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快適なおうち 2 (リカコ 森のなかへ)

<リカコ>

リカコは森の中を進んでいたが、脛のあたりが痒くなり、立ち止まって見ると蚊に二、三箇所刺されたあとがあった。やっぱり虫除けもせずに来たのは無謀だった。脛に手を伸ばしたそのとき、鳴り響いていたモーター音が止んだ。瞬時にあたりは静寂に包まれ、鳥のさえずりだけがリカコの耳に響いてくる。リカコは半分屈んだ姿勢のまま、唐突に、今自分は森の中でひとりきりであることを自覚した。もしも今、誰かに襲われたらどうなるのだろう。リカコは脛をゆっくり掻きながら考える。大きな餌を持った蟻が地面を這っていた。もし、今何かあっても、誰も助けに来てくれないかもしれない。いや叫べば草刈りをしていた人がまだ近くにいるはずだから、気づいてくれるかもしれないけれど。
 リカコは立ち上がると、片足を持ち上げて蟻の頭上でとめた。しかし、蟻はリカコのいたずらに構うことはなく、餌を持って何事もなかったかのように這い出していった。リカコは足を戻し、後ろを振り返るが、誰もいなかった。数分で引き返せるはずであるが、このままとおり抜けた方が早いのかもしれない。リカコは鞄からスマホを取り出し、ユウトの番号に発信した。何れにせよ、電話をしながらであれば防犯になると思ったからであるが、ユウトの番号は通話中で繋がらなかった。こんなときに、一体誰に電話してるのよ。
 リカコは苛立ち、投げ捨てるようにスマホを鞄に戻した。ひらひらと、アゲハ蝶がリカコの前を舞っていく。その美しさがなんだか不気味だった。蝶が森に消えたあと、リカコは足早に歩き出した。取り敢えず進んでいくことにした。

 数日前、リカコがふと夜中に目を覚ましたとき、ユウトは隣にいなかった。トイレかと思ったが数分経っても戻ってこないので、寝室を出ると、廊下の奥にあるリビングの扉の隙間からテレビの明かりが漏れているのが見えた。リカコが忍び足で近づくと、小さな音量で女の喘ぎ声が聞こえてきて、アダルトビデオを再生しているのだとわかった。隙間からこっそり覗くと、暗い部屋の中でソファに座るユウトの後ろ姿と、テレビ画面に映る女の裸体が見えた。リカコはショックだった。今まで、家の中でそういった類のビデオや本を見つけたことはまったくなかったからだ。交際時から、ユウトがリカコを求めてくる回数は頻繁ではなかった。自分の小さな胸にコンプレックスを持っていたリカコは、自分のからだに魅力がないせいかと思い悩んでいた時期もあったが、ユウトと結婚をして暮らしているうちに、もともとユウトはその手のことに淡白な質であり、自分のせいではないのだと思えるようになった。しかし、今、ユウトはアダルトビデオをリカコに隠れて見ている。テレビ画面に映し出されている女は大きな胸をしていて、リカコのそれとは大分の違いがあった。女は男の上にまたがって激しく腰を動かしている。腰の動きとともに、大きな乳房が揺れていた。
 リカコは、そっと寝室に引き返した。ベッドに潜り込み、寝間着の上から自分の小さな胸をなでる。あのビデオの女みたいに大きな胸だったら。そうと思うとだんだん悔しくなった。しばらくするとユウトが寝室に戻ってきた。リカコが寝たふりをしていると、ユウトはベッドに入り、数分も経たないうちに気持ちよさそうに寝息を立て始めた。その寝息を聞きながら、リカコは顔を布団にぐっとうずめた。
