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快適なおうち 3 (ユウト 密会)


第3回<ユウト>

 ユウトが電話を掛けたとき、マナベミユは昼寝をしていたらしかった。いつもとは違う、気怠い甘えた声だった。
「寝てたの?」
「え、あ、はい、ちょっとだけ……」
 マナベミユは照れた声で答えた。ユウトはリカコ以外の女と何気ない電話をしているということに少し昂揚していた。結婚してから、こうして女性と電話をすることは一切なかったので、どこか新鮮な気持ちだった。
「休み中に突然ごめんね。金曜日のさ、A商事からの発注対応大丈夫だったかな、と思って。オレ、外出中で見れなかったからさ。あそこ、申し込む商品の種類が多いから、ややこしいじゃない? だから問題なかったかつい気になっちゃって…」と、さして気にもしていない案件について話してみる。
「ああ、大丈夫でしたよ。前回と同じ内容だったので、カツラギさんが前に書いた伝票見ながらやっときました」
「ああ、それなら大丈夫だね。てかオレの字汚いからさぁ、読めた? 大丈夫?」
「ははは。大丈夫ですよ」
「あ、じゃあよかった。……」
 沈黙が流れた。特に何を話そうと考えていたわけではなかった。ふいにマナベミユを思い出して電話を掛けてみたものの、いざ電話に出られると、何を話せばよいのかわからなかった。「あ、じゃあ大丈夫だから」とそそくさと電話を切ろうとすると、「カツラギさん今何してるの?」とマナベミユが甘えるように訊いてきた。
「今? えっと、嫁さんが出かけてるんで、家でゆっくり、ゴロゴロしてたよ」
「へえー、そうなんだぁ」
 マナベミユは馴れ馴れしく答えてくる。ユウトはやはりあのビデオはマナベミユ本人なのではないかと思った。職場での地味な雰囲気と仏頂面は、ある意味演技なのかもしれない。昔、ビデオに出ていたことを気づかれないよう、あんな風にしているのかも……と思ったとき、マナベミユが、「あの、カツラギさん」と甘えた声を出した。
「ん? 何?」
「今、暇だったら、ちょっと会えませんか?」マナベミユはユウトを誘ってきた。
「実はさっきまで勉強してて、途中でわからなくなって寝ちゃったんです。仕事にまつわることだから、カツラギさんならきっとわかると思うんですけど……。私、会社の近くにあるカフェまで行くので、よかったらそこで教えてもらえませんか?」
 ユウトは、これは誘われているのかもしれないと思い少し身を固くした。しかし、ただ単に、自分からタイミングよく電話が掛かってきたので、ついでに何か教えてもらいたいと思っただけではないか、とも思った。だが、仕事にまつわることって一体何だ? 
「仕事にまつわることってどんなの? オレ、わかるのかな」
「あ、ちょっと、関係してることっていうか。きっとわかります、カツラギさんなら。駄目……ですか?」
 マナベミユの答えは要領を得ない。しかし、仕事の方面なら、まあ大体は答えられるだろうし、会社の近くならオフィス街なので誰かに会うこともないだろう。
「うーん、じゃあちょっとだけならいいよ」
 ユウトは少し渋るふりをして承諾してしまった。
 マナベミユにカフェの名前と場所を訊くと電話を切り、外出着に着替えた。洗面所の鏡の前で髪型を整えながら、今日オレは、もしマナベミユに誘われたらホテルに行くのだろうか、と考えた。マナベミユの服を脱がせる光景が目に浮かぶ。ユウトは、彼女のからだを見れば、ビデオの本人なのかどうかわかるかもしれない、と思った。見たい、とも思った。でも、本当にいいのか? 結婚しているのに、そういうことをして。ユウトの中に抗う気持ちがわき、リカコの顔が浮かんだ。一度、そういう関係になったくらいで、リカコに何か勘づかれることはないだろうが、後々、マナベミユから何かを要求されて、リカコの耳に及ぶ可能性もないわけではない。そう考えると、出かける気持ちが急に萎えていくのがわかったが、約束した以上行かないわけにもいかない。ユウトは靴を履いて家を出た。やっぱり、深い関係になるのはまずい。ちょっとだけ会って、夕飯までに帰ることにしよう。そう自分に言い聞かせながら、駅に向かって歩いて行った。

