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つい図書券と言ってしまう

図書カードって言うようになったのはわかっているのに、今でも口をついて出てくるのは「図書券」だ。

初めて図書券をもらったのは、学校の課題で応募することになった新聞の読者投稿欄だったと思う。授業時間を使って作文を書かされ、学年だかクラスだかでまとめて応募したところ、私は運よく記事に載せられたのだ。
のちのち気づいた盛大なミスが、未だに忘れられない。
大好きだったおばが亡くなり悲しくて寂しかったということを書きたくて、当時漢字が書けることに喜びを覚えていた私は背伸びをして「伯母」という漢字を使った。正確に記すならば伯母は父か母の姉にあたる。さて、当時の私にも伯母がいたが、その頃も、いや今も健在である。ちなみに父に姉はいないし、姉がいるのは母だ。
私が書きたかったおばとは、正確にはおばではなかった。祖母の妹を「○○のおばちゃん」と呼んでたため、「おばちゃん=おば」と信じ込んでいた私はそのことに気づかなかったのだ。
確か「記事が載ったよ」と家族に見せて、初めてそのこと発覚したのだった。親に辞書を引かされ、意味が違ったと知ったときの恥ずかしさは今でもありありと思い出せる。顔が熱かった。おばちゃんは大叔母だったのだ!
ちなみにその図書券で何を買ったかは全く覚えていない。

ところで、図書券をもらった!といちばん印象に残っているのは高校生に上がる直前だったと思う。
高校入学が決まり、ちょうど父方の実家に帰省しているときだった。遠くに住む叔母(今度こそ間違えない)から祖父母の家に電話がかかってきていた。父と電話で話していたようだったが、どうやら父の妹さんが私の進学お祝いは何がいいかと尋ねてきたらしい。希望があれば言えと言わんばかりに父が受話器を寄越し、私はといえば小学校低学年のときにたった一度会ったきりの叔母と、電話で直接話すことになった。
たぶん久しぶりとか元気にしているかとかそんな話をしたのだと思う。十年ぶりくらいに初めてちゃんと話す叔母相手に私はどうやって返したのか覚えていない。ただ、「進学するのにお祝い送ろうと思うけど、何がほしい?」と聞かれたとき、私は「辞書がほしい」と言ったような内容を返したことだけ覚えている。なんでとかどうしてとか流れは全く覚えてないのだけれど、そのときの私は確かに自分の国語辞典がほしいと言ったのだ。
叔母はわかった、と言って、後日図書券を送ってくれた。
私は高校に上がるときにその図書券で自分の国語辞典を買ってもらい、入学した高校で指定された辞書をさらに親に買ってもらうことになったのだった。
初めて自分がほしいとねだった国語辞典はnoteで記事を書き始めたときには参照していなかったが、今でも手元にある。なんなら最近は電子辞書の電池の消耗が激しいせいでときどき使うようになった。手触りが懐かしく、辞書によって書き方や表現がいろいろ違うので、読んでいて楽しい。

なんとなく忘れられない図書券。
学生時代、ゼミの先生からゼミ生に全員に配られたらしいと聞いた図書券だ。
ところが私ときたら、確かにもらったはずなのに、どこでもらったのか、そしてどこにしまったのかを一切覚えておらず、配られたらしいことしか覚えていなかった。
卒業して一年ほどテキストやプリントの間を探してみたが見当たらず、使った覚えは全くないので「実はもらったと聞いたが誤った情報だった。あるいは、預かったはずの人が私に渡さなかったのでは?」と思い込むことにした。
恨みがましいのかもしれないが、後者だったのだろうと結論付けたわりに「どうして、もらったはずの金品がどこかに行ってしまうのか」と不意に思い出して考え込んでしまう。どこにしまったのだろう、と思っている時点で受け取ったことは確かなはずなのに、人の心とはなんともはや。


ちょうど学生時代の友人にお礼をせねばな……と思うところがあり、ギフトカードを選んでいたところ図書券のことを思い出した。コーヒーショップのギフトカードを最近別の人からもらったばかりだったので、つい流れでコーヒーショップのカードにしようかと思ったが、そもそも友人の住む近辺に該当のコーヒーショップはあるのか……?などとひどいことを考えてしまった。付け加えると、ショップはあったけど普段利用しないとなると贈られても困るだろうか、などなど。考えだすとキリがない。
贈られる側がどうしようと、それこそ煮るなり焼くなり好きにしろと思っているので、私が考えるべきは何を贈りたいのか、それだけに尽きよう。
図書券がいいか、コーヒーショップのギフトカードがいいか、ここは悩みどころだ。
図書券……いや図書カードか。やっぱり慣れない。

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