見出し画像

地下資源量で国力がきまる

伝統の音色響き渡り - 管絃と舞楽で観客魅了/斑鳩で雅楽フェスティバル2018.09.24 奈良新聞

 第12回「斑鳩雅楽フェスティバル―雅楽幽遠の奏」(斑鳩町文化振興財団主催、奈良新聞社など後援)が23日、同町興留10丁目のいかるがホールで開かれた。県内5つの雅楽団体の管絃と舞楽に、地元住民ら約300人が聴き入った。
「仏教の興隆に蕃楽(はんがく)をもってせよ」と、聖徳太子が奨励した外国の音楽(唐)、聖徳太子ゆかりの地である同町内で雅楽を鑑賞してもらおうと、毎年奈良斑鳩で開催している。 部分引用

神仙とは(雅楽譜)

古代中国において、不老長寿の人間、いわゆる仙人の実在を信じて、みずからも仙術によって仙人たらんことを願った思想・・・。

前4世紀頃から、身体に羽が生えていて空中を自由に飛行できる人が南遠の地や高山に住んでいるとか、現在の「渤海湾」の沖遠くに浮ぶ蓬莱などの三神山に長生不死の人とその薬があるとかいう説があり、そのような人々が仙と呼ばれた。(渤海地は旧く栄えた古代中国にあった)

仙人になるには、体操による訓練か薬かのどちらかが選ばれ、両方の研究は唐代以後にも続けられ、その過程で中国の医学や化学が発達した。この神仙思想が道家思想や五行説と結びついて成立した宗教が、中国3大宗教の一つとされる道教である。

元々法力と神通力を持ってる神たち。神仙はすべて人間の形を本体にしているが、化身としては山や川などの自然や自然現象、神話に残る祖霊、重大な歴史的事件や小説の登場人物はなどの形たちにしてる。中国人はそれらを敬い、また彼らの神通力や天に住むことを求めて、自然と神仙とは一体的なものに認識され、人間自身も「神仙」になることができる。不老不死などの霊効をもつ霊薬「仙丹(金丹)」をねる煉丹術(中国での錬金術)がある。これは錬金術そのもので水銀(丹)を原料とする。このため、仙道の求道者、乃至不老不死の探求者、唐の皇帝などが仙薬を服用して水銀中毒になる、などの事例も多かった。

内丹術

鉱物を原料に金丹を練って服用する外丹に対し、自己の体内に存する精・気・神を薬物として自己の身中に丹を生成する煉丹術を内丹という。
道教研究者によれば、内丹説は隋代の蘇元朗に始まるという。外丹術が盛行した唐代には内丹術と外丹術は並存しており、当時の書物である『上洞心経丹訣』などは内丹と外丹を双修すべきことを説いているが、外丹術は宋代には下火になっていった。
一方、内丹術は唐末五代に隆盛し、五代の成立と言われる『鍾呂伝道集』や『霊宝畢法』の出現をもってひとつの完成形が示され、北宋に著された『悟真篇』によって大成して、南宋以降にさらに発展していった。
北宋の張伯端のように、出家を否定し道教教団とは関わりのないところで修行し弟子に伝える修煉の士もいたが、出家主義をとる全真教に取り入れられた内丹術は道観のなかで「口伝」によって受け継がれてきた。

現在では種々の修法があり、およそ700の流派があるともいわれる。北京・白雲観を大本山とする全真教の龍門派からは明末に伍冲虚、清代には伍冲虚の教えを受けた柳華陽を輩出し、この両者は、本来は「口訣」を旨とした「修法」の概要を書物に著した。
その丹法は伍柳派と称され、多くの一般賛同者を外部に得て、政治家や軍人、文人などの在家修行者を増やした。現代に伝わる内丹術のひとつの形式は、武息・文息という吐納(呼吸法)により体内の丹田に気を練ることを基本とする。

雅楽における神仙

神通力をもった人。神や仙人。 日本の十二律の一。
西洋音楽のハ音、中国の十二律の無射ぶえきに相当する。
十二律(じゅうにりつ)とは、中国や朝鮮、日本の伝統音楽で用いられる12種類の標準的な高さの音。三分損益法に基づく、1オクターヴ内の12の音である。律とは本来、音を定める竹の管であり、その長さの違いによって12の音の高さを定めた。周代において確立した。

