自己愛と承認欲求

懶惰から絵を離れていましたが、最近になって創作意欲が湧いてきました。言語って限界がありますよね、芸術ってことばにならない神聖なものが秘められている気がします。ことばを知らない馬鹿でも何かしらを表現できますし。とにかく今年こそは何かしらを完成させたいなと息巻いております。自分の作品って、自分の好きなものを詰めているからどうしても嫌いになれません。でもきっと、心のどこかで他者にも私の作品を好いていてほしいと願っているのです。それは特段悪いことではないのですが、他者に期待しすぎるとこっちが破滅するハメになる気がするので、私だけが私の作品更新を待っているくらいの気でいたいですね。精神的孤独ってヤツです。

思えば高校生の頃から、「私の1番の理解者は私だから、私が私のことたんまり認めて可愛がってあげるね」というスタンスで生きています。

▲17歳の頃、「自分で自分のことを愛しているか」と考え書きなぐったもの。とても見苦しい。

私はかわいい、私は絵がうまい、私は頭がいいと呪文のように何年も唱え続け反芻していたら不思議と私自身のことが好きだと思えるようになっていました。単純でいいですね。言わば呪いから得た自己愛です。ただ、実際はメイクで拭いきれない顔面コンプレックスが沢山あり、絵もデッサンが狂っているしバストアップばかりで世間的に評価されるものではありません。その上性格もご覧の通りひん曲がっています。他者と共にありながら自分を認めることができる状態を『自己肯定感が高い』と言うらしいです。これに当てはめると、私は自己愛は強いが自己肯定感は低いということになります。

世界はとても広いです。インターネットが繁栄しSNSが普及した今、その広さがものすごく身近に感じられます。幸せな家族ムービーも、金がありすぎる故に金を配るおじさんや、お人形のようにかわいい女の子、歳下の神絵師など、探せば探すほど自分より優れた人間がわんさか出てきます。逆を言えば、ネガティブな感情は自傷行為の有無や飲んだ錠剤の数でその辛さが推し量られます。死の観念が放蕩しているメディアでは希死念慮や自殺未遂が珍しいものではなくなりました。そんな異常な現代社会で、自己顕示欲はむくむくと隆起していく一方で、自己肯定感を充分に持てる人は少ないのではないでしょうか。

話は変わりますが、マズローの欲求階層説をご存知ですか?心理学をかじると一度は出てきますよね。人間の欲求を5段階に分類し、下位から生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認の欲求、最後に自己実現の欲求。これらは下位の欲求が満たされることで上位の欲求が現れます。自己実現の欲求は、自身が自身の精神を成長させたいというもので他者の評価に依存しません。ここに辿り付ければ人生楽になれると思いませんか?ただし、この段階まで辿り着くまでには「家族に愛されたい」「友達がほしい」など親和性を求める社会的欲求、「尊敬されたい」「認められたい」承認欲求。これらを満たす必要があるのです。

そこで、現代社会を生き抜く上で承認欲求を自己愛で満たすと、いうのはひとつの手だと考えました。なぜなら上述したネット社会において自己肯定感を得ることがとてつもなく難儀であるからです。今、他者に愛されている自覚がありますか?自身の能力が十分に認められていますか?自分の上位互換は勿論、自分と似たような容姿や趣味嗜好の人間もごまんといます。こんな状況下で愛されていることや認められていることの自覚を持つことはできるのでしょうか。高校生の頃の私は孤独が故にすべての欲を自己解決する手段を選んできました。なんだか寂しい生き方、傍から見たら見苦しいかもしれませんが何をしても言われても満たされないで停留している現状を変えたいのであれば多少は理にかなってる気がします。

自己実現の欲求を説明する用語として、我を忘れてなにかに没頭し、人生の真の目標を見つける歓喜の体験のことをフロー体験と言います。この体験を通じることで人間は自己実現が可能になるとマズローは主張します。人は裏切りますし、人は我が身可愛さに自己防衛を行います。結局みんな自分がいちばんです。生きにくいと感じるのであれば、何かしら変わりたいと思っているなら、躓いている段階の欲求が満たされていると自分に言い聞かせるのはどうでしょうか。自分でしてきた努力や頑張りを本当に認められるのは自分自身なのでたくさん認めてあげましょう。愛しましょう。本当にそうであると感覚を麻痺させ、己を洗脳するのです。精神的孤独。成長することで私を、あなたを見つけてくれる人がきっと見つかるから。断定はできないけれど、そうであるといいですよね。こんな世の中だからこそあなたがあなたのことを、私があなたのことを愛せる日が来ますように。

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