表紙画像

長編小説  『オーマーチョーパー!』

*オーマーチョーパーとはカレン語で“グッドラック”を意味する*

★目次(第一章を無料公開します)★

【第一章 嵐の前に】

【第二章 ジャンケン勝負】

【第三章 不純な旅】

【第四章 カレン族生活入門】

【第五章 殺して喰らえ】

【第六章 ムエタイ勝負】

【第七章 オーマーチョーパー!】

(本文)

【第一章 嵐の前に】

    一    

 地元ではちょいと名の知られた『満腹食堂』の次男坊である。

 成柚木雄太(なりゆぎゆうた)、二十六歳。長男の健一とは、五つ違いだ。

 父は剛造(ごうぞう)、五十六歳。母の幸恵(さちえ)は五十二歳。共に多くは語らないが、両親は九州の片田舎の幼馴染みで、幼稚園の頃から幸恵に惚れ込んだ剛造がかっさらうような形で駆け落ちし、この南関東のはずれにある小さな港町に住み着いたらしい。

 熊本生まれの剛造は、典型的な肥後もっこすだ。とんでもないへそ曲がり、かつ意地っ張りなのである。

「食堂をやっとる以上は、お客さんに腹一杯になってもらわにゃいかん!」

 それが開店以来のポリシーで、飯もおかずもすべて大盛り。しかも値段は他よりも安いということで、開店する昼前には長蛇の列ができる。

 だが、そんな豪快かつ無鉄砲な商売のやり方なのだから、当然実入りは少ない。築三十年の店はすでにガタボロ、古ぼけた暖簾(のれん)の下がる玄関のガラス戸を一発で開け得るのは、近所の常連客だけだ。

 店の奥と二階にある狭い母屋も、厨房からの炊煙ですっかり油染みており、なおかつ歩くたびに床がギシギシ鳴るのだが、手を入れる余裕などはまったくない。

 だから、長男の健一は高校に入ると早々、

「こんな儲からん食堂なんぞ、絶対に継ぐもんか!」

 いきなり宣言した。

「このバカタレがあ! 長男が家を継がんでどぎゃんするか!」

 逆上した剛造は、思わず厨房の肉切り包丁を手に健一の前に立ちはだかった。だが、普段は夫を神のごとく祀(まつ)り立てても、実のところは自分の掌で遊ばせているだけという典型的な肥後猛女(もうじょ)の幸恵が、すかさずフライパンでその包丁を叩き落としたがために剛造は我に返った。

 結局、健一は剛造に合計六発の容赦ないゲンコツを喰らいながらも、築港工事のバイトでせっせと金を貯めた。そして高校を出ると友人のアパートに転がり込んで、有無を言わさず東京の専門学校に入り、二年後に小さなインテリアデザイン会社に就職した。

 どうやら、この健一も肥後もっこすの血を引いているらしい。

 その点、次男の雄太が剛造から受け継いだのは、固太りのがっしりした体格くらいで、見た目からは想像できないくらいに気が弱い。

 顔は浅黒く、鼻筋の通ったなかなかに整った顔立ちなのだが、濃い眉の下の二重まぶたの両目は、いつも伏し目勝ちだ。子供の頃から自分の意見を強く主張することなどほとんどなく、いつもまわりの空気に身を任せる。

 そこで、二十代の半ばになったいまも、親しい同級生からは苗字をもじって「なりゆき雄太」などとからかわれる始末だ。

 兄弟二人を並べてみると、体格では雄太の方がはるかに勝る。

 健一の方はひょろりとした優男(やさおとこ)なのだ。こちらは、母親の幸恵の血を引いたようである。だが、健一は手先がとても器用で、子供の頃から料理作りもやけに上手かった。

 ところが、雄太の方は不器用を絵に描いたような男なのである。十歳になると無理矢理に食堂の厨房に入れられ、「自分の飯ぐらいは自分で作らんか!」と剛造のスパルタ教育を受けたものの、火傷や切り傷の連続で剛造を嘆かせ、母の幸恵には涙させた。