 森を進みながら、リカコはユウトには浮気願望があるのだろうかと考える。もし、自分に満足できず、アダルトビデオに手を伸ばしているのだとしたら、本当にほかの女の人と関係を持ってみたいと思っているかもしれない。考えすぎかもしれないとも思ったが、リカコの不安はおさまらない。あまり求められないことについて、それでも大丈夫なのだと思っていた自分が大きな間違いをしていたのだと思うと、ぞっとした。それに最近は、ユウトのセックスが少し手荒くなったようにも思う。結婚前は、壊れやすいものを扱うかのようにとても優しく自分のからだに触れてくれたが、最近はぞんざいになった。昔は必ず明かりを消してからしてくれたのに、今では点けっぱなしでリカコが心底いやがるまでそのまま続けようとする。リカコは、明るい部屋で裸にされるたび、自分の貧相な胸が世界中に晒されているような気がして、泣きそうになった。リカコは、ユウトのそんな変化に気がついているのに、無理やり蓋をして心の奥底にしまい、そうではないのだと思い込もうとしていたように思えてきて、うんざりした。だから、私は私を信用してはいけない。リカコは、朝日が音もなく夜の闇を消し去るように、誰からも気づかれずひっそりと消えてなくなりたい、と思った。
 リカコは子どもの頃からおとなしかった。成績自体は悪くなかったが、引っ込み思案で何かを積極的に考えたり、行動することが苦手だった。「誰か、委員長をやりたい人、手を上げてください」。小学校の担任教師が子どもたちの自発性を促す言葉を述べるとき、リカコは必ず俯いた。教師が自分を見つめているような気がする。見ないで先生、私に気がつかないで。リカコはそう念じながら、机の木目をじっと見つめ、時が過ぎるのを待った。すると、「私やります!」と、運動が得意で活発な女子が右手を挙げた。教師は嬉しそうな表情で彼女を見つめている。リカコは安堵すると同時に恥ずかしくなった。先生が、私を見ているわけなんかないのに。そう思うと、リカコは再び俯いてしまうのだった。
 中学生になっても、その性格は変わらなかった。リカコは、自分と同じようにおとなしい女子と行動をともにした。休み時間は、大抵、教室の隅で友達と静かに過ごした。あるときの休み時間、リカコの友達は、まるで世界から身を隠すように教室の隅に背をべったりとはりつけて、
「リッちゃんは目が大きいからいいよね、お化粧したら絶対もっと可愛くなるよ」
 と、小さな目を見開いて、リカコの顔を羨ましそうに見つめて言うのだった。
 リカコは中学生になってから、同級生や上級生の男子に声を掛けられるようになり、なんとなく、自分は男子から好かれやすいのかもしれないと気づいていたが、そのことを嬉しくは思わなかった。髪を明るく染め、つけまつげをつけた同級生の女子数人に呼び出され、
「てめぇ調子ノッてんじゃないぞ、コラ」
と、校舎うらにある焼却炉の前で取り囲まれたときは自分自身を恨んだ。
「調子に、なんて、のって、ない、よ」
 リカコが俯いて消え入りそうな声で言うと、「嘘つけよ、お前池本先輩に告られてフッたんだろ、いい気になってんじゃねぇよ」とまくし立てられ、胸ぐらを掴まれた。リカコは怒り狂う女子生徒の顔を見上げた。彼女はアイプチをしていて、アイプチの白い糊と不自然に引っ張られた皮膚がはっきりと見えた。その上、アイラインで真っ黒に囲まれた両目のつけまつげが取れかけていて、なんて恐ろしい顔なんだと思った瞬間、リカコは突き倒され、焼却炉の中に背中から倒れ込んだ。
 ボスッ、とゴミ袋が潰れる音がした。リカコの膝が焼却炉の縁に引っ掛かり、上半身だけがゴミ袋に覆い被さっていた。同級生たちが逃げていく足音が聞こえる。リカコはゆっくりと目を開き、薄暗い焼却炉の天井を見つめた。天井は焼け焦げて真っ黒で、闇よりも深い黒色をしていた。煤臭い。遠くから部活動をする生徒たちの掛け声が聞こえてくる。上半身を起こすと、真っ暗な焼却炉の中から、四角く切り取られた眩い景色と、その縁に掛かる自分の白いふとももが見えた。スカートが捲れていて、お気に入りのチェックのパンツが覗いていた。しかしリカコはスカートをなおすこともせず、二本のふとももが接続するチェック柄の膨らみをじっと見つめた。そして、ふう、と大きな息を吐いた。
 私は間違えた。何も言わなければよかった。
 リカコは再びゴミ袋の上に倒れ込んだ。そして煤けた空気を吸い込みながら、うすぼんやりと黒い天井を眺めていた。
