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快適なおうち 4 (リカコの妄想)

第4回<リカコ>

 バラ園には、予想どおり、赤、黄、ピンク、オレンジなど様々なバラが咲き乱れていた。
 色だけでなくかたちもそれぞれ違った。毛糸玉のように薄い花びらをぴっちりと巻きつけたものもあれば、華やかに花弁を広げて存在感を示しているものもある。
 花壇の間を、先ほどの婦人たちがゆっくりと歩いている。バラ園の隅にキャンバスを立て、絵筆を握る老人もいた。バラ園では、園の外よりも、とてもゆっくりと時間が流れているようだった。リカコはバラ園の端にあるベンチに腰掛けていた。のどかな光景を眺めながら、ペットボトルの水を一口飲む。生ぬるい。足元を見ると、躓いたせいで、サンダルを履いた足が少し汚れている。リカコはペットボトルの水を足にかけた。生ぬるい水が足の指の間を流れていく。水をすべて足にかけ終わると、空のペットボトルを捻りつぶして鞄に戻した。
「まあ、綺麗ねえ」
 近づいてきた婦人たちの声が聞こえてくる。リカコは二の腕のうらと脛の蚊に刺された部分を掻き、そして自分の頬に手を伸ばした。少し熱を帯びたふっくらとした膨らみがある。痒い。リカコは肌を傷つけないよう、優しく膨らみの周りを掻いた。
 森の中で、リカコは植物園管理事務所の青年に襲われることはなかった。青年はリカコの頬にとまっていた大きな蚊を、指さしていただけだった。「蚊」と青年はひとことだけ言った。思い違いに気がついたリカコはつと恥ずかしくなり、「すみませんすみません」と言いながら出口に向かって小径を駈けた。森を抜けると、再び唸るような低いモーター音が響いてきた。
リカコは頬の膨らみをゆっくりと撫でた。そして、バラを眺めながら、もし、あのまま襲われていたら、と想像した。
 青年はリカコを押し倒し、無理やり口づけをしてくる。はめていた軍手を外してリカコの口に押しこめ、リカコのシャツを捲りあげる。そしてブラジャーに収まっている豊満なリカコの乳房を掴み出し、露わにする。そう、リカコの想像の中で、自分のからだは、ビデオで見た女のからだにすり替わっているのであった。青年はリカコのような大きな乳房を目にするのは初めてで、まるで飢えた動物が食べ物に喰らいつくかのように、リカコの乳房に吸いつく。リカコは、やめて、と叫ぶのだが押し込まれた軍手のせいで声にならない。しかし一方で、若い男に荒々しく乳房を吸われ、興奮している自分がいるのも事実だ。リカコは、次第に自分の股間が熱くなるのがわかる。青年は、リカコの抵抗が弱まり、少しずつ感じ始めていることに気づく。リカコのパンツの中に手を伸ばし、じっとりと濡れていることを確認すると、急いで自分のズボンとパンツを膝まで下ろし、リカコのパンツの隙間から、大きくなった性器を挿入する……。
 リカコはそこまで想像すると、自分の股間が実際に少し熱くなっているのがわかった。花を観賞する婦人たちを眺めながら、私だって、既婚者なのだから、とそんな想像をしていた自分を心の中で肯定する。でも、私がこんなことを考えているとユウトが知ったら、なんと思うのだろう。変態だと思われるのだろうか。夜中にこっそりやらしいビデオを見ている癖に、妻がやらしいことを考えたりしていたら、いやがるんじゃないだろうか。リカコは考えながら、バラを眺める婦人たちの隣に結婚前の自分たちの姿を見る。プロポーズ直後の幸福感に包まれた若い二人。仲睦まじく、バラを眺めながら談笑している。リカコは、頬の膨らみにうっすらと爪でバッテンの型をつけた。今、私とユウトが並んでいたらどんなふうに見えるのだろう。リカコは結婚前の自分たちはうまく想像できるのに、今の自分たちが並んでいる姿をうまく想像できなかった。大体、ユウトは電話にも出ずに何をしているのか。リカコはスマホを取り出し、もう一度ユウトに電話を掛けようかと思ったが、何だか馬鹿らしくも思えてくる。
 リカコはスマホを鞄に戻すと、立ち上がり、ラティスに蔦のように絡まって伸びているバラに近づいた。赤い小さな花びらが綺麗であるが、それ以上に大きな棘がいくつも茎についているのが目に入った。リカコは棘に触れる。今このバラの棘で、私が蚊に刺された以上に、ユウトをぶちぶちと刺してやりたい。リカコはバラをユウトに巻きつけた光景を想像する。小さな赤いバラがユウトのからだのところどころに咲いている。身動きが取れないユウトは、リビングの床の上でもがいている。大きな棘がユウトの頬や足にぶすっと刺さり、鮮血が溢れ出ている。バラの色と同じだ。そのとき、ユウトはどういう表情をしているのだろう。リカコは考えるが、ユウトの顔の部分だけ、靄がかかったようにぼんやりとしていてよくわからない。
 すると背後から、「すみません、写真撮ってもらえませんか」と声を掛けられ、リカコは振り向いた。二十代前半くらいの若いカップルだった。「いいですよ」と答えたリカコは男性からスマホを受け取り、バラの花壇を背景に二人にピントを合わせた。
「じゃあ撮りますね。三・二・一」
 液晶画面に表示されたカメラのマークを人差し指で押す。カップルが寄り添ってピースサインをしている写真が撮れた。「ありがとうございました」と二人が笑顔でリカコのもとに駆け寄ってくる。リカコは少し微笑んでスマホを彼らに返した。二人はスマホを一緒に覗き込み、「いいねぇ、とっても綺麗に撮れてる」と言いながら歩き去っていった。
 リカコは、小さくなっていく二人の背中に、在りし日の自分たちの姿を重ね、違う、と思った。私は、ユウトを傷つけたいわけじゃない。リカコはラティスに絡まる赤いバラの棘をもう一度見つめる。ふと、暗い焼却炉の中を思い出す。視界に広がる闇のように真っ黒な天井、咳込みそうな煤の臭い、遠くから聴こえる楽しそうな掛け声、白い太もも、チェック柄の膨らみ。リカコはあのとき、誰からも忘れ去られた場所に、ゴミとして自分が放り込まれたように思えた。あんなのはもういやだ。私は、ユウトに冷たくされたくない。見放されるのもいやだ。昔みたいに優しいユウトと、二人だけの場所で生きていたい。ほかには何もいらない。ユウトが望むなら、明かりがついたまま、セックスをしてもいい。なのにどうして、とリカコは考える。
 私は、一体どこで間違えてしまったのだろうか。
 リカコはしばらく棘を見つめていたが、目を逸らすと出口に向かって歩き出した。

次回へ続く
#小説

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