 指定されたカフェにマナベミユはいた。奥の席の壁際で、テキストらしきものを読みながらぽつんと座っている。食堂のときと同じだな、と思いながらユウトは注文したアイスコーヒーを手に持ってマナベミユの席に近づいた。
「あ、カツラギさんすみません、お休み中に」
 マナベミユはユウトに気がつくと、テキストを閉じて立ち上がり、頭を下げた。マナベミユはカジュアルなシャツにデニムをはいていた。特に派手な服装でもなく、ナチュラルな印象だ。普段、制服姿しか見たことがないので、私服姿の彼女を見るのは新鮮だった。そして、今日は眼鏡をしていなかった。奥二重に控えめなアイメイクが可愛らしく見える。
 ユウトは「いいよいいよ」と言いながらマナベミユの向かいの席に座ると、マナベミユも腰を下ろした。
「今日は眼鏡じゃないんだね」
「そうなんです、休みの日はコンタクトが多くて」
 彼女は少し照れたように下を向いて言った。ユウトは彼女の胸元を見る。ふわっとしたシャツなのでよくわからないが、確かに胸は大きいようだ。ユウトはさっと目を離し、ストローからアイスコーヒーを啜る。
「ところでさ、何の勉強してるの?」
「えー、何だと思います?」
 マナベミユはテーブルの上に置いていたテキストをさっと手に取ると、ユウトから見えないように自分の膝に置いて隠した。ユウトは面倒くさいな、と思ったが、表情には出さないようにして、わかんないなあ、と答える。
「そうですか。じゃあ仕方ない……じゃじゃん! 実はこれです!」
 マナベミユがテーブルの下から取り出したのは簿記のテキストだった。表紙には、「サクッと合格! 誰にでもわかる簿記2級」と大きな文字で書かれている。
「私、今、営業事務やってますけど、経理とかもやってみたいんですよね。だから、資格をとって経理部への異動希望を出すのもいいかなと思って」
「そうなんだ。えー、なんなの、オレと仕事するのやなの?」
「違うんです違うんです! それはすっごく楽しいんですけど……。営業事務は正直、誰でもできる簡単な書類作成が中心じゃないですか。ほかの部署も大体そう。でも経理とかだと、仕事の内容が専門的だから手に職というか、もし将来辞めちゃうようなことがあっても、転職とかで活かせそうだと思って」
「転職も考えてるんだ」
「いや、わかんないですけど、女性は結婚とか出産とかいろいろあるじゃないですか? 今のところ、全然予定無いですけどねぇ」
 アハハ、と笑いながらマナベミユが答える。ユウトは、女性はやっぱり色々考えなくちゃならないんだよな、と思い、出産という言葉に少しどきっとした。
 リカコとは、いつか自然に子どもができればいいと思っているがまだできていない。最初は、避妊をしなければすぐにできるものと思っていたが、そうでもないのだった。一度、病院で検査を受けた方が良いのかもしれないとも思うが、気後れしてできないでいる。もし、自分の方に原因があると医者に言われたら、と考えると恐かった。それに、リカコの方にとなった場合に、自分がリカコに対して、どんな言葉を掛けてやれるのか、ユウトは想像できなかった。勿論、責め立てるようなことは言わないだろう。リカコが悪いわけではないのだ。しかし、傷ついたリカコを慰めるような優しい言葉を掛けてやれるかどうかは、ユウト自身にもわからなかった。
ならばいっそ、このままでもいいじゃないか、とユウトは思う。子供はできれば欲しいが、できないのなら仕方がない。敢えてどちらに原因があるのかと、追求する必要などないではないか。ユウトは、このままリカコと二人でもかまわないと思った。子供がいなければ、自分たちの関係が駄目になってしまうわけではない。それに子供ができたら、リカコは育児に追われて、今まで以上に家の外に出なくなるに違いない。そう考えると、ユウトは少し不安になるのだった。
 かつてユウトは、リカコにパート勤めを勧めた。家の中にいるだけでは、退屈だろうと思ったからだ。しかしリカコは、家事が十分にできなくなる、と頑として受け入れなかった。
「快適なおうちを保ち続けたいの」