 公立高校に進み、地元の大学を卒業したリカコは、正社員の職には就かず、企業の受付業務を請け負う派遣会社に登録した。リカコの同世代の女性に対する苦手意識はさらに強くなっており、正社員としてどこかの会社に就職し、他の女子社員とともにうまくやっていく自信はなかった。派遣なら、人の入れ替えも多そうだし、大丈夫だろう、と思ったのだ。
 受付の仕事は、ほぼリカコの思ったとおりだった。ともに勤務するスタッフは多くて三人であり、途中で辞めていく者も少なくなかった。だが、時折リカコを待ち受けたように意地悪な先輩がいて、嫌がらせを受けることもあった。中には、「ちょっといい気になってるんじゃないわよ」と露骨に悪口を言う人もいた。そのたびにリカコは、あの同級生のアイプチの白い糊と引きつった皮膚と、取れかけたつけまつげを思い出した。そして過ちを繰り返すまい、とその悪意にじっと耐え、化粧に手を抜き、可能な限り自分の気配を消すことに努めた。そして早く別の会社に派遣されること、もしくはその相手が居なくなることをひたすら祈るのだった。
 そんな折、リカコは新たに派遣された勤務先でユウトと知り合った。ユウトはその会社の営業マンだった。出勤後は大抵毎日、リカコが座る受付前をとおってユウトは外出したので、リカコはすぐに顔を覚えた。その会社の受付はリカコひとりで気が楽だった。心に余裕を得たリカコは、ユウトを含め、その会社の社員が出先から戻ってくると、ひとりひとりに「お疲れ様です」と丁寧に挨拶をしていた。あるとき、リカコが帰社したユウトにいつもどおり声を掛けると、ユウトはリカコに無言でメモを渡して立ち去った。中を見ると、「いつも声をかけてくれてありがとう 今度一緒にご飯でもどうですか 良かったら連絡ください 090‐××××‐△△△△ カツラギユウト」と書かれている。リカコはそれまで、受付をする会社の男性に声を掛けられたことは何度もあったが、特に興味が持てず、その誘いに応じたことはなかった。
 ユウトの字はバランスが悪く、漢字の偏が極端に細長かったり、字全体が上から押しつぶされたように平らであったりと、子どものように下手くそであるが、丁寧に書かれていた。リカコはどうしようか迷い、メモを捨てようかとも思ったが、なんとなく下手な字が面白く思え、ペン立ての中に入れて取っておいた。来客がなく、手持無沙汰なときはメモを開いてユウトの字を眺めた。「よかったら連絡下さい」の「絡」の字が特にバランスが悪かった。偏と旁の部分が妙に離れていて、まるで一つの字に見えない。リカコはその字を眺めていると、プッと吹き出してしまうのだった。
 一体この人はどういう人なのだろうと、リカコはユウトに興味を持ち始めていたが、連絡するか否かは自分に判断が委ねられているのだと思うと、なんとなく気が重くなった。メモを見ているときにユウトが外出から帰ってくることがあった。リカコはメモを慌てて畳みながら、お疲れ様です、と声を掛けると、ユウトは軽く会釈をするものの、特に話しかけてくることはなく、こちらの機嫌をとろうと微笑んでくるわけでもない。リカコはユウトがエレベータに乗って去ったあと、再びメモを開いてその字をじっと見つめた。
 その日、リカコは自宅にメモを持ち帰り、ユウトの番号に電話を掛けてみた。呼び出し音が一回鳴るとすぐにユウトは出た。リカコが名乗ると、
「電話してくれたんだね」と嬉しそうに言い、
「あの、いや、このメモどうしたらいいのかわからなかったので…」
 とリカコが言うと、電話の向こうでユウトは笑った。
 交際を始めてから一年ほどで結婚することが決まり、その後は慌ただしくなった。互いの両親の顔合わせや結婚式の準備に追われる中、リカコは、仕事帰りに派遣会社のオフィスに出向き、社員にその旨を報告した。
「あ、そうなの? おめでとう」
 四十歳前後の男性社員は、パソコンのキーボードを打っていた手を止めてリカコを見上げ、「じゃあ次の四月に別の会社に異動してもらうか、まあもし辞めるというならそのどっちかだけど、どうする?」と、再びパソコンの画面を覗き込み、キーボードを打ちながらリカコに訊いた。
