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愛すべき友よ、安らかに眠れ。。。②

 告別式開始の40分も前に到着してしまいそうになった。あまりにも早すぎると思い、近隣の空き地で空を眺めて時間を潰した。秋の空は高く、晴れ渡り、どこまでも透き通って見えた。

 5分前になり会場の前に到着すると、葬儀関係者の方が中に案内してくれた。すると、娘さんのYちゃんが駆け寄ってきてくれた。目に涙を一杯浮かべて「来てくださって、ありがとうございます。母も喜んでいます。」と。私は込み上げてくる感情を抑えることができなくなり、涙をこらえることもできなくなった。ただただ、Yちゃんの手を取り、連絡をくれてありがとうという感謝を伝え、席についた。

 ご焼香をして、初七日の法要まで終えるのは、あっという間だった。ふと見渡すと、親族以外は私しかいなかった。後々聞いた話によると、昨夜友人が何名か来てくれたとのこと。会社関係者は、コロナのこともあり参列が禁止されているとのことで弔電のみとなったそうだ。死因はコロナと関係ない。最後の別れをしたいのに、会社で禁止されていて来れないという状況。言葉にならない、やるせない気持ちになる。

 棺の中に、花を入れていく。私は親族ではないので、友人の足元のずっと下の方で待機していた。すると、旦那さんの弟さん(1)が私の背を押して前へと行かせてくださった。次いで、友人が大好物だったビール、焼酎、コーヒーを入れた。「すぐ飲めるように、顔の近くにしてやろうよ。」と、弟さん(2)が言った。皆、笑った。「K姉さんは、オモロイことが大好きな人だったから、笑いながら見送ってやった方がええんちゃう?」と、誰かが言った。「そうやな!」「うん、そうしよう!」親戚一同が、同じ気持ちになった。棺の中に思い入れのあるもの等が入れられていく。「コンタクトいれてやらんと、おとんのこと見つけ出せないから。」と笑いながらYちゃんが入れた。お気に入りのラスカルのぬいぐるみも、足元に入れられた。入れる度に、皆が面白いことを言って、皆で笑った。涙を流しながら、泣きながら笑った。

 出棺の時、私は一足先に会場の外へ出て、友人の納められた棺が運び出されるのを待った。親戚の男性陣が棺を抱えながら、出てきた。「ヤバいて。ヤバいて、K姉さん。重すぎるって。」と、旦那さんの弟さん(1)が爆笑しながら叫ぶと、棺を支える全員が「ホンマにあかんて。シャレにならん重さやで。」と爆笑する。それを聴いていたSくんとYちゃんが笑いながら、「言わんといて。頑張って痩せてたんだから、そこは言わんといてあげて。」と応じた。そのやり取りを見ていたら、棺の傍らで「自分ら、人をおもちゃにして笑うな!」と怒りながら笑っている友人の姿が見えたような気がした。外は、ぽかぽか暖かかった。

 霊柩車(と言っても、ごく一般的なワンボックスカー)に棺が納められたのを見届け、私はYちゃんにお別れの挨拶をした。すると、Yちゃんが私の手を取り「一緒に来てください。」と言うではないか。「いやいや、ここから先は親族で見送る場だから、私は遠慮させてもらうよ。」と伝えると、「母も、来てもらえたら喜ぶと思うんです。母がこの場に居たら、きっとこうすると思うんです。だから、来てください。」と言い、「ねぇ、いいよね?」と旦那さんの弟さん(1)に同意を求めると、彼はすかさず「もちろん!」と答えながら右手の親指を上に向けた。

 旦那さんの弟さん(2)の車に乗せて頂き、一緒に火葬場へ向かった。そう言えば、この車に乗るのは2回目だなぁ・・・と思った。3年前に旦那さんが亡くなった時、お通夜の帰り道を送っていただいたのだった。まさか、こんな形でまた同乗させていただくことになるとは。複雑な思いで乗っていたが、そんな気持ちはあっという間に消え去った。弟さん(2)もその奥さんもYちゃんも、友人の面白エピソードを語りに語って、笑いが絶えない車内となったからだった。聴くに徹していた私に気遣いながらYちゃんは、色々と説明を加えながら話してくれた。そうこうするうちに、火葬場へと到着した。

