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【第38回】「人と行く」サウナでととのう。

今回のエッセイは「【第33回】「孤独」のサウナでととのう。」を読んだほうが楽しめると思います。

サウナ→水風呂→外気浴を繰り返す温冷交代浴で得られる恍惚。これはと「ととのう」と表現される。一説によるとこの状態、オーガズムに達する快楽にも近いらしい。サウナ、マジヤバイ。

ただ、前回のエッセイでも少し書いたのだけれども「ととのう」ためのプロセスは人それぞれだ。自分なりのととのい方を探していく楽しみは、もちろんあるのだけれども。

人それぞれということは「ととのう」ために必要なサウナに入る時間も水風呂に浸かる時間も外気浴する時間も人によってぜんぜん違うことになる。

これが何を意味しているか。

1人でサウナに行くほうが「ととのう」という残酷な事実である。

冷静に考えれば当たり前の話だ。誰かと一緒にいれば当然行動も共にする。そうなると自分のペースで交互浴はできない。この時点で「ととのう」ことは非常に難しくなってしまう。

純粋にととのってサウナトランスの境地に達したいのであれば誰かと一緒に行くことはおすすめしない。

サウナ大使タナカカツキ氏の「サ道」でも誰かに話しかけられたりテレビがあって騒がしいサウナは嫌だなと言っていたと思う。もちろん例外はあるけれども。

ただ誰かと一緒に行くサウナは一人で行くサウナと別の魅力があると思っている。別の意味で「ととのう」ことができるのだ。ここでの「ととのう」は普通にサウナを利用するときとは異なる精神的満足感だと捉えてくれればいい。

友達とサウナに行く1番の良さは仲良くなれることにあると僕は思っている。よっぽど険悪な仲ではない限り間違いなく会話が弾むだろう。普段一緒にいるとスマホをいじってしまうときもあるが、風呂場ではそうはいかない。

一対一の個人がそこにあるだけ。互いに歩み寄り向き合うしか無いのだ。そうしないと非常に気まずい時間になってしまうし。

日本には昔から裸の付き合いという言葉がある。互いに本音を言い合えるような関係と言う意味だ。文字通り風呂場で裸になってしまえば開放感から自然と本音が出てくるもののような気がする。

邪魔するものはそこに何もない。

ただ銭湯で湯船に浸かるのもいいけれどもサウナという場所を介せば普通に風呂に入るよりも長く浴場にとどまることができる。水風呂と外気浴でクールダウンすることで、長く入れたとしても20分程度の入浴時間が1時間近くに伸びるわけだ。それだけあれば深く話すことができると思う。

そうなると湯船から上がったときの満足感は、「ととのう」あの満足感にも等しい。

最近では個室サウナや岩盤浴などでは、こういった場所ではつきものの性別の壁を超えてカップルで一緒に入れる場所もあるらしいと聞く。

ぜひこれを読んでいるあなたも仲良くしたい人と銭湯、もしくはサウナに訪れてはいかがだろうか。きっと新しい一面も見えるに違いない。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました! ご支援いただいたお金はエッセイのネタ集めのための費用か、僕自身の生活費に充てさせていただきます。