 リカコはゆっくりと、しかしはっきりそう言った。まるで、自分に与えられた宿命と、それに従うと決めた強い意志について、静かに語っているかのようだった。私にもどうしようもないの、と言っているようでもあった。しかしそれは、うらを返せば、自分であれ他人であれ、誰の意志によっても変えがたいものごとなのだから、むろんお前も例外ではないのだ、と言われているのと同じだった。
 ユウトは、これはどうにもならないな、と思い、それ以上は何も言わなかった。だが、リカコの言った「快適なおうち」という言葉が、妙にユウトの中に残った。その言葉は、どこかじっとりとした湿り気を帯びていているように感じられた。リカコが言いたかったのであろう、清潔な洗面所や、光が溢れる明るいリビングルームを想像することはできなかった。むしろそれとは真逆の、暗くじめっとした、洞穴のような空間がユウトの頭の中に浮かんだ。
 大木の乾いた木肌の奥に、小さなうろがある。その中を覗くと、暗闇の中で、掌ほどの小さなリカコが膝を抱いて座っている。出てこいと、指を突っ込むと、リカコは小さな咆哮をあげて指に噛みつく。その痛みに思わず指を引っ込めると、うろの中のリカコは、硬い毛で全身を覆われた動物に変化してしまっているのだ。やがて、うろの中でリカコの腹は膨らみ始める。そしてたくさんの子を産み、二度とそこから出てこなくなってしまうのだ。その想像は不気味だった。ひたすらユウトの帰りを待つリカコの姿は甲斐甲斐しくもあるが、少しずつ違う何かに変わりつつあるような気がして、なんとなくいやだった。
 マナベミユはテキストを覗き込んで真剣に考えている。マナベミユも自分なりに将来のことを真剣に考えているのだと思うと感心する。ユウトは、マナベミユはやっぱりビデオとは別人なのではないかと思えてきた。
 簿記について、ユウトは正直なところさっぱりわからなかった。取引先の決算書を見る機会はあるものの、売上や利益ぐらいしか確認していないので、勘定科目や仕分けのことを尋ねられても説明できなかった。
「ごめん簿記ってオレよくわかんないんだよね」
「そうなんですか。あの、すみません。私、カツラギさんならわかるって勝手に思っちゃって、それで呼び出したりして……」
「いいよいいよ、オレも暇してたし。っていうか休みの日にこの辺来るの新鮮だしね」ユウトは適当に相槌を打つ。
「それなら良かったです。あの、もし良かったらこの辺少し歩きませんか? ちょっと路地の中に入ると可愛い雑貨屋さんがいっぱいあるんですよ」
 マナベミユがユウトを覗き込むように見つめる。ユウトは可愛い雑貨屋さんについて興味を持ち合わせていなかったが、マナベミユの表情が嬉々としていて、微笑ましく思えたので、「いいよ。じゃあ行こうか」と立ち上がった。マナベミユは小走りで返却台まで行って二人分のグラスを置くと、「やったあ、嬉しいなー」と言いながらユウトの後について店を出た。ユウトは独身時代に戻ったような気分になった。なんだか気分がいい。「それでさ、どっち?」とマナベミユに尋ねると、彼女は「こっちです」と案内を始めた。
 路地を進むと、マナベミユの言ったとおり雑貨店や洒落たカフェが立ち並んでいた。会社の近くではあるが、普段こちらの方にはあまり来ないので、こんなふうになっているとはユウトは知らなかった。マナベミユはいくつかの雑貨店を眺めながら、
「あ、この店かわいい」と一軒の店の中に入った。
「ねえこれカツラギさん見て。超カワイイですよね」
クマのぬいぐるみを手にとり、ユウトの方に向けながらマナベミユがはしゃぐ。
「うん、可愛いいね」
「どうしよっかなあ。これ買っちゃおうかな」マナベミユが独り言を言い、値札を見て、「意外に高いですね」と、はにかみながら店員に聞こえぬようこっそりユウトに伝えてくる。
「じゃあ、買ってあげようか?」
「あ、いや、そんなんじゃないんです! ごめんなさい、大丈夫です!」
 マナベミユは慌ててぬいぐるみを元の場所に戻すと、足早に店を出た。ユウトはマナベミユのあとに続く。
 前にも同じようなことがあった。マナベミユではなく、リカコだ。以前、リカコと一緒にコンビニに立ち寄ったとき、リカコが饅頭を見ているので、「買っちゃえば?」とユウトが言うと、「ううん、そんなんじゃないの」と言ってそばを離れた。ユウトはそもそも甘いものが好きではない。あんこ自体、どちらかと言えば嫌いなので自ら饅頭を買うことは無いのだが、リカコがそんな自分に気づいて気を遣っているのかと思い、以来、コンビニで饅頭を見かけたときはリカコのために買って帰るようになった。