中国の律を低いものから高いものへと並べ、西洋音楽の音名と対照すると以下のようになる(規準音である黄鐘をCとした場合)。この名称は朝鮮でも用いられる。
黄鐘こうしょう – C大呂たいりょ – C♯太簇たいそう – D夾鐘きょうしょう –D♯姑洗こせん – E仲呂ちゅうりょ – F蕤賓すいひん – F♯林鐘りんしょう – G夷則いそく – G♯南呂なんりょ – A無射ぶえき – A♯応鐘おうしょう – Bなお十二律は陰陽に分けられ、奇数の各律は陽律であり、律と呼ばれ、六律りくりつと総称される。偶数の各律は陰律であり、呂と呼ばれ、六呂りくりょと総称される。よって律呂の名がある。

日本における十二律は、中国とは異なる。
壱越いちこつ – D断金たんぎん – D♯平調ひょうじょう – E勝絶しょうぜつ – F下無しもむ – F♯双調そうじょう – G鳧鐘ふしょう – G♯黄鐘おうしき – A鸞鏡らんけい – A♯盤渉ばんしき – B神仙しんせん – C上無かみむ – C♯ である。

「アマテラスオオミカミ」 日本神話で、高天原(たかまがはら)の主神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神であり、また、皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られている。大日孁貴(おおひるめのむち)。
日本神話にみえる神話上の場所。天照大神(あまてらすおおかみ)が高天原(たかまがはら)での素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱行にたまりかね天の岩屋戸にこもると世は常闇(とこやみ)となった。神々は集まって評議し、中臣(なかとみ)氏の祖天児屋命(あめのこやねのみこと)、忌部(いんべ)氏の祖太玉命(ふとたまのみこと)などに祭りを行わせた。
資料ウイキペディア 百科事典

「砒素」は昔もいまも国家必須の必需鉱物資源 

■汚染源だった砒素
日本では1920年代以降、宮崎県の土呂久鉱山、松尾鉱山、島根県の笹々谷鉱山など、硫砒鉄鉱を焼いて亜砒酸を製造した鉱山周辺で、住民や労働者の間に皮膚に特徴のある病気が多発した。環境省や厚生労働省が、その病気を慢性砒素中毒と認めたのは1970年代にはいってからであった。旧土呂久鉱山(高千穂地方)は、江戸時代から銀や錫を採掘が始まり、大正時代以降は主にヒ素鉱石(殺虫剤や農薬原料となる亜ヒ酸の製造に使用)の採掘が盛んとなり1960年代まで生産を継続した後、1962年に閉山。(注1)

砒素汚染 
金瓜石鉱山(きんかせき こうざん)は、台湾北部の新北市瑞芳区(旧台北州基隆郡)にあった金鉱山。かつては、東北アジア第1の金山と呼ばれ、非常に栄えた。現在は廃鉱となっているものの、観光地化されている。ここでは鉱脈発見に伴い生まれ、鉱山と共に発展した、金瓜石の街についても併せて記載している。

清朝統治時代

記録によれば当時の金瓜石の山の標高は海抜約660mで、現在よりも80m程高かったという。直径100m近い巨大な円筒型の岩山がそびえ立っていたことになる。その巨岩が瓜のような形をしており、また金を多く含んでいたので「金の瓜の石」即ち金瓜石と呼ばれ、それがそのまま地名となったと伝わる。台湾の言葉で南瓜(かぼちゃ)のことを金瓜を呼ぶが、金瓜石の山がかぼちゃの様な形をしているので金瓜石と呼ぶのだ、というのは誤りである。

1890年(明治23年)、基隆川に架ける鉄道橋工事の最中、作業員によって渓流から砂金が発見された。以後猴硐溯から小粗坑溪、大粗坑溪に沿って上流への鉱脈探索が進められ、1893年には九份(きゅうふん)にて金鉱を発見、一躍ゴールドラッシュの様相を呈した。翌1894年には金瓜石でも金鉱が発見されたが、当時日清戦争などで清国政府は鉱山の管理どころでなく、ほぼ放任状態だったという。