 むろん、一番泣いたのは雄太自身だ。

 一方、健一の調理の腕前はみるみるあがり、雄太は自分の失敗作をこっそりと近所の犬たちの餌にして、兄が作った旨い卵焼きや味噌汁にこっそり舌鼓を打つのだった。

 当然のごとく「食堂を継ぐのは兄ちゃんだ」と思い込み、自分は地元の信用金庫か漁業組合にでも勤めるのだろうと漠然と考えていた。

 ところが、いきなりの方向転換である。健一が家を出て、入れ違いに雄太が高校に入ると、剛造から下校後の店の手伝いを命じられるようになった。

 小学時代から始めたサッカーも続けられず、毎日毎日、汗と油と火傷と切り傷にまみれて『満腹食堂』の代表メニューである特製肉野菜炒めを作らされる羽目になったのである。

「糞ったれえ! なんで、料理の下手な俺が、こんな目に遭わなけりゃならんのか。兄ちゃんのバカたれえ!」

 店の前の岸壁に立ち、泣きながら落陽を映す油ぎった海に向かってそう叫んでみても、兄の健一はとっとと家を逃げ出しており、その叫びは虚しく宙を舞うだけだ。

 成柚木家にあって、剛造の権威は絶対的である。いや、兄の健一は手加減のない六発のゲンコツを代償にそれを覆(くつがえ)したわけだが、雄太にはそれほどの度胸はなかった。とりわけ父の剛造が得意とする「飯抜きの刑」には、震え上がるほどの恐怖さえ覚えるのだ。

 食べ盛りの高校生にとっては無理もないことなのだが、雄太には兄の健一のように、晩酌で酔いつぶれた剛造が寝入っている隙に厨房で食材をちょろまかし、ちょちょいと何かを作るという気転も才覚もない。

 ところが、高校を終えて本格的に調理師免許取得を目指すようになると、雄太の心に微妙な変化が兆し始めた。あろうことか、内心では憎しみさえ覚えていた料理に研究心のようなものをそそられるようになってきたのだ。

『満腹食堂』は、典型的な大衆食堂である。主なメニューは、特製肉野菜炒めを筆頭とした各種定食やカツ丼の類だ。だが、こうした定番メニューだけでなく、単なる冷や奴や月見納豆にさえ剛造は大きなこだわりを持っている。食材の選定から調味料、薬味の一つひとつ、垂らす醤油にすらも驚くほどの思い入れや工夫を凝らしているのである。

「これじゃあ、儲かるはずがない」

 そう思いつつも、雄太は知らず知らずのうちに剛造のこだわりをそっと盗もうと努めている自分に気がついた。そして、そのこだわりの奥にある料理に対する愛情のようなものを、いや何よりも「お客さんに喜んでもらおう」という心ぶりのようなものを、次第次第に自分の中にも芽生えさせていったのである。

 とは言え、いくら殊勝な心がけを持っても雄太の不器用さは相変わらずだった。何かに気をそらした隙に、左手の親指の付け根を包丁でざっくりと切って救急病院に駆け込んだこともあった。四針も縫ったその傷痕は、今も赤黒く引きつったように残っている。

 二十五歳を超えても、還暦に近い剛造の手並みやスピードにははるかに及ばない。しかし、雄太が客の少ない時間にマイペースで味付けをする料理は、いつの間にか常連客の間で次第次第に人気を集めるようになってきた。

「剛造さんの味はどーんとくるが、雄太くんのはじわじわっと来るねえ」

「そうそう、なんか、舌にやんわりと絡(から)みつくような感じだよ」

 うるさい婆さんの目を逃れてこっそり晩酌を楽しみにやってくる植木屋のご隠居や、五年前に妻を亡くして以来一人暮らしの元校長、地元の漁業組合に勤める独身の同級生などがそう言ってくれるたびに、雄太の自信は少しずつ膨らんでゆく。

