短編小説「魔性の女」
「ねえ、ケン。でかけよっか」
彼女はソファーに寝転がりうたた寝していた僕に向かって腰を落とし顔を覗き込むと、無邪気な笑顔で、そう声をかけてきた。
その言葉に、つい嬉しくなって僕は、思わず飛び上がり、ついつい小躍りをしてしまった。
「ふふ、そんなにはしゃがないの。もう子供じゃないんだから」
確かに、それもそうだ。僕もいい年だし、あまり子供っぽいのも恥ずかしい。けれども彼女と出かけるのが嬉しくて嬉しくてたまらない。
僕と彼女は毎日のように決まった時間にでかける。出かけると言っても家の近所を簡単に散歩するだけの簡単なものだ。それでも、僕にとってこの時間がかけがえのないもので。彼女との時間がとっても大好きなんだよ。
はやる気持ちを抑えつつ、さっそく、僕らはいつものように準備を終えると、いつものように街へと繰り出した。
普段どおりの道。月日と共に変わらない道を歩く。ふと彼女の顔を見上げると、目があった。しばらく見つめ合った後、彼女が照れくさそうに微笑む。
「最近ごめんね。忙しくて」
きっと彼女は最近の共に外出する時間が短かったことを謝っているのだろう。彼女が最近、仕事で忙しいことは十分にわかっている。
僕が代わりに働くことができたらよいのだが、僕は特殊な事情で、どうしても働くことができないので、それも叶わなかった。正直なことを言えば、彼女が一緒に住んでくれていなければ僕は生きていくこともできない。だから感謝だけは忘れないようにしている。
僕は感謝の気持ちを込めて彼女に寄り添った。
「…ありがと。わかってくれてるんだね」
当たり前だ。振り返ってみると彼女は僕が子供の頃から側にいてくれるのだから。僕が彼女の気持ちをわからないはずがないじゃないか。
ふと、彼女に抱き寄せられたのがわかった。気持ちを汲んだ僕は、彼女のなすがままにされる。
「でもね、やっと繁忙期が終わって仕事が落ち着いてきたんだー。だから、これからは一緒にいる時間が増えるね!」
そう言いながら僕を撫でる彼女の手は温かく、とても優しかった。
■ ■ ■
僕らは、その後、近所の公園にやってきた。公園といってもおおよそ猫の額ほどしかない町中の小さなもの。
彼女が仕事が忙しくなくて時間があるときに、僕らはいつもこの公園に行って遊ぶ。
いつもの時間には、ほとんど人はおらず、彼女と僕だけの時間。遊ぶ時間としては30分に満たないけれども、それで十分だった。
久しぶりだけど、いつもどおりに過ぎていく時間───に、今日もなるはずだったのに。
彼女が僕に向かって投げたボール。それが僕を飛び越え遠くに行ってしまった。慌てて僕は、それを追いかける。
公園に設置されたトイレの脇。この公園で一番大きな木の側に、その女はいた。
整った顔立ち、スラリと伸びた長い手足、痩せすぎずとも引き締まった体、思わず僕は目を奪われた。けれども、そんなことはどうでもよくて。
その女が醸し出す妖艶な雰囲気。妙にそれが印象的で、なぜか目を離すことができず、ついついボールを取りに来たことも忘れ足が止まっていた。
思わず僕が、その女に向かって声をかけそうになると、背後から
「おーい、ケン?どうしたの?」
と、彼女の声が。
思わずドキリとして、すぐにその場を立ち去った。
僕があの女に見とれていたということは、彼女には角度的に見えなかったようで、ホッとしている。
■ ■ ■
あの女と出会ってから2週間が経った。けれども、僕は一度もあの公園に行くことができていない。
あれから彼女の仕事が、また忙しくなったからだ。詳しいことは、わからない。ただ繁忙期中に彼女の同僚が大きなミスをしたせいで、その後始末に追われているらしいのだ。
彼女との時間が、かなり減ったことあり、完全に僕の心はあのときに偶然出会った女に心が奪われていた。
あの雰囲気は何なんだ。もう一度、あの女に会ってみたい。そんな気持ちが、ずっと胸を支配している。落ち着かない。
彼女は僕との散歩の時間だけは必ず作ってくれる。そのときにたまに、あの公園の横を通る。遠くからだけれど女はいない。僕にはわかる。
あれから一度も会えていないのだ。結局、公園の前をただ通り思いを馳せるだけ。
予め断っておくのだが、僕と彼女は一緒に暮らしているが別に恋人同士にあるわけではない。僕が小さい頃から一緒にいることもあって、母親か姉のような感覚だ。
そうなると別に僕があの女に惹かれるのは問題はない。ただ彼女に養ってもらってるだけあって僕は彼女なしでは、どうしようもできないのだ。外にさえも出られないのだから。
それから、3週間。遂に、そのときはやってきた。
彼女の仕事がようやく片付いたらしく早く帰ってきたのだ。あの女に出会ったときと同じくらいの時間。もしかしたら、もう一度出会えるかもしれない。
そう思うと、ついつい以前以上の小躍りをしてしまう。
「はは、今日は元気ね」
そう僕に向かう屈託のない彼女の笑顔。とても素敵だと思う。けれども僕にはもう届かなかった。
■ ■ ■
いつものように彼女と街を歩いていると、ふいに嗅ぎなれない匂いが鼻をついた。
どんな匂いかと聞かれれば形容するのが難しい。けれども妙に胸がざわめきドキドキする。気がつくと一緒に歩いていた彼女の手を、自分でもこんな力があったのかと驚くほど強い力で引っ張っていた。
「け、ケン…?…どうしたの?」
明らかに彼女が困惑している。でも、そのことを気にしていられないほど僕は我を失っていた。
「…ッ!い、痛いよ、ケン…!」
彼女の声が涙声に変わった。次第に痛みで力が入らなくなってきたのだろう。いつしか僕は彼女を振り解き駆け出した。
「あ、待って!」
彼女の必死の呼びかけも虚しく、僕は匂いに釣られ無我夢中で走った。そしてすぐに、いつもの公園に到着すると、すぐに女と出会った場所まで駆け寄る。
───そこに、女はいた。
あの時と変わらない、整った顔立ち、スラリと伸びた長い手足、痩せすぎずとも引き締まった体。そして醸し出す妖艶な雰囲気。
あの時とは違う、扇情的な匂い。
僕にが気がついたのか、女と目があった。
胸の鼓動が高まる。なんてきれいな瞳なんだろう。うるうると潤んだ瞳が僕をそそらせる。
「ねぇ…そこのあなた…」
ふと、女は僕に呼びかけてきた。透き通るような美声。
「来て…」
もう我慢できなかった。
町中の公園。まだ明るい時間。木陰。こんな時間にこんな場所でなんてという、その倒錯感に僕は支配され、僕は女に襲いかか───
「コラッ!!!!なにやってるんだ!!!」
背後から聞こえる怒号にびっくりした僕は、女に襲いかかれなかった。
振り向くと、そこに立っていたのは壮年の男性。肩を揺らし明らかに怒っている。
「すみませーん!」
そこに僕を追いかけてきた彼女が、この場の異変に気が付き息を切らしながら小走りでここまでやってきた。
「お前さん、この犬の飼い主かい?だめじゃないか、ちゃんと見てなきゃ。うちのナナが襲われるところだったんだから」
かなり激怒している男性に平謝りする彼女を見ながら僕はしっぽを丸めるしかなかった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました! ご支援いただいたお金はエッセイのネタ集めのための費用か、僕自身の生活費に充てさせていただきます。