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ゼネラリストの矜持

 先日、人事異動の記事をfacebookで紹介したところ、自分が勤務していた市町村役場とは異なる市町村役場で勤務する高校時代の後輩から、さっそくありがたいコメントをいただいた。

 23年間で10カ所…って、ゼネラリストの育成にも程がありますよね

 おっしゃる通りで、自分のキャリアは1つの部署に最長3年。石の上にも3年とはいうものの、やはり1つの仕事を極めるには5年~10年の年月は必要だ。

 全国初の公立中学校民間校長となったことでも知られる、教育実践家の藤原和博氏は、自著「100万人に1人の存在になる方法」の中で、年に100回を超える講演会における、聴衆に対する説得力のある話として、次のような事例を紹介している。

「20代で就く1つ目のキャリアで1万時間(5年から10年)夢中になって仕事をすれば、それが営業であっても経理であっても宣伝であっても、100人に1人の営業マン、経理マン、宣伝マンになれる」

(不透明な未来を生き延びるための人生戦略「100万人に1人の存在になる方法」ダイヤモンド社 より引用)

 また、 

「2つ目のキャリアは、30代における会社や役所での異動かもしれないが、営業から営業企画でもいいし、経理から財務でも、宣伝から広報でもいいから、左の軸足が1万時間で定まったら、右の軸足を定めるつもりでやっぱり1万時間頑張れば、そこでも100人に1人の企画マン、財務マン、広報マンになれる。そうすれば結果的に100分の1×100分の1=1万人に1人の希少性を確保することが可能だ」

(前掲書)

 とも述べて、それらの話が講演の中で共感を呼んでいると記している。

 
 藤原氏の話には続きがあって、これらは三段跳びでいうところの「ホップ」、「ステップ」であって、三歩目の「ジャンプ」の必要性と難しさを書いているのだが、それはともかく、まずは1万時間がんばることの大切さを述べている。

 もしも1万時間(5年~10年)同じ部署で頑張れたら、それこそ「お役所きっての政策通」とか、「わからないことがあったらあの人に聞け!」くらいのポジションになったのかもしれないが、いろいろなところを転々として歩くもんだから、同じ職場の若手から「何が専門の人なんですか?」と聞かれたり、住民の方からも「え、もう次の部署いっちゃったの?」と言われたりした。

 すべてにおいて中途半端。

 かつては「公務員は一流のゼネラリストになれ」という時代があったが、近年は「ゼネラリスト」より「スペシャリスト」を重用する傾向にあり、民間から弁護士や公認会計士を○○専門監という職名で採用している市町村役場もある。

 
 一方で、小さい市町村であればあるほど、様々な業務をこなさなければならなくて、それこそ1人で制度設計から制度の運用、受付・審査まですることもざらにある。
 職務でも同じで、自分が退職した時の職務は「企画」「移住定住」「統計」の課長補佐であり、総合計画から地域おこし協力隊、ふるさと納税、国勢調査の総括的な仕事を任された。
 ここでも中途半端に終わってしまったと後悔もしているが、いずれ小中規模の市町村役場では1人でやることの範囲が非常に広くなってしまう。
(現在、自分がいた市町村役場では、現在「企画」「移住定住」「統計」の部門は3つの職場に分割されていている)

 逆に言えば、そのことで様々な知識を得ることができたのもまた事実である。「法務」、「税務」、「商工業」、「建設」、「教育」、「スポーツ」、「地域づくり」・・・。
 福祉や農政の仕事とは縁がなかったが、つまみぐいでもなんでもこれだけの分野をかじったことは今の大きな財産になっている。

 そもそも1万時間を一生懸命頑張ったからと言ってすべての人がスペシャリストになれるわけではない。以前、公正世界仮説の記事を書いたが、アメリカの著述家マルコム・グラッドウェルが提唱した『1万時間の法則』は、「大きな成功を収めた人は1万時間以上一生懸命努力した」という経験則であり、「1万時間以上一生懸命努力した」からといって誰もが成功を収めるわけではない。

 ただ、藤原和博氏が提唱するすべての考え方を否定するものでもない。
 藤原氏の著『45歳の教科書』等で提唱する「人生100年時代において、例えばサラリーマンが一つの仕事をただこなして定年を迎え、その後余暇を過ごすというライフスタイルではなくて、45歳くらいからモードチェンジして、次の20、30年に向けて準備していかなければならない」という考え方は、現在働いているすべての地方公務員のみなさんに当てはまるものだと思っている。 

 もちろん、一つの仕事に一生懸命に努力している人には本当に敬意を表する。
 
 自分は23年間サラリーマンとして働き46歳で退職したが、やはりいろいろな意味で限界だった。それはモードチェンジなどというものではなく、退職せざるを得なかったというのが本当のところだ。
 今となってみれば、45歳あたりで資格を取るとか、次の人生に向けて準備を進めるとかしていれば、そのあとこんなに苦労もしていなかったとも思うが、リスクをとって失敗したことでさらに学ぶことも多かったので、それはそれでよかったのかもしれない。

 
 優秀な後輩のありがたいコメントに感謝しつつ、様々な知識を有するゼネラリストとしての矜持も胸に、この閉塞した地域に一泡吹かせたいと野心を抱いている今日この頃である。
 

 

 

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