「まだまだ、へなちょこたい! オレが味見せんことには、とても店では通用せん!」

 そのたびに肥後なまりで雄太を味噌糞にけなしてきた剛造の態度も、いつの間にか少しずつ変わり始めた。そして、ある日雄太が作った新作肉野菜炒めを試した剛造が、こんなことを言い出したのだ。

「俺が店に立てなくなる前に、もうひと工夫せいよ」

 剛造はこのところ、長年の立ち仕事ですっかりこじらせた腰痛で苦しんでいる。還暦が近づいて気も弱くなってきたのだろうが、雄太の腕前をそれなりに認めるようになってきたのも確かな事実だった。

 こうして、雄太は二十六歳になった。

     二

 そこへ微風が吹いた。兄の健一が体調を壊して、家に戻ってきたのだ。

 家族の期待を裏切ってまで入った会社は人使いが荒く、残業や休日出勤の連続でストレスにやられたらしい。医者の診断は「自律神経失調症」というもので、このまま今の仕事を続けると鬱(うつ)病につながる危険性もあるという。

 雄太に言わせれば、「兄ちゃんはそんなヤワな男じゃなかったはず」ということになるのだが、目の前でうなだれ、しきりに額や首筋に浮いてくる冷や汗をタオルで拭いながら、時おり深い溜め息をついてはぼそぼそと喋る兄の姿を見ていると、さすがに「よっぽどひどい目に遭ったんだなあ」と同情せざるを得ない。

 むろん雄太にとっても兄の健一が家を継がないという宣言をした日以来、泣かぬ日はなかったくらいの厳しい料理修行の連続だったのだが、ストレスなんか感じたことはない。

 おそらく、そんなものも含めたすべての感情を使い込んだまな板や研ぎ上げた包丁、強烈な青いガスバーナーの炎や熱く灼けたフライパンなどに叩き付けていたのだろう。

「そげな会社、辞めろ、辞めろ! しばらく、家で休めばよか」

 すっかり元気をなくした健一の話を聞くと、家族には相談も何もなく、剛造は成柚木家にとっては「裏切り者」とも言える健一の帰還をあっさりと認めた。その結果、健一はすぐに会社を辞め、失業保険をもらいながら自宅で静養することになったのである。

 家に戻った当初は、冴えない顔でしきりに体のだるさやめまい、食欲不振などを訴えていた健一だったが、しばらくすると自分から進んで厨房に入り、調理の手伝いをするようになった。

 狭い厨房にむさい男が三人も入ると、動きづらくて仕方がない。だが、健一の体(たい)さばきと手際は信じられないほどに鮮やかで、いつの間にか雄太の方が厨房から弾き出され、母親の幸恵と共に配膳係や皿洗いに回っていたりする。

 これまでの地を這いずり回るような料理修行を思うと、雄太は大きな溜め息をつくしかない。

「お、さすが健ちゃんだねえ。味付けが親父さんとよく似てるぜ」

「こりゃあ、雄ちゃんもうかうかしてられないなあ」

 常連客の中には、そんなことを言い出す者まで出てくるようになった。

 雄太が兄の健一の存在に軽い不安を覚え始めた、そんなある夜のことだ。

「料理づくりはいいなあ。何にも考えなくていいから、ストレスなんて全然感じないや。お前、いい道を選んだな」

 店を閉めたあと、夜光虫のきらめきを見下ろす岸壁に丸椅子を出して一服しながら、健一は脇に立って腰を伸ばす雄太に向かい、そんなことを言い出した。

「……何を寝ぼけたこと言ってんだ。オレがどんなに苦労したか、知りもしないで」

 雄太の口調はついついきつくなる。が、健一が病を抱えているという配慮から怒鳴り声にはならなかった。これが病気じゃなかったら、いきなり殴りつけているところだ。喧嘩ならば、すっかりやつれてしまった健一よりも、厨房で鍛えてきた雄太の方が強いに決まっている。

