって16年も経過しているので、新しくする必要もない。

画像は「山口小夜子」本人ではない。「現代の鶴田流琳派」としてその地位を確立している鶴田一郎による画像だ。

ある日、とてもよく似た二つ「頬画」が、どう見ても同一人物にしか見えないと、考えあぐねていた。そうこうしているうち数年たって、ある旅先の宿の地方新聞の記事にその画(鶴田一郎)の絵が目に留まった。

それを観て直感的に、「月夜の姫小夜子」のモデル画だと思った。その後、いろいろ文献を漁ってみたが、鶴田一郎の書いた絵の被写体が「山口小夜子」であるという記事を見ても読んでもいない。

まして私が山口小夜子の熱烈なファン、というわけでもなく、その小夜子というルビをいまだに覚えていない理由もある。

だからそれはそれで、いいとして、若い女性羨望のまなざしを一身に受け、この混沌としたSNS時代に、ひかり輝けば、私はそれで満足しているし、忘れたころに、この記事を読んで頂ければまた書こうと思う。

山口 小夜子(やまぐち さよこ、1949年9月19日 - 2007年8月14日 故人)は、日本のファッションモデル。活動はモデルだけに留まらず女優、パフォーマー、ファッションデザイナー、と多岐にわたる。また晩年は、その活動を自ら「ウェアリスト」と説明していた。(パリコレデビュー ~ 資生堂専属モデル契約)

京浜女子大学横浜高等学校、下赤塚に住み学校法人杉野学園ドレスメーカー女学院に通う。卒業後、1971年にプロのモデルとしてデビューし、高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集める。

1959年にルイ・フェロー(英語版)に見い出されてアジア系モデルとして初めてパリコレクションに起用された松田和子、1960年にピエール・カルダンに見い出された松本弘子に続き、1972年にパリコレクションに起用され、次いでニューヨークコレクションにも出演した。

彼女は1960年代にパリコレクションで活躍した松田和子や松本弘子のような大きな目でキュートな顔立ちのモデルとは違い、切れ長の目と黒髪のおかっぱ髪で登場し日本人ブームを起こした。

白い肌に切れ長の目の美しさを作り出す繊細なアイライン、高い位置のチーク、くっきり縁取った赤いリップによる彼女のエキゾチックな顔は、ヨーロッパで熱狂的に支持され、「SAYOKO マネキン」というマネキン人形が欧米のブティックを席巻した。なお現在でも《アナスイ》ニューヨーク店で使用されている。その姿は「東洋の神秘」と称され世界中から注目を浴び、多くの伝説を残し、2007年8月に急性肺炎のため死去した。             

※アナスイ(ANNA SUI)は、アメリカ合衆国出身のファッションデザイナーであり、同デザイナー制作による1980年設立の女性向けファッションブランド。アメリカ・ニューヨークに本社を置く「アナ・スイ」社の基幹ファッションブランド、婦人服のほか、時計、アクセサリー、バッグ、ならびに化粧品などを展開している。

1973年から1986年まで、資生堂のモデルとして専属契約を結び「美」の普遍的イメージを国内外に発信していくことになる。

1973年の『シフォネット』のポスターは、ハーフモデル全盛の時代に、黒髪おかっぱのいかにも「日本人らしい」モデルの登場を鮮烈に印象づけ、時代の転換点を体現した。 モデルとして活動しながら、ファッションデザインや服飾品のプロデュースも幾度となく担当。1977年には、雑誌『ニューズウィーク』の「世界のトップモデル6人」にアジア人で初めて選ばれた。

舞台・映画・ダンス・デザイン

モデルとしての活動の傍ら、舞台および映画女優としての活動も開始。寺山修司演出の『中国の不思議な役人』(1977年)の稽古で天井桟敷のメソッドに触れ、飛躍的に表現の幅を広げた後、同年に映画『杳子』、1981年には重信浩演出による半自叙伝的舞台『小夜子:山口小夜子の世界』(1980年)で主演を務める。

その他、演出家 佐藤信の舞台『忘れな草』(1986年)、国際エミー賞ほかを受賞したNHK音楽ファンタジー『カルメン』(1989年)、江戸時代から続く糸あやつり人形劇団 結城座の人形たちと共演した『ペレアスとメリザンド』(1992年)など多くの舞台に出演する。

一方で、舞踏やダンスの分野にも活動の場を拡げていく。1986年にはパリ市立劇場(フランス語版)を拠点として活動する舞踏グループ 山海塾からメソッドを学び、横須賀功光の撮影による写真集『月 小夜子/山海塾』で共演。1987年には、勅使河原三郎/KARASとのコラボレーションを始め、以後ダンサーとして、1996年頃まで世界ツアーも含めて彼らと活動をともにする。

また、音楽や舞、ファッションショーが一体化した壮麗な舞台の出演者としても、林英哲、山本寛斎、和田勉、毛利臣男、天児牛大らとのコラボレーションを行った数多くの仕事がある。さらに、クリエイターとしても舞台の衣装を数多く担当。自らも出演した天児牛大演出のオペラ『青ひげ公の城』(1997年)で、衣装デザインを担当したほか、フランス・リヨン国立歌劇場で初演された、同じく天児牛大演出のオペラ『三人姉妹』(1988年)の衣装デザイン、2004年の佐藤信演出のふたつの舞台『リア王の悲劇』の衣装デザイン、結城座公演『夢の浮橋~人形たちとの<源氏物語>』の人形デザインおよび人形遣いのスタイリングも手がける。
ウィキペディア 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鶴田 一郎は日本の画家。独特のタッチで描かれた日本女性の美人画で有名である。 1987年5月から1998年5月まで続いたノエビアのCM「コスメティックルネッサンス」シリーズで起用されたことで有名となった。
近年は美人画のみならず、現代の鶴田流琳派をテーマに「雪」「月」「花」や「海を渡る」、仏画などの大作にも挑んでいる。 ウィキペディア 出生地: 1954年4月13日 (年齢 68歳)熊本県 天草市ウィキペディア

画像 鶴田一郎事務所 | 版元ドットコム

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