『国道3号線 抵抗の民衆史』森 元斎
九州は日本の急速な近代化をまともに被った地であるがゆえに、民衆による抵抗の蓄積も豊饒であると著者は見立てる。たとえば筑豊の炭鉱では労働問題が、水俣病では環境問題が「問題」として露呈した。本書では国道3号線を北上し、その軌跡をたどる。西南戦争から山鹿コミューン(第一章)、水俣病(第二章)、筑豊炭鉱とサークル村(第三章)、北九州の米騒動(第四章)というように。
抵抗の根拠地としての「村」をどう捉えるか。第三章では谷川雁と石牟礼道子の「村」の差異に注目する。サークル村のリーダーとしての谷川にとって「村」は、形而上的抽象であるが、あくまで実現可能で潜在的な世界であった。一方、水俣病被害者たちに対し「悶え加勢し」つつ、有害物質で海が汚染される前の不知火海の自然を理想的に描く石牟礼にとってのそれは、ありえたかもしれないオルタナティブで可能的な世界だが、それは言葉を換えれば決して実現しないということでもある。
ここで著者はどちらにも「加勢」しない。その曖昧さは、自らのアリバイを理論化する終章を読むことで腑に落ちる。「未来とは、過去と現在がなければ潜在的ではないのだ」(226ページ)。この宣言において、「なぜ九州なのか」とする、抵抗の民衆史の匂いを嗅ぎつけた初発の問いは、「なぜ過去を掘り起こすことが運動(実践)とつながるのか」という問いに変化するだろう。
個人的にいえば、谷川が鹿児島、沖縄、朝鮮などの関係性を父と子に見立てる「父性」的な眼差しには首肯しえない。石牟礼文学を読み解くキー概念としても本書で丁寧に論じられる「抱握」は、抽象的に理解する以外の余力が自分にはないが、その姿勢はこの言葉の理解から最も遠い位置にあることはいうまでもない。
それよりもむしろグサリと刺されるのが、緒方正人の「チッソは私であった」という有名な言葉へのクリティークである。ここで不知火海の漁師であった緒方が措定する主語は、企業の「チッソ」であると共に、毒を拡散させ、責任を問うてもそれから逃れるそれである。緒方の体内にもチッソは入り込んでいるし、責任逃れをする姿勢もまた、緒方の理念に入り込んでいるとする厳しい倫理。
しかし、彼はそこから歩み進める。自らチッソであることを確認したことで、チッソではない、主体=主語を見いだすのである。それが「私」である。
(238ページ)
ここでは緒方が「自然と人との関係をより具体的な水準で見定める」漁師であるからこそ、その主体を獲得できたと読める。自然との一体感をはじめから失っている私(たち)はどうしたらよいかと早くも怖気づいてしまうが、必ずしもそうではないだろう。本書を読んだ以上、あるいは緒方の言葉に触れた以上、私たちはそれぞれの現場で言葉を発することができる。いや、要請される。「沖縄は私であった」というように。
その意味でも、第三章で谷川との比較で参照される詩人・黒田喜夫の「村」が興味深い。谷川が九州に「農村世界」を見出したのに対し、黒田はたまさか居住した京浜工業地帯にコミューンを見出した。谷川が「村」に帰っていこうとするのに対し、黒田は出てゆこうとしている。本書版元の共和国代表の下平尾直が沖縄の同人誌『脈 102号』に寄稿した論考『運河沿いの「影」たち』には、詩人が蒲田/糀谷での経験から、沖縄を含む未知の「南」を経験するポリフォニックな幻視が書かれている。
『国道3号線 抵抗の民衆史』
著者:森 元斎
発行:共和国
発行年月:2020年8月10日
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