 もっとも、雄太は子供時代を含めて、これまでに人を殴った経験はまったくなかった。兄の健一とは五つも年が離れていたせいか、取っ組み合いの兄弟喧嘩をした記憶もない。

 健一が吸い差しの煙草を指先で弾き飛ばし、丸椅子に座ったまま雄太の顔を見上げた。  

 雄太はその視線を無視して、海面に向かって落ちてゆくオレンジ色の炎の軌跡を目で追った。

「……まあ、そう言うなよ。あの頃は俺、このオンボロ食堂を継ぐなんて、とても考えられなかったからなあ」

「じゃあ、何か? 今は店を継いでもいいって言うのかよ」

「うーん。それもまた有りかな、なんてな」

 健一が薄く笑いながら、海の方に目をやった。ドキッとした。

「ざけんな!」

 雄太は口の中で小さく罵ったが、大きく息を吸って動悸を鎮(しず)めた。

「ま、料理をして気持ちが晴れるんなら厨房に入っても構わない。だけどな、これだけは忘れんなよ。兄ちゃんが好き勝手なことをやってる間にこの店を守ってきたのは、親父と俺なんだからな」

 雄太はそう言いながら、知らず知らずのうちに左手の赤黒い傷痕を、右手の指先でそっとさすっている自分に気がついた。踵(きびす)を返して店に戻ろうとすると、

「分かってるよ」

 健一は小声で、雄太の背中に声をかけてきた。

 翌日から健一は調理には手を出さなくなり、もっぱら食材の買い出しを引き受けるようになった。厨房に入っても、皿洗いや冷蔵庫内の食材整理に徹している。そして数日すると、剛造に断って朝から外に出ることが多くなった。

 幸恵によれば職探しを始めたらしい。雄太は、ホッと息をついた。

 その日は、定休日の月曜日だった。休みの日、雄太は午前中は部屋でゴロゴロしたり、ゲームをしたりして体を休めることにしている。なにしろ、普段は早朝の買い出しや仕込みから始まって夜八時の閉店時間まで、ほとんど立ち詰めなのだ。

 彼女は、いない。これまでに付き合った女性は何人かいたものの、「ここが俺が後を継ぐ食堂だよ」と言って店に連れてくると、その翌日から彼女たちの態度が急に変わってしまうのだった。数日すると、電話にも出なくなる。つまり、逃げられたわけだ。

 どうやら、ガタボロの店や剛造に派手に怒鳴られる雄太の情けない姿、母の幸恵がコマネズミのように配膳や皿洗いに追われている様子などを見て、ビビってしまうらしい。

 そうしたことが数度も重なって面倒になったこともあるが、今は料理の方が面白くて仕方がない。だから、午後は決まって新しいメニュー作りに没頭するのである。腰の痛みがますますひどくなってきた剛造は、そんな雄太の様子を黙って見守っている。

 そうして、味見を頼むとやけに嬉しそうな顔をするくせに、雄太の苦心作を舌に載せた途端、きつい肥後弁で味噌糞(みそくそ)にけなすのだった。

「なんや、この味は? まだまだ、店は譲れんばい! 一からやり直しじゃ!」

「そうかなあ。俺は父ちゃんの味を超えたと思うぞ」

「こんバカタレがあ!」

 剛造は例によって包丁やゲンコツを振り上げるものの、その目は笑っている。定休日のたびに繰り返されるそんな父親とのやり取りも、今の雄太にはひとつのレクリエーションみたいなものだ。

 そこへ、突然の嵐が吹いた。普段よりもずっと早い晩飯が済んだ頃、兄の健一が前触れもなくひとりの女性を伴って来たのだ。悔しいことに、かなりの美人だった。

 すらりとした長身だ。だが、化粧っ毛はほとんどなく、黒くて長い髪は後ろで素っ気なく束ねてあるだけ。服装も地味な花柄のワンピースで、指輪やピアス、ネックレスなどのアクセサリーも付けていない。

「前の会社で一緒だった佐藤久美子さんだ。この人と結婚しようと思っている」

 健一はいきなりそう紹介すると、目を丸くしている家族三人の前で平蜘蛛(ひらぐも)のように両手をつき、畳に額をこすり付けるようにして頭を下げた。

「ついては、この店を俺に継がしてくれないか?」

 な、なにい! 雄太はそう思ったが、あまりのことに言葉が出てこない。剛造も幸恵もただぽかんと口を開けて、長男の健一とその隣で同じように両手をついている女性を交互に眺めているだけだ。