日本統治時代 日本統治時代の金瓜石

1895年(明治28年)、台湾の統治者となった日本政府はただちに金鉱採掘禁止令をしき、翌1896年(明治29年)には新しく鉱業管理規則を発布した。 それと同時に基隆山山頂を境として一帯が東西に分けられ、東の金瓜石は田中長兵衛の田中組に、西の瑞芳は「藤田伝三郎の藤田組」にそれぞれ採掘権が与えられた。

田中長兵衛は現場の責任者に小松仁三郎を任命。内地から多数の日本人技術者を招聘して鋭意鉱山の運営に力を注ぎ、金瓜石鉱山は数年たらずの間に著しい発展をとげた。 記録によれば、1898年(明治31年)頃の金瓜石鉱山の採掘夫は全て日本人で計130人に達し、運搬、雑役などを務めた台湾人坑夫の総数120人よりも多かったという。1902年(明治35年)頃には金瓜石鉱山の年産金量はすでに2万両(約750kg)を越すまでになっている。

1904年(明治37年)6月に獅子岩の麓で豊富な硫砒銅鉱が発見され、金瓜石は金ばかりでなく銅鉱としても大規模な鉱床であることが明らかになった。この新しい鉱床は当時の鉱主2代目田中長兵衛と技師長小松仁三郎の名前を1字ずつ取って「長仁鉱床」と命名された。 田中長兵衛は水南洞に乾式製錬所を建設して粗銅を製錬させ、1913年(大正2年)には基隆炭鉱の所有者でもある木村久太郎から台湾三金山の1つと言われた牡丹坑鉱山を26万円で買収、これを金瓜石鉱山と合併し大いに業績を上げている。1914年(大正3年)当時の従業員数は日本人599人、台湾人169人で、別に下請坑夫が2,000人近くいたという。

第一次世界大戦後の不況で1918年(大正7年)頃から不振に陥った田中長兵衛は、当時の技師長・田中清や新興実業家の後宮信太郎(うしろく しんたろう)らと共に会社を株式会社化。田中鉱山株式会社としてその社長に就任し、台湾の鉱山経営は後宮たちに一任した。その後田中清は水南洞の銅製錬所を1923年(大正12年)に閉鎖して九州は大分の佐賀関製錬所に売却を決めた。 当時の生産量は年平均で金11,000両(420kg)、銅700t程度であった。鉱石は基隆山の峠を越えて船積みされ、内地大分まで運ばれて佐賀関で精錬された。

1922年には翌年台湾に行幸する皇太子を迎える為、2代目田中長兵衛により檜造りの日本家屋、太子賓館が建てられる。情勢変化のためか皇太子が金瓜石に訪れることは無かったが、後に他の皇族が宿泊したと言われる。

1925年秋、2代目長兵衛の後を継いだ田中長一郎より株式を譲り受けた後宮信太郎が金瓜石鉱山株式会社を創設、そちらに経営権が移る。 金の生産は降り坂になっていたが、後宮は機械化採掘法を導入、また新しい鉱床の開発にも力を入れたため生産量はV字回復し、1930年(昭和5年)の金の生産量は33,800円(約1.2t)を記録し、銅、銀その他を含む営業額は4,000,000円を上回った。

1933年(昭和8年)、かねてから海外の鉱山の経営に手をのばしていた久原房之助の日本鉱業(久原鉱業)は、現金株式併せて当時の金額でおよそ2千万円を支払い、後宮信太郎から金瓜石鉱山を買収。その頃働いていた日本人を全て朝鮮など他の鉱山に移転させ、替わりに日本鉱業の持ち山から400名余りの技術者を選抜し投入した。
久原は資本金1千万円で台湾鉱業株式会社を設立、増資に次ぐ増資で1935年(昭和10年)には1年に粗鉱量100万tを処理する名実ともに東洋一を誇る大鉱山を誕生させた。