「カツラギさん、ごめんなさい。私、自分ではそんなつもりないんですけど、気がつくと周りの人に気を遣わせることばっかり言っちゃうんです。ホント、どこまで面倒くさい人間なんだよ、っていうか。私って、馬鹿ですよね。どうしようもなくて、だからたまに死にたくなっちゃうんです。アハハ」
 路地を進みながら、マナベミユは伏し目がちに語り、最後には乾いた声で笑った。ユウトは、「死にたくなっちゃう」という言葉と、そのあとの笑いにぎょっとした。本気で言っているのだろうか。ちょっと噛み合わなかっただけじゃないか。そのこと自体、大した問題ではないし、死にたいって言ったあとに、なんで笑うんだ。ユウトの目に、マナベミユが急に不可解な生きもののように映る。それに、大したこともないことを、わざわざそういうふうに言うところが面倒くさいのだ、とユウトはマナベミユに言ってやりたくなったが、実際にはそうしなかった。
「そんなことないよ。死にたいだなんて、そんな簡単に言っちゃいけないよ。女の子は、少し天真爛漫な方が魅力的だと思うよ」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「そっかあ、うん。そう、そうだよね!」
 ユウトの言葉を聞いて、マナベミユは一転して嬉しそうな表情を浮かべた。その不安定さに、ユウトはどこか不安を覚えた。急に、二人で歩いているこの空間が、ぐにゃり、と曲がったかのような、居心地の悪さを覚える。
「奥さんは今日、お友達とお出かけですか?」明るい声で、マナベミユが訊いてきた。
「いや、なんか今朝、植物園にバラ観に行こうって言われたんだけど、オレ別に花とか興味ないし、いいって言うとひとりで行っちゃったみたいなんだよね」
「あぁ、今、見頃でしたっけ。ひとりでバラ観にいくって、大人っていうか、なんか寂しい感じもしなくはないですけど、でもカツラギさんの奥さんって綺麗な方だから、なんか絵になりそうですねー」
 マナベミユはリカコを知っているらしい。ユウトは「別にそんなことないよ」と答えたが、実際、リカコが働いていたときは、受付の女の子が綺麗だと社内でも評判だったのは事実だ。
 社内の何人かが声を掛けたが、全然相手にしてくれない、という噂もユウトの耳に入っていた。ユウト自身、リカコを初めて見たときから綺麗だと思っていたし、控えめな感じというか、ちょっと陰のある雰囲気がいい、と思っていた。それに、自分にいつも、「お疲れ様です」と声を掛けてくれるので、ユウトはリカコに気に入られているのだと思っていた。
 リカコは、男に軽々しく声をかけられてもなびかないタイプではないか、と見当をつけたユウトは、取り敢えず、自分の電話番号を書いたメモを渡し、あとはリカコの反応を待つことにした。リカコから電話があるかどうかはわからない、と思っていたものの、メモを渡した翌日、リカコと受付で顔を合わせると、リカコは明らかに緊張した態度になった。これはいけるかもしれない、と手ごたえを感じ、声を掛けたいと気持ちが逸ったが辛抱した。すると、リカコの方から電話してきた。電話を掛けてきたリカコは緊張した様子で、ユウトはさらに好感を抱いたのだった。
 ユウトは隣にいるマナベミユの横顔を見た。マナベミユにも陰があると思う。しかしそれはリカコのそれとは違い、どこかハッキリしない感じがする。正直、その陰の正体を知りたいとは思わない。知るな、という警告が意識の深いところから立ち上ってくるような気すらする。
 リカコの陰は、長年の孤独が作り上げたものなのだろう、とユウトは思う。ふと会話が途切れたときや、読み終えた本を閉じたとき、家事が一段落してリビングの椅子に腰掛けているときなど、リカコは、ドキッとするくらい、冷たく寂しげなまなざしになることがある。そのまなざしは、リカコによく馴染んでいて、リカコに不思議な魅力を与えているように思えるのだった。
 結婚前、式と披露宴をどうするかリカコと話し合ったとき、リカコは親族だけで開きたい、と言った。