 沈黙の三分後、剛造がようやく我に返った。

「こ、こんバカタレがあ! 今さら何を言うとるかあ!」

 まだ片付けの済んでいない卓袱台(ちゃぶだい)を、いきなりひっくり返した。四本の脚が折り畳める旧式の丸い卓袱台は、剛造が昔を懐かしがってどこかの骨董屋で見つけてきたものだ。かなり、高かったらしい。卓袱台と共に茶碗や皿や醤油差しが嵐のように飛び散ったが、頭を下げた二人はびくりともしない。

 ……へえ、この久美子という女性は大したもんだ。

 まだ言葉を失ったままの雄太は、ぼんやりとそんな場違いなことを考えていた。その隣で、腰痛に顔をしかめながらも、剛造が憤然と立ち上がる気配を見せた。

「あんた、待ちなっせ!」

 そこへ、幸恵の鋭い声が飛んだ。剛造が何かを言いかけた途端、幸恵はその太い腕を両手で掴(つか)むとしゃにむに引っ張った。剛造は、畳の上に派手に尻餅(しりもち)をつく。

「なんばすっとか! こ、このお」

「ここはあたしに任せんね! こりゃあ、どうも女どうしの勝負のごたる」

 幸恵が、ふふふと低く笑った。不気味な笑い声に、剛造はぎょっとなって口を閉じる。

「健一のバカはともかくとして、あたしはこの人が気に入った。なかなか腹が据わっとるごたる。話だけでも聞こうじゃなかね。な、剛造さん?」

 幸恵も、いつの間にか肥後弁になっている。雄太は驚いた。こんな時に、母親も自分と同じようなことを考えていたのだ。

 それに、肥後弁が出るときの幸恵には、剛造でも歯向かえない。

「久美子さんとやら、どこかに痛みはなかね? ほれ、服や腕に醤油が飛んどるよ。まずは洗面所で身づくろいばしておいで」

 そこで久美子はやや蒼ざめた顔をあげて、ようやく口を開いた。

「いえ、まずはここを片付けさせてください」

 さっと立ち上がると奥の台所に走り、水を入れたバケツと布巾(ふきん)を手にして戻ってきた。障子を桟(さん)ごと突き破った卓袱台を拭いて、四本の脚を折り畳む。それを壁に立てかけ、あちこちに散乱した茶碗や皿や箸(はし)をてきぱきと片付け始めた。

 次いで、刺身のツマや焼き魚の骨が飛び散った畳を、固く絞った布巾で小気味よくきゅっきゅっと拭きあげる。その勢いに釣られるように、健一ものろのろと手伝い始めた。

 幸恵は、それをニコニコしながら見守っている。

 剛造と雄太は、ただ呆然と眺めるだけだ。

     三

 すっかり片付けが終わると、幸恵は久美子を台所に誘った。

「ご苦労さん。お茶を淹(い)れるから、あんた、ちょっと手伝ってちょうだい。お父さん、話はそれからにするけんね。その間、三人とも喧嘩なんかしたら絶対にいかんよ。分かっとろうね?」

 最後の肥後弁での問いかけは、有無を言わさぬ迫力に満ちていた。

「おお」

 右手で腰をかばいながらあぐらをかいた剛造は、顎をしゃくって傲然(ごうぜん)とそう答えたものの、男三人だけになるとどうにも居心地が悪そうだ。

 それは、兄弟二人も同じだった。健一が店からべこべこのアルミの灰皿を取って来て、胸ポケットから煙草を取り出して勧めると、普段は吸わない剛造と雄太も黙って手を伸ばした。三人は互いに視線をそらし、ぷかぷかと煙草を吹かしている。剛造と雄太は、慣れない煙に何度も咳き込んだ。

