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快適なおうち 6 (リカコ スーパーヘ)

第6回<リカコ>

植物園を出ると、公園にいた人々は嘘のようにほとんどいなくなっていた。きっと皆家に帰ったのだろう。リカコは駅に向かって歩いていく。私も帰らないといけない。帰るべき家がある。行きしなにとおり過ぎたベンチにはもう誰も座っていなかった。
 地下鉄に乗り、自宅の最寄駅で降りると近所のスーパーに立ち寄った。トマトや胡瓜が安いので手に取ってカートの籠に入れる。これでサラダを作って、あとは何にしようか。リカコはカートを押しながら、生鮮コーナーをぶらりと一周する。肉か魚かどちらにすればよいか決められないので、両方買ってしまおう、と考える。家に帰ってから、そのときの気分でどちらか一つを調理して、残りは明日の夕飯にすればいい。リカコはもう一度生鮮コーナーを見て回り、まず干物を籠に入れた。
 リカコの少し前で、五、六歳くらいの女の子を連れた女性が食材を選んでいる。母子なのだろう。リカコは、もし子供ができたら、自分もあんなふうに一緒にスーパーに来るのだろうか、と思った。ユウトとの間にはまだ子供ができていない。結婚してまだ二年なので焦る必要はないのかもしれないが、もしかしたら自分に原因があるのではないか、との考えも浮かんできて不安になる。だがひとりで病院に行く勇気はない。もし、ユウトが一緒に行こうと言ってくれるなら、リカコはそうするだろうと思った。自分に辛い結果が出たとしても、ユウトが寄り添ってくれるのなら向き合える。もし、ユウトに原因があったとしても、私は構わない。それは仕方のないことだし、ユウトが望むのなら、ともに治療することもできる。だが実際、ユウトがどう考えているのかリカコにはわからなかった。もしこのまま子供ができなければ、私たちはどうなっていくのだろう。そう考えていると、前にいる女の子が、肉のコーナーで、パックされた肉を人差し指でぐい、と押した。
 リカコは驚いて立ち止まった。女の子は肉を指で押しながら母親を見上げるが、母親は気づかぬまま肉のコーナーをとおり過ぎた。女の子は指を離して母親の後を追った。リカコは、肉のコーナーに近づいて、女の子にいたずらされたパックを手に取る。挽肉だった。押された部分が、捏ねた後のようにつぶれている。ふと視線に気がついて目を上げると、女の子がじっとリカコのことを見つめていた。無垢でまっすぐなまなざしだった。そのまなざしに射抜かれそうになったが、ぷいと目を逸らすと、女の子は「ママー」と声を上げて母親に駆け寄り、母親とともに角を曲がって消えた。きっと、わかっている、とリカコは思った。あの子はやってはいけないこととわかっていて、だからこそわざとやっている。
 リカコはパックを陳列コーナーに戻し、牛の細切れのパックを籠に入れてカートを押した。リカコは挽肉のパックを指で押しているときの女の子の気持ちを考える。そして、母親の表情を伺う瞬間を。色んなやり方がある、と思う。リカコはリカコのやり方について考える。自分なら、きっとこんなふうにはやらないし、やれないのだ。リカコは陳列棚にぎゅうぎゅうに並べられた食材や惣菜をぼんやりと眺めながら、目についたものを手にとって籠に入れる。わたしはやらないし、やれない。それとも、ただ、やらないのか。心の中で呪文のように繰り返しながら、カートを押してゆっくりと進んでいく。

次回へ続く
#小説

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