人に期待することについて

 人に期待する方か、しない方か、と言われれば、しない方だと思う。

 周りに人が少ない思春期を過ごしてきたので、人と協力するという発想が希薄である。コンフント(フォルクの演奏グループ)リーダーになればフルスコアを作って共有し、日程調整や場所の確保も徹底してやる。高校時代、演劇部が何度も崩壊する中では、役者以外を全てやった舞台や、役者も込みで全てやった舞台を経験している。デートプランを考えるのが上手いとよく言われる。本番を踏み倒された経験などを考慮に入れずとも、自分で用意する方が楽なんである。

 そんな私が最初に折れたのは、大学四年生の夏、バイトでの出来事である。人がとにかく足りなかった。シフトを作っていた私は、困った末に禁忌を犯す。誰も入れない日に自分が入るのだ。

 3日ほど、徹夜を余儀なくされた。(在宅だったのがミソですね。いくらでも働けるので。)

 ゼミで寝落ちして叱られるわ、更なる業務の増加が見込まれて絶望する話で散々だった。あまりの切迫ぶりに、東京くんだりから京都に住んでいる恩師に泣きつきに行こうかと思ったくらいである。高速バスを調べたあたりで我に帰り、結局東武ワールドスクウェア一人旅にした。

 この人不足問題は、人を増やすことであっさり解決した。
 今までは信用できそうな人にしか依頼しなかったのを、高時給をちらつかせて挙手制にしたのだ。そして彼らを管理する。これが大変有効だった。通常業務がイマイチな人でもこの仕事をしっかりこなしてくれる人は多かったし、なにより人海戦術は効く。お陰でだいぶ楽をして退職できた。抱え込まず人に期待して頼むことの有効性を身に染みて感じた出来事である。

 では、期待されることはどうだろう。

 結論から言えば、私は信頼する人から期待されるのが結構好きだ。
 最近職場の素敵な職員さんが私の仕事を沢山褒めてくれる。私は尻尾を振ってベストを尽くし、職員さんは忠犬を得たことで心労がいくつか消えたそうだ。
 例えば、外見の好みを恋人の好みに合わせるのも好きだ。どうして好きなのか、どこが好きなのかを明文化するのはかなり困難かつナンセンスだと近頃は思うが、外見くらい些末なことなら程よく明言されている方が助かる。ボーナスチャンスだからね。外見のほかにも、「こういうときは言ってくれ」とか「くだらない嘘をつかないでくれ」等でも良い。私は相手が好きなこと、安心することをした確信を得ることで相手の好意を素直に信じられる。相手は期待に応えられて嬉しい。円滑な関係が根差す。

 人に期待するのは難しい。何かをしてほしい、はわがままや上から目線、余計なお世話になるリスクを孕んでいる。私は極端な人間なので、この人には甘えていいという人間を何人か決め、ほかには甘えないことでやっている。人間関係ならそれでいいが、仕事には応用し難しい。職場でそんな人を見つけるのが困難だから。しばしば「役者以外を全てやる人」になる。ほんとに難しいことだわ。

 自分は期待しないけれど、人に期待されたい気持ちはある。現在執筆している青春フォルク漫画も、卒業ライブが吹き飛んだ代わりに描いたもので、読切のまま終わらせる気でいた。しかし、思いの外反響があったので、(どこで終わらせてもいいようにではあるが)3作目まで描いた。少なくとも次回作の構想はある。これらは、期待から生まれた産物。

 適切な期待は相互作用と昇華を生む。ほどよく期待の経済を回していきたいものだ。

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