「ユウトは会社の人をたくさん呼ぶんでしょ。私は派遣だから、会社の人っていっても誰を呼んだらいいのかわからないし、それにスピーチをお願いするような上司もいないよ」
 リカコはそう言うと悲しげな顔をして俯いた。実際、そうなのだろうと思ったが、ユウトは、本当のところは、職場云々ではなく、招く友人がいないからではないか、と思った。わざわざ報告されなかっただけかもしれないが、付き合っている間、リカコが友人と出かけたとか旅行に行ったという話は聞いたことがなかった。ユウトは、そんなリカコが不憫に思え、リカコの希望どおり親族だけで式を挙げ、披露宴ではなく会食の場を設けることにした。寂しい結婚式だった。ユウトが入場すると、七・八十人は入りそうなチャペルに参列者は十名弱、それもたくさん並ぶ椅子の前一・二列目にしか参列者がいない。チャペルの壁際に立ち、ユウトを笑顔で迎えるウェディング・プランナーの笑顔が作り笑顔に思えた。
 しかし、リカコはとても嬉しそうだった。世界中の幸福を一手に引き受けている、と言わんばかりの眩い笑顔で父親とともに入場した。からだのラインにぴったりと沿ったシルクのドレスはリカコに馴染み、美しさを引き立てた。リカコの周りの空気までもが華やいでいるように感じられた。リカコはユウトをまっすぐ見つめながら、確かな足取りで、真紅のバージンロードを一歩ずつ進んだ。その表情はこれまで見たことがないほど自信に満ち溢れ、気高く、何の迷いもないようだった。ユウトはそんなリカコを見て、自分は深く信頼されているのだと思った。その瞬間、ユウトは幸福感でいっぱいになり、思わず目頭が熱くなった。参列者が少ないことなど関係ない、と思った。作り笑いのウェディング・プランナーなんて、くそくらえ、だ。ユウトはリカコの手をとると、神父の前に立った。そして、リカコと共に人生を歩んでいくことを心から誓った。
 ユウトは、そのときの気持ちを忘れてはいないし、これからも忘れることはないだろうと思う。
 しかし、もし今、自分が結婚式の相談をしていたあのときに戻って、リカコから「私は派遣だから……」と相談を受けたなら、自分は何と返すのだろう。同じように、俯いたリカコを無言で受け入れるのだろうか。
「違う。職場が問題なんじゃない。自分を祝福してくれる友人がいないから、結婚式に来てくれる人がひとりもいないから、お前は恥ずかしくてできないんだろ」
 今なら臆面も戸惑いもなく、リカコに向かって言い放ってしまうのではないだろうか。
 そのとき、きっとリカコは何も言わないだろう。リカコの目に涙が浮かび、その面立ちは一層美しく際立つ。何か言え、と思う。だが、言うな、とも思う。きっと自分は、苛立ちながらも、その瞬間を楽しんでしまうのではないか、とユウトは思う。
 ぼんやりとマナベミユの横顔を眺めていると、マナベミユが、「何? 何?」と嬉しそうな顔で訊いてくるので、ユウトは、「なんでもないよ」と答えておいた。
 路地はそれほど長くはなかった。マナベミユは路地を出ると、「あ、ここで終わっちゃった」と立ち止まった。スマホで時間を確認すると、五時前だった。
「カツラギさん、まだ時間ありますか?」
「あーうん、まあでも、あとちょっとかな……」
「じゃあ、あの」マナベミユがユウトの手を取った。
 ユウトは、やっぱり来たか、と身構えた。どうするんだ? 誘いに乗るのか? いや、それは……と考えを巡らせていると、マナベミユはユウトの目を見ながら、おずおずと言った。
「じゃあ、あの、公園とかどこでもいいので、もう少し……話しませんか?」
 後ろから自転車が走ってきて、チリン、とベルを鳴らした。二人は手をほどいて、よろけるように歩道の端に寄る。自転車に乗った中年女性が、二人を軽く睨みながらとおり過ぎていった。肩の力が抜けた。拍子抜けしたような、安堵したような気持ちだった。
「あ、うん。それなら、あと一時間だけならいいよ」
 ユウトはそう言うと、五分ほど歩いたところにある小さな公園まで、マナベミユと歩いて行った。

次回へ続く

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