 田舎暮らしで、田舎の火葬場にしか行ったことがなかった私は、大阪の火葬場の雰囲気に圧倒された。一気に30機も稼働できるようになっており、ずらっと並ぶ深緑色の扉は、色々な人生があることを物語っているかのようにそれぞれに名前が掲げられて稼働していた。翌日が友引と言うこともあるらしく、次から次に引っ切り無しに棺が運び込まれ、続々とその扉の向こうへと吸い込まれていった。2時間半後に集合するように葬儀関係者の方に言われ、私はそのまま親戚に交じって昼食を取った。

 友人の義父母も、ご兄弟も、もちろんSくんもYちゃんも、皆気丈に振舞っていたし、私への気配りもしてくださっていたので、私が悲しい顔をしているのはオカシイなと思った。だから、時々無性に込み上げてくる悲しさとか喪失感とか、そういったものには気付かないようにして過ごしていた。遺品整理の話になった時、それぞれが形見分けでほしいものについて話していた。私は親戚ではない。けれど、旦那さんも友人も、私にとって掛け替えのない友であったことには間違いはなく、置かれた状況や抱える感情に違いはあれど、大切な人を傍に感じていたと思うのは同じだと思った。だから、勇気を振り絞ってYちゃんに尋ねてみた。

 「私も、形見分けをお願いできますか?」

 Yちゃんは、一瞬の間もおかず「もちろんです。母も喜びます!」と回答してくれた。何が欲しいか聞かれたが、何があるのかもわからなかった。皆さんで形見分けした残りで、捨てるものがあればそこから1つ頂きたいと話した。了承してもらえたところで、収骨へと向かった。

 扉が開き、中から棺の乗せられていた台が出された。若くして亡くなった方の遺骨を何度か見てきたが、毎回思うことがある。太くて立派な骨は、たくましく生きていた証であり、ここに確かに存在していたのだという、故人の最期の訴えのようにも感じられるのだった。

 友人の義母が、私にも箸を渡してくださった。「拾ってやって。」の言葉に、ただただお辞儀で返すのが精いっぱいだった。もう、この世に、友人の肉体はない。骨壺の中に、あらゆるパーツの骨を納めていく。「酒が持てへんやんか!って怒られるから、手の指は多く入れてやろうや。」という弟さん(1)の言葉に、皆が笑いながら骨を拾っていく。喉仏の骨と言われる頸椎の骨は、しっかりと合掌した姿で残っていた。友人が生きてきた証。

 その後、皆さんにお礼を伝え、友人の妹さんの車でホテルまで送っていただいた。道中、友人について話をした。けれど、何について話したのかは思い出せない。ただ、一緒に見送ることができたことへの感謝と、適当な言葉であるのか分からないが達成感にも似た感情だけが残っていた。

 忘れられないシーンがあった。棺に蓋をする直前、故人へのお別れの言葉を代表者が行う。それを託されたのが、息子のSくんと娘のYちゃんだった。「こっちのことは、心配いらないよ。」「おとんと、仲良くね。」涙ながらに語った直後だった。棺の蓋が運ばれてくる時、足早に駆け寄ってくる人がいた。義父だった。大粒の涙を流しながら、友人の顔や頭を撫でつつ、一生懸命に声にならない声で「ゆっくり休め・・・」等の言葉を伝えていた。娘として接してきたという気持ちに、偽りは無かった。最期の別れのシーンだった。

 「とんだ夫婦と友達になったもんやねぇ。」と、弟さん(1)が笑って言った。皆が爆笑していた。爆笑したかったが、苦笑いで応じた。「わしらは、一体誰の世話になったらええねん。」と、義父が言った。皆が笑った。

 涙と笑顔の絶えない、葬儀だった。

 ※友人を送り出すための、自分の気持ちに整理をつけるための儀式については「愛すべき友よ、安らかに眠れ。。。③」へ。

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