金瓜石は最盛期の1930年代半ばには住民15,000人を数えるまでなり、1936年の採掘量は金5t、銀15t、銅11,000t。 1938年(昭和13年)頃の産金量は7万両を突破し、1939年の従業員数は9,448人(日本人747人、台湾人6298人、大陸の温州、福州などから来た出稼ぎ労働者2443人)に膨れ上がった。

戦時の非常時態勢下で政府は軍需要の金と銅の増産を奨励したが、戦争の影響から労働力が欠乏した為、1942年(昭和17年)にはシンガポールで捕虜になった英国兵800余人を収容して坑内の採掘作業に従事させたり、またその翌年には台北刑務所(英語版)で服役中の囚人まで労働力に組み入れるなど、ありとあらゆる手段を講じて増産に励んだ。

日本軍による連合軍捕虜の扱いは熾烈なものであり、摂氏五四度の酷熱の洞窟内での強制労働及び制裁という名目での虐待が日々横行していた。赤痢や栄養失調、医薬品の不足により死者が続出し、死んだ仲間の棺に置かれた供え物に手を出すまで捕虜達は精神的、肉体的に追い詰められたという。

日本鉱業は金瓜石の地下をくまなく掘り尽くし、ついには海面下200mの深部にまで達した。これは山の本来の標高600mを加算すると、地表から800mの深さとなる。地表から約20m間隔で蜘蛛の巣のように張り巡らされた水平坑道は40数層にもなり、それを無数の大小立坑、斜坑が繋いでいた。

しかし太平洋戦争も末期に近付くと鉱山の業績も降り坂になり、1943年(昭和18年)に金の生産が中止、翌1944年には銅の生産も中止となり、やがて終戦を迎えると鉱山は一時閉山となった。

中華民国統治時代

第二次世界大戦後、中華民国政府は金瓜石を没収し、金銅鉱務局設立準備処を設立、10年後の1955年には金瓜石鉱山を再度組織し直し台湾金属鉱業股份有限公司が設立された。

戦後の採掘処理技術や作業方式はすべて日本鉱業の残したモデルに従い、留用された技師達の指導で順調に進んだが、当時台湾には金属の製錬所がまだ無かった。その為、新しく金瓜石に金銀製錬工場を、また水南洞に沈澱銅を製錬するための溶鉱炉、反射炉と電錬工場を建設した。

金瓜石は一時的に活気を取り戻したが鉱脈は次第に尽き、多角経営に乗り出したものの、1985年に廃業を決めた。およそ90年間に亘って掘られた坑道の総延長は600km以上に及ぶ。

確実な資料は残っていないが、金瓜石鉱山90年の総生産量は粗礦量約2,500万t、純金120t、純銀250t、銅25万tに上るものと推定される。
(記事引用)

画像 硫砒鉄鉱

ウイキペディア



私の研究 「松原 聰」 記事
1. ヒ素
この元素名を聞いただけで、たいていの人は恐ろしさを感じることでしょう。物語や実際の事件でも毒殺の手段として最もよく使われているようです。一般にヒ素とよんでいますが、正しくは三酸化二ヒ素(亜ヒ酸ともいい、化学式はAs2O3と表される)が毒薬の正体です。この化合物は水に溶け易く、無味無臭という点で、ほとんど気づかず嚥下してしまう恐ろしさがあります。
ヒ素あるいは三酸化二ヒ素はどこから来るのでしょうか。ヒ素を含む鉱物で、もっと普通にサンするものは硫砒鉄鉱です。この鉱物は、鉄とヒ素と硫黄からできています(化学式はFeAsS)。これをある方法で燃焼することで、三酸化二ヒ素が得られます。こんな危険な化合物をなぜ作るかといういと、殺鼠剤、農薬、防腐剤などに使うためです。ヒ素(金属ヒ素)は単体として自然にも産しますが、多くは三酸化二ヒ素を還元して作ります。金属ヒ素を銅などに添加して耐食性ある合金を作ることに使われます。また現在では、高純度の金属ヒ素はLED、半導体基板、半導体レーザーなど重要な素材の原料としてなくてはならないものです。 一部引用


編集構成// #つしま昇


ウエブ2030図

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?