『自分らしく生きれてない』シンドローム


【世界は救えないけど豚の角煮は作れる】読了しました。
にゃんたこさんの本です。

2年ぐらい前に、『独身OLの孤独な10秒チャージ飯』というあまりにも気を引きすぎるタイトルと ‘それは傲慢だ’ と書かれたサムネに誘われ動画を開き、
あまりに雑…大胆な調理方法と映し出される文章から溢れる才能に感激し、即登録ボタンを押した。
大学一年の後期、講義室のど真ん中でぼっち飯をキメていた私にとってそれまでにUPされた動画を全て遡ることなど容易かった。
(ほんとのこと言うと前期の成績が割と良く、なんだ大学チョロいやんと自惚れていたため授業中も見てた、ごめんね教授)
(ちなみに自惚れの結果10単位ほど砕け散った)
憧れたし羨ましくも思った。誰にでも手に出来るありふれたもので、十分に人生を満喫しているように思った。
動画の中で晒されていたネガティブな考えも、三角コーナーにinしたハンバーグを焼いて食べる精神があればきっと一人で解決していけるんだろうと思った。

だから本書で、容姿や恋愛、広く人生に対して迷い戸惑う赤裸々な気持ちが綴られていたのを読み、私はほんの一面しか彼女を知らなかったんだと知った。
そんなの、画面の中でしか見たことのない人なんだから当たり前なんだけど、いつの間にか全てを知った気になってしまっていた。
‘それは傲慢だ’というあのサムネをもう一度自分の頭に叩きつけた。


ということで、感想を少しだけ書かせていただきます。
なんだか皮肉になってしまいますが、
第3章“理由なんてない”に痛く共感しました。
なぜ皮肉になるのかというと、にゃんたこさんは他人から共感されることに対して
「ぬるま湯につかっている気分になる」
と表現しているからです。
いやぁ本当に、めちゃくちゃ分かる。
けど私のこの分かる気持ちがまた、にゃんたこさんのお風呂の温度を1℃、2℃と下げていくのかと思うとなかなか言葉にするのが難しい…

(あ、お風呂入らないからいっか)

ただまあ私も共感されるのがものすごく苦手で、というか怖くて。
アイドルやバンドを好きになってもライブには絶対行かないし、それ専用のSNSアカウントとかは持ちたくないような、そういう人間として片隅で生きています。
なんだか、怖いんです。
見ず知らずの人が、たった一つ趣味が同じというだけで、まるで昔からの友人かのように接してくることが。
それに、私がそれを好きでいる理由と、誰かがそれを好きでいる理由は絶対に違うし同じである訳がないのに、
“同志”や“仲間”として扱われると、鳥肌が立ち身震いが止まらなくなります。
もはやアレルギーです。

「ひとりぼっちで完結していた世界が、誰かの共感を得てひとりぼっちの世界ではなくなってしまった」

本当に本当に、本当にそう…。
ちなみに私にのとってのにゃんたこさんもまた、私の中で完結する世界の住人です。
にゃんたこのこの前の動画さー!とか、意地でも話し合いたくない。一人で浸りたいと思います。


発売日に手元に届かなかった私は事前にたくさんのレビューを読みました。
「心に刺さった」「共感した」等がほとんど。実際私もめちゃくちゃ響いたし、目の前にある課題を放り投げてあっという間に二周しました。めちゃくちゃ好き。けど、どうせなら、ちょっとぐらい捻くれたことでも書いてみようかなと思います。

『自分らしく生きれてない』シンドローム

第1章の大きなテーマは、‘自分らしく生きる’ということじゃないかと思います。
最近どんなタレントさんやアーティストさんのエッセイにも載っているこの言葉、一体何なんだろうと思います。
‘自分らしく’ というのが何だか分からない。
だから周りに合わせて、鬼滅の刃を読み、バレンシアガのスニーカーを履き、スタバの新作に並び、セーラーヴィーナスに憧れる。
だけどそうじゃなくていいんだよ、とたくさんの大人が言います。いや、最近は沖縄の小学生も室内で麦わら帽子を被りながら叫びます。
それは未だに、‘自分らしく’生きれていない人が多いから。‘自分らしく’生きれず、大通りから一本入った街灯のない路地で泣いている人が多いから。
じゃあ、どうやったらそう生きれるんだろう。

高校生の時通っていた予備校で、講師がこう話していました。
「アフター5とビフォー5で違うことをしている人が世界の大半です。だけど私の場合はどうしてもそれが出来なかった。だからアフター5もビフォー5も自分の好きなことに力を注ぐことにしたんです。」
一日の中で、17:00という境界線をつくるか否か。
エッセイ本の指す‘自分らしく生きる’は、
きっとここに境界線をつくらないということなんでしょう。鬼滅に興味がないなら読まなくていいし、履きたくないバレンシアガは買わなければいい。
じゃあ、境界線をつくる人々はみんな‘自分らしく’生きれていないのか。

そこに関しては微妙だと思うんです。
境界線によって遮断されたアフター5が、意外と‘自分らしく’あったりします。
ゲーム、映画、ジム、料理、睡眠、etc
ビフォー5でいくらスタバの新作に並ぶキラキラインスタグラマーであろうと、自分の城に籠ってしまえば最強になる人もいたりします。
でもそれ、外からは見えない。
周りに流されているだの何だの、言われたりして困惑したり。
あれ?私のこれって、‘自分らしさ’じゃないのかな…なんて心配になって。

そうやって『自分らしく生きれてない』シンドロームになってしまう。

だから思うのは、‘自分らしく生きる’じゃなく、‘アフター5を最強に生きる’だと思うんです。
流行りのものや人気のものにも安易に向き合ってみればいいと思います。
その代わり、自分の城だけは守りきる。
いや、それって‘自分らしく’と同じことじゃね?と言われたら、正直上手く反論する自信はありません…
ただ、今の今まで‘自分らしさ’を閉じ込めていた人が、いきなり一日中‘自分らしさ’全開で生きるのってかなり難しいことだと思うから、まずは自分の城の塀を積み上げる作業から入れればいいんじゃないかなって思います。
もしかしたら、そのアフター5がいずれ境界線を無くしていくかもしれませんし、それは自分次第です。


長々書きましたが、ぶっちゃけ本書に対しての不満じゃなく、最近どのエッセイ読んでも書かれるその言葉に似たものを感じたから書かせていただいたまでです。
(だし、にゃんたこさんたぶん一回も‘自分らしく’とか書いてない気がする)


ということで…
オモロかった!待った甲斐あった!

課題やらなきゃ!!!!!!!

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