 カタカタという音が響く。リカコは男の薄くなったつむじを見下ろしながら、かつての派遣先でともに働いた先輩を思い出していた。彼女は優しい人で、異動してきたばかりのリカコに対して丁寧に仕事を教えてくれた。彼女がかねてから付き合っていた恋人と結婚することになり、結婚後も仕事を続けると聞いたときはとても嬉しく思ったのだが、結婚して数カ月すると辞めてしまったのだった。
「取り敢えず続けてみたんだけど、やっぱり大変だよ」と彼女は言った。「ダブルインカムで余裕を持って暮らしたいとか、仕事がとても好きで、何が何でも続けたいっていう気持ちがあれば別かもしれないけど、そうでもなかったら、共働きなんてほんとしんどいだけだね」
 彼女は退職する前日、受付の席で爪に保湿用のオイルを小さな刷毛で塗りながら、隣に座るリカコに話した。リカコは、オイルの甘い匂いを嗅ぎながら、「旦那さんは手伝ってくれないんですか」と訊くと、
「手伝ってくれるよ。くれるけどやっぱり私がやるのとクオリティが違うっていうか、なんかこれだけやれば十分でしょ、みたいな感じがどこかにあるんだよね」と言って、塗ったばかりの爪に息を吹きかける。
「一緒にやる、じゃなくて、やっぱ、手伝うって感じなんだよね。今時、共働きが普通みたいに言われるけど、それってやっぱり女が頑張んないと成立しないんじゃないかな。男は仕事だけ、女は仕事と家事の両方。プラス、子供がいたら子育てもだよ? イクメンとかほんとにいるのかな? それって、ちょっと手伝うだけで、やってるって言っちゃってるんじゃないかな」
 リカコは彼女の話を聞きながら、そういうものなのか、と考え込んでいると、「生活に困らないなら、女は絶対仕事やめたほうがいいと思うよ」と彼女は言い、翌日には居なくなった。そしてそれを寂しいと思う間もなく、新しいスタッフがやってきた。
 リカコは仕事についてユウトに相談した。ユウトは「続けたらどうかなあ」と言った。「家に居てもやることなくって、リッちゃんも暇なんじゃない? 異動させてもらえるんなら、そうしたらいいんじゃないかな」
 リカコは、自分が仕事を続けたら、ユウトは家事を手伝ってくれるだろうか、と考えた。きっと手伝ってくれるだろうと思うが、確かにどれくらいやってくれるのかは想像がつかなかった。料理はまずやりそうにない。となれば、仕事を終えてから、自分が毎日夕飯をつくることになるのだろう。「女が頑張んないと成立しないんじゃないかな」という先輩の言葉が蘇った。仕事を終えて、スーパーに立ち寄って夕飯の買い物をし、急いで料理を作り、食べ終われば後片付けをして、風呂を沸かす……。リカコは、それらを手際よくこなす自分の姿を想像できなかった。浮かんでくるのは、慌ただしさに目を回し、結局、何事も満足に行えず、ユウトの前であたふたしている自分だった。
 また、リカコが働きに出なければ、生活に汲々とするわけでもなかった。贅沢をしなければ、ユウトの給料で賄える。リカコの稼ぎは、あくまで余剰部分としてのものだ。
 そして、リカコにとって一番厄介なのは、別の会社に異動する、ということだった。次の派遣先には、あの同級生みたいな人はいないだろうか、と怯えることに疲れていた。今辞めれば、誰にも脅かされることのない、安全で穏やかな暮らしが自分を待っている。敢えて仕事を続けて、いやなことに向き合う必要はない。やっと、自然に遠ざかるときがやってきたのだ。
 リカコはユウトを説得し、仕事を辞めた。晴れ晴れした気持ちだった。辞めてから、結婚式まで数カ月あったので、その間はユウトと暮らす新居に飾る雑貨を嬉々として買い集めたり、結婚式のドレスを母親と一緒に選びながらのんびり過ごした。そして親族のみで温かい雰囲気の結婚式を執り行い、新居での生活をスタートさせた。家具は主にリカコがネットで注文した。食器棚が届くと、食器類をしまい、雑貨や結婚式の写真を飾った。写真の中で微笑む二人はとても幸せそうだった。リカコは、とても満ち足りた気持ちになった。