 数分後、幸恵と久美子がお茶の用意をして茶の間に戻ってきた。部屋にこもった煙草の煙に気づいた久美子が、クッキーの皿を手にしたまま「すみません」と言いつつ素早く窓を開ける。剛造が夕暮れどきの涼やかな海風に首をすくめると、さっと閉めた。

 茶の間の中央に据え直された卓袱台に、お茶とクッキーの皿が置かれた。幸恵と久美子は、母娘(おやこ)のように横に並んで正座する。幸恵がおもむろに口を開いた。

「結論が出ました。その前に、久美子さんがわざわざ焼いて持って来てくれた手作りクッキーを頂きましょうかね」

「け、結論が出たあ? 何の話か、それは?」剛造が目を剥(む)く。

「まあまあまあ、剛造さん。先ずは味見をせんね。ほれ、うまかよお。久美子さん、大した腕前たい」

 幸恵がこんがりとキツネ色に焼けたクッキーをつまみ、強引に剛造の口に持ってゆく。

「雄太も、ほら、ぼやぼやせんと頂きなっせ!」

 その迫力に、雄太も仕方なく手を伸ばした。剛造が顔をしかめてクッキーを齧(かじ)り、ちょっと表情を緩ませて「……うん、うまか」と呟いた。

 確かに、いい味だ。雄太もそう思った。甘みを極力抑えて、素材の香ばしさをよく引き出している。きっと、料理作りも上手いのだろう。

 兄ちゃん、いい女性を見つけたなあ……。

「さて、と」

 そこで、幸恵が正座した背筋をさらに伸ばして、剛造と雄太の顔を交互に見た。

「この久美子さんは、健一の子供ば身ごもっとります」

 剛造と雄太が、クッキーを喉にひっかけて同時にむせた。咳き込みながら、剛造が訊き返す。

「い、今、な、なんて言うたか?」

「はい、健一に子供ができたんです。あたしたちの初孫ですたい」

 情けなくも、クッキーの滓(かす)を唇に付けたまま口をあんぐりと開けた剛造と雄太が、同時に健一の顔を見る。健一が戸惑ったような顔で、うんうんうんと三回頷(うなず)いた。

「そいで、まずは式を挙げなくちゃいかんと健一は新しい仕事を探し始めたばってん、家で手伝いをしているうちに、どうしても食堂の仕事ばしたくなってきた。そこで久美子さんに相談したら、快く賛成してくれたんですと。それどころか、自分も食堂の仕事を手伝いたいとさえ言うてくれた。それで今夜、二人で相談に来たというわけですたい」

「な、なんば言うとる! それじゃあ、雄太はどうなるんか?」

 我に返った剛造が、両手でがんと卓袱台を叩いて怒鳴った。湯呑みからお茶がこぼれ、山盛りのクッキーが皿から飛び出す。だが、幸恵に怯(ひる)んだ様子はない。

「だけん、相談と言うとるんです。健一が自分の口から事情を話せば、どうせ男三人で喧嘩になるだけでしょうが。あんたは、きっと包丁を振り回す。健一と雄太は、殴り合いになるかも知れん。そこで憚(はばか)りながら、不肖あたくしめがこの場を仕切らせてもろうとる次第です」

