視覚芸術の階層構造についての考察

 視覚芸術にはしばしばメタ的な演出が取り入れられる。
「一枚の絵画の中に右手が描かれている。絵の中の右手は、一枚の紙に右手の絵を描いていて、更にその右手は。。」
といった表現は多くの人がどこかで観たことがあるかと思うが、既にありふれて新鮮味がないようにも感じる。もっとも原始的なものは合わせ鏡だろうか。
漫画、アニメ、映画の中のキャラクターが、鑑賞者である私たちに話しかけてきたり、当人たちがフィクションの存在であることを示唆するような表現も分かりやすい例だろう。前者では、鑑賞対象である絵画の中には限りなく世界が続いていくように見える。後者では、本来私たちとは独立した世界に存在する鑑賞対象がこちらの世界に干渉してきたように感じる。両者に共通するのは「鑑賞対象に存在する階層性」だ。『階層』は直感的には2次元、3次元のように言い換えられそうだが、恐らくこの表現は適当ではない。そう考えるに至った理由は後述する。視覚芸術において、これらの表現がどこかシュールで興味深い(これは筆者の主観だが)印象を与えるのは「人々が普段は無意識に認識しており、どこか絶対的だと思っている『階層』の境界を想起させ、時にはその境界を越えたように錯覚させる」からではないだろうか。
 また、芸術に限らず、五感を通して得られるすべての情報は階層的、メタ的であるともいえる。視覚を例にとると、私たちは鑑賞対象により反射された可視光を網膜で光情報として感受、視神経から脳へ至るまで電気信号として処理、知覚しており、このプロセスを省くことはできない。(もちろん鑑賞対象自体が発光することもあるだろうが、これは今回あえて言及すべきことではない。)
すなわち、外界のすべての情報は感覚器というファインダー、脳というフィルターを通して表現された写真のようなものであると考えれば、私たちの日常生活はおしなべて階層構造の芸術鑑賞に他ならない。
 さて、本題に入る前に例として「『ある人が花を見ながら絵を描いている様子』を撮った写真」を考える。この写真を鑑賞する際、階層を考えると⓪花、①その花を見ながら絵を描く人、②その人が絵を描いている様子を写すカメラ、③現像された写真を鑑賞する鑑賞者、の階層構造になっている。以降、階層については⓪より①、①より②を上位と定義する。このとき、③の視点からは⓪〜②はすべて等しく③の構成要素かつ鑑賞対象である。同様に⓪〜①は②にとっての、⓪は①にとっての鑑賞対象である。ここで、上位の鑑賞者は、それぞれの鑑賞対象が包含する低位の鑑賞対象についても、等しく2次元情報として処理することになる。すなわち、上位の鑑賞者ほど「高次元の存在」になるわけではなく、鑑賞者は飽くまで3次元の存在である。
 2022年5月11日、在宅勤務の昼休みにシャワーを浴びながらぼんやり上記のようなことを考えていた。そこでふと「鑑賞対象が鑑賞者に鑑賞されるまでの間(前述の例でいう⓪と①の間)を表現する方法はないだろうか」と思い、筆者自身の思考の整理のため本稿執筆に至った。現時点で特にそれらしい結論はないが、鑑賞対象が視覚芸術である限りは人間というフィルターは当然省けないため、⓪~①間を見たままの2次元情報(絵)として表現し、認知することはできない、というのが前提の推定である。そのため、現時点では「なんらかの疑似的な、もしくは鑑賞対象を規則的に変換、ないし抽象化した絵、記号」としての表現を想像している。イメージとしては、人間が花を見たとき、脳が「これは花だ」と認識するまでのプロセスを表現できないか、ということなので、フーリエ変換による画像処理などの数学的な手法とはコンセプトが異なる。
 ⓪~①間を表現する方法は簡単には思いつきそうになかったので、まずは視覚芸術において鑑賞者の階層を重ねていく際の性質について考えてみようと思う。
今のところ、思いついたものを以下に記載する。
1. 最低位の鑑賞対象を除いて、すべての階層に鑑賞者が存在する必要がある。
2. 最上位の鑑賞者(現実の私たち)以外の鑑賞者は、その鑑賞対象を2次元に出力する能力を持つ必要がある。
3. 上位の鑑賞者による出力には、自身より下位の鑑賞者による出力結果が含まれている必要がある。

ここまで考えて飽きてしまったので気が向いたら続きを考えてみます。
ただの抽象化やちょっとした変形、変換では面白くないので何か考えてみたいところ。

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