 毎日ゆっくりと丁寧に家事をして、慣れない料理にも精を出してユウトの帰りを待った。残業でユウトの帰りが十一時を回るときも、夕飯には手をつけなかった。自分の作ったものをひとりで食べる、というのも寂しくていやだったし、ユウトと他愛ない会話を交わしながら夕飯をともにすると、一層美味しく感じられたので、待つことは苦ではないのだった。ユウトは帰宅すると、リッちゃん遅くなってごめんね、とまず第一にリカコに詫び、席につくと、おいしい、と言って温めなおした夕飯を頬張った。そしてその日会社であったことをリカコに聞かせてくれるのだった。リカコはユウトが帰ってくると、空腹で胃がひきつったように痛かったことも忘れた。一緒に食事を摂りながら、いつの間にかにっこりとユウトの話を聞いていた。
 しかし、暮らし始めてしばらく経つと、様子が変わってきた。ユウトは次第に会社のことをリカコに話さなくなった。リカコが夕飯を食べず遅くまで待っていても、疲れた様子で何も言わずむしゃむしゃと平らげるようになった。休日はソファに寝転がってスマホばかり触るようになった。リカコは自分から何か話しかけようと思ったが、スーパーに買い物に行くほかは家の中でテレビを見たり、掃除するなどして過ごしていたため、ユウトの興味をひくような話題を持ち合わせていなかった。リカコが「あのね、今日ね、スーパーで魚が安かったんだ」と話しかけてみても、「ふうんそうなんだ」と返ってくるだけで会話にならず、ただの報告になってしまうのだった。二人の間には、沈黙が流れることが多くなった。リッちゃん、と呼ばれることもなくなった。何か用事があるときは、おい、とか、なあ、と呼ばれるのだった。
 今、ユウトは一体、誰に電話しているというのだろう。いつもスマホでゲームばかりしていると思っていたが、実は誰かほかの女性とSNSでもしているのだろうか。いや、とリカコは思う。もしかしたら急にキッチンの蛇口が水漏れを起こして水道屋に電話しているのかもしれないし、どこかから届いた宅配便の不在票に気づき、配送業者に電話しているのかもしれない。リカコはそう思いたかった。足早に森の中を進んでいく。気がつくと、なんで、と独り言を呟いていた。なんで、私の方を向いてくれないの。リカコは不安と苛立ちが入り混じり、自分の気持ちをコントロールできなくなっていた。じわっと涙が溢れてくる。私はいつだって、ユウトのことを待っていた。二人の快適なおうちをつくるために、精いっぱい努力してきたつもりだった。なのに、どうして。リカコが涙を拭おうとしたとき、急に背後から腕を掴まれた。
 リカコは驚いてぎゃっと声を上げ、反射的にその手を振り払うとよろけて転んだ。振り向くと、「植物園管理事務所」の腕章をつけ、作業着を着た二十歳くらいの青年が立っていた。まだ頬に面皰が残っている。
「すいません、大丈夫ですか」
 青年はリカコに声を掛け、軍手をした手を差し出した。
「あ、ありがとう。大丈夫、です」
 リカコは青年の手を取って立ち上がり、スカートに着いた土を払った。青年はリカコより二十センチくらい背が高く、がっしりとした体躯だった。髪は染めてからずいぶん経つのだろう、茶色と黒が入り混じっていて、長い前髪の隙間から、細い目がちらと見えた。
「ここ、今立ち入り禁止なんで、駄目っすよ」
「すみません、近道だったんで、つい……」
「取り敢えずもうそこ出口なんで、出てもらえますか」
 青年に促され、リカコは「は、はい」と答えて歩き出そうとしたとき、「あ、お姉さん」と背後から声を掛けられた。
 リカコが振り向くと、青年が、リカコのことをじっと見つめている。前髪の隙間から覗く鋭い目つきの奥に、何かが揺らめいているようだった。リカコはさぁと血の気が引いた。なぜかユウトがみていたビデオの女の裸体が目に浮かんだ。青年が無言のまま近づいてくる。そして軍手をはめた手をリカコの顔に向けて伸ばした。リカコは身動きが出来なかった。ただただ、女の揺れ動く乳房が脳裏に浮かび、その喘ぎ声がリカコの頭の中でこだましていた。

第3回に続く

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