 意識的に抑えた幸恵の低い声が、剛造の昂(たかぶ)りをビシリと抑えた。あぐらのまま腕組みをした剛造が、ぶふーっと鼻から息を吐いて天井を仰いだ。

「雄太、あんたはどう思うね?」

 いきなり幸恵に話を振られて、雄太もようやく我に返った。冷えたお茶をぐいと飲み干し、唇に付いたクッキーの滓を舌で舐めてから、空の湯呑みを卓袱台に叩き付けた。

「どうもこうも、話にならん! 兄ちゃんには前にも話したけど、この店を守って来たのは俺と親父だ」

 いつの間にかまた煙草に火を着けた剛造が、うんうんと頷きながらゲホゲホと派手に咳き込んだ。四十年近く前に料理修行を始めてから煙草はきっぱりとやめたと聞いている。

 幸恵が、そんな剛造を睨みつけた。

「久美子さんのお腹の中には赤ん坊がおるんですよ。煙草は消しなっせ」

 低い声で決めつけると、すぐさま健一にも鋭い目を向けた。

「あんたも父親としての自覚ば持たんかい! 一丁前に煙草なんぞ吸いくさって!」

 その声に弾かれたように剛造が慌(あわ)てて煙草を揉み消し、健一もあたふたと立ち上がって窓をいっぱいに開けた。それから、煙草の箱を握りつぶしてライターと一緒にゴミ箱に放り込んだ。それらを完全に無視したまま、幸恵が膝をずらして雄太に体を向けた。

「この店を守ってきたのは、あんたと剛造さん。そのことは、わたしも重々承知しとります。ということは、この食堂は健一には絶対に譲れんというわけじゃね?」

「当たり前たい!」

 思わず、親ゆずりの肥後弁が出た。

「そんなら勝負するしかなかろうね。なあ、剛造さん?」

 さっきとは一転した優しい声で話を振られた剛造が、キョトンとした顔になった。

「しょ、勝負て何の勝負かい?」

「はい、こうなったら健一と雄太、どっちが店を継ぐにふさわしい腕前か、料理で勝負を決めるしかなかでしょうが」

 剛造が、うーんと唸ってまた天井を仰いだ。

「か、母ちゃん!」雄太が、思わず片膝を立てた。

「な、なんば言いよっとね? 今さら勝負なんぞ、できるかい!」

 すかさず、幸恵の鋭い声とまなざしが返ってきた。

「あんた、逃げるとね?」

「はあ?」

「今までちゃらちゃらとインテリアデザインとやらにうつつを抜かして、おまけに結婚のけじめもつけずに、さっさと女を孕(はら)ましたこの腑抜け男に、あんたは勝つ自信がなかと言うとね?」

 今度は、健一が腰を浮かした。

「か、母ちゃん、腑抜けとは何ね、腑抜けとは?」

「腑抜けじゃろうが! 自分だけ先にウハウハよか気持ちになって、コンドームもつけくさらんと! 久美子さんだけに負担を押しつけた腑抜けの中の腑抜けとは、あんたのこったい!」

 そこで幸恵は畳に両膝を立ててずずいと進み、卓袱台越しに健一の頬にバシッと強烈なビンタを喰らわせた。

「今のは久美子さんの分。次は、雄太と剛造さんの分たい」

 直後に繰り出したのは、スナップを利かせた素早い往復ビンタだった。健一は顔を背(そむ)けもせずに、ただ呆然とそのビンタを受けている。幸恵の返した手の甲が当たったのか、健一の右の鼻の穴から赤黒い血がたらりと垂れた。

 直後に、卓袱台に左手をついて伸び上がるようにして放ったさらに強烈な一撃が見事に決まった。健一の顔が激しく振れて白いシャツに鼻血が飛び、右手を脇の畳について体を支えるほどの衝撃だった。

「ついでに、あたしの分もいただきました。ありがとさん」

 幸恵は久美子に向かってぺこりと頭を下げてから、ニッコリと笑った。

「さて、と。これで必要なお仕置きは済みました。あとは、剛造さんと雄太の気持ち次第たいね」

 せいせいした顔になって、すっかり冷めたお茶を飲み干す。これまた呆然となっていた久美子が、慌ててお茶を淹れ直している。

     四

 幸恵の放った目の覚めるようなビンタの連発と、さっき彼女の口から発した「腑抜け」という言葉に、雄太の気持ちは知らず知らずのうちに奮い立っていた。

 おもむろに正座になり、平手で自分の両膝をバシッと叩く。

「よおし、やってやろうたい! この腑抜け男と勝負してみせようたい!」

「言うたなあ、よおし、やってやろうじゃなかか!」

 健一も、正座になって右の拳固で畳を殴りこれに応じた。

「剛造さん?」

 幸恵が相変わらず冷静な口調で、剛造の顔を覗き込む。

 数秒後、腕組みをして目を閉じていた剛造が、低く「おお」と頷いてカッと両目を見開いた。腕組みを解いた両手を音立てて両膝の上に置くと、ぐいと身を乗り出して雄太の顔を睨みつけた。

