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ルビコン川を渡る

 紀元前49年1月10日、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、共和制ローマの末期にあった三頭政治の盟友ポンペイウスら元老院派と戦うために、属州ガリアから軍を率いてルビコン川を渡り、ローマ本土へ入った。

 「ルビコン川を渡る」という表現は、後戻りのきかない道へと歩み出す、その決断を下すことを意味する。
 「一線を越える」とか「背水の陣を敷く」などともいう。ルビコン自体は、大した障害ではない。アペニン山脈に水源を発して東に流れ下るイタリアの小さな川で、リミニとチェゼーナの間を通ってアドリア海に注ぐ。渡るのは簡単で、それは紀元前49年1月10日も同じだった。そのとき、ユリウス・カエサルは配下の一個軍団を従えてこの川の北岸に立ち、次の一手を決めあぐねているように見えた。
 カエサルが迫られていた決断は、どうやって対岸に渡るかということには関係なかった。すぐそばに橋が架かっていたからだ。彼を立ち止まらせ、思案に暮れさせていたのは、この川が象徴するものだった。ルビコン川は、当時カエサルが統治を任されていたローマの属州ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリアの意)と、ローマおよびその周辺の直轄領から成るイタリア本土とを隔てる境界線だったのである。将軍が軍を率いてイタリア本土に入ることは、ローマの法律で明確に禁じられていた。
 その禁を、今まさにカエサルは破ろうとしているのであり、彼自身、それがどういう結果を招くか重々承知していた。ルビコン川を渡ることは、カエサル本人はもちろん、彼につき従う者も死罪に問われることを意味していた。従って、もし軍団を率いて川を渡るならば、かつての盟友で今や不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となったポンペイウスが指揮を執る軍勢を打ち破ってローマを掌握するしかなかった。それができなければ、刑死は免れない。自らの決断の重さにしばらく思いを巡らしてから、カエサルはルビコン川を渡る。ローマ内戦の火蓋が切って落とされた。 

(NATIONAL GEOGRAPHIC ルビコン川を渡る、禁を犯したカエサルの決断
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/050800278/より引用)

 
 属州ガリア総督であったカエサルの権力拡大を恐れた元老院派は、ポンペイウスと組み、カエサルが属州ガリア総督の任期終了後ローマへ戻ってくる場合には軍隊を解散するようカエサルに指示。丸腰でローマに帰ってくれば自らの生命が危ういことを知ったカエサルは、不退転の決意でルビコン川を渡り、戦いに挑んだ。

 この際、カエサルが「賽は投げられた」と語ったのは有名だ。

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 人間は誰しも物事を決断して生きている。
 
 その時その時における小さな決断はもとより、進学、就職、結婚などこれからの生き方を左右する大きな決断をしなければならない時がある。

 自分は、6年前「退職」という決断をした。

 それは、カエサルのような不退転の決意ではなく、これから未知の世界へ飛び込んでいく希望の船出だったような気がする。
 

 そして6年後、また新たな決断をする。

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