「雄太、後悔はせんな?」

「おお、誰がこんな腑抜けに負けるかい!」

「よおし、そんなら決まりじゃ。明日、決着ばつけるぞ。健一も良かな?」

「おお!」

 兄弟二人が、同時に吼(ほ)えた。

 そのあと、健一と久美子は幸恵と一緒に奥の台所に引っ込み、しばらくの間低い声で話し込んでいたが、十時を過ぎると二人で家を出ていった。久美子が借りている川崎のアパートに戻るらしい。帰り際、久美子は剛造と雄太の前で再び両手をついて、深々と頭を下げた。

 その夜、なかなか寝つけずに一階のトイレに下りてゆくと、蛍光灯もつけない薄暗い食堂のテーブルで、剛造がひとり茶碗酒を飲んでいた。銘柄は、熊本の銘酒「美少年」だ。

「父ちゃん、まだ起きとったんかい?」

 さっきまでの興奮が尾を引いているのか、雄太にもまだ肥後なまりが残っている。

「おう、お前も飲むか?」

 雄太は黙って丸椅子を引いて剛造の前に座り、剛造が注いでくれた茶碗酒を一気に飲み干した。胃袋がカッと灼ける。天井に向けて、ふーっと酒気を吐いた。

「見損(そこ)のうたぞ、父ちゃん。あんたは、俺を選ぶかと思うとった」

「すまん」

 意外にも、剛造がテーブルの上に両手をついて頭を下げた。雄太は、思わぬ成り行きに息を呑んだ。親父が俺に向かって頭を下げるなんて、生まれて初めてのことだ。

「儂(わし)らがこの店を始めたときにな、母ちゃんの腹には赤ん坊が入っとったんだ。それが健一というわけじゃ。それまで父ちゃんは、あちこちの料理屋で仕事はしとったものの、店主や先輩と喧嘩してはすぐに辞めての。どうにも腹が決まらんで、ふらふらしとった。いつまでも落ち着かん父ちゃんに向かって、母ちゃんはこう言いくさった。『あんたがここで腹を決めんのなら、あたしはこの子と一緒に海に飛び込みます』っちゅうてな」

「……」

「さっきの久美子さんは、あんときの母ちゃんとおんなじ顔をしとった。じゃけんと言うて、わしは健一の肩を持つ気なんぞは毛頭(もうとう)なか。お前が勝つと思うたからこそ、明日の勝負を決めたんじゃ。母ちゃんも、それはおんなじじゃと思う」

 剛造はそこで言葉を切り、茶碗に半分ほど注いだ酒をぐいと飲み干した。勢い余って唇の端からこぼれ出た酒を、乱暴に手の甲で拭う。

「ばってん、母ちゃんはあの久美子さんの思いつめた顔を見て、身ごもって切羽つまった昔の自分を思い出したんじゃろうなあ。久美子さんの手前、もうすぐ父親になる健一に、形だけでも男の勝負をさせてみようと考えたに違いなかばい……」

 雄太は言葉を失ったままだ。剛造が、茶碗になみなみと酒を満たして雄太の方に押しやった。雄太はまた、それを一気に飲み干した。そして、剛造の茶碗を酒で満たして押し返すと、丸椅子を引いてすっと立ち上がった。

「じゃあ、俺、寝るわ」

「おお、しっかり休め」

「ああ、お休み。父ちゃんも飲み過ぎるなよ」

「おお、分かっとる」

 雄太が狭い階段を上がりかけると、剛造も一気に飲み干したのだろう。

 テーブルに茶碗を叩きつけるタンという甲高い音が、薄暗い食堂の中に響き渡った。

                         (第二章に続く)

※さて、雄太の運命や如何に? 続きはKindle版でお楽しみください。



 


よろしければ、取材費サポートをお願いします。記事をより楽しく、より充実させるために活用させて頂きます。