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3.Sweet Williamと青葉市子「あまねき」/オーディオ・アニミズム

このマガジン「音のかたちを見る」は、既存曲を視覚的に捉える試みの記録です。

オーディオ・アニミズム

2018年の展覧会「音のアーキテクチャ:Audio Architecture」展の企画は、
コーネリアスの音楽をショーン・オノ・レノンが評した言葉 “He paints a kind of audio architecture”(彼は音楽の構造物を描いている)が契機になったとのこと。(展示ディレクター中村勇吾氏のコメントより)

このAudio 〜という言葉はなかなか便利で、任意の単語の頭にAudioをつければ、色々な音楽を形容できる。「Sweet Williamと青葉市子」による「あまねき」の場合は「Audio Animism」といえそうだ。

まず歌を聞くと歌詞は、朝日/鱗粉/雨露/プリズム/土など「あまねき=偏在する自然現象」の世界になっている。ポピュラー音楽のほとんどが人間について歌っているが、この歌は明らかにそうではない(実は冒頭に挙げたCorneliusの歌もそうかもしれない。Sensuous期など)

Sweet Williamによるトラックには、多種多様な音が短く散りばめられており、前述のコーネリアスを思わせるところがある。しかしコーネリアスよりさらに素材感が豊かで、ひとつひとつが風や光や泡や埃のようだ。短い音が空間の中に偏在している様子が有機物、無機物を問わず神とみなすアニミズムの世界を表現している。

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そういうトラックの作り方なので、聴く側はバラバラな音の感触をひとつずつ味わう姿勢になり、青葉市子の歌もそんな視点で細かく聞いてしまう。「ナ行」が甘く「サ行」はささやかで、「カ行」は乾いて折れそうだ。などと五十音が触覚的に聞こえてくる。歌もトラックも豊富な音色のバリエーションを持っていることが「八百(ヤオロズ)」感につながるのではないか。

日本語が聞こえるのにグルーヴがあること、の仮説


別の視点からこの曲を聞くと、非常に良いグルーヴ感を持っていると感じる。日本語の響きを丁寧に扱いつつ、グルーヴも優れている例はとても少ないので、なぜそんなことが出来ているのか分析したくなる。

ふつう、日本語がよく聞き取れる音楽ほど、母音が主体となってリズムがべったりとする。逆にリズムを重視し、洋楽的な節回しに乗せると今度は日本語本来のイントネーションが損なわれ、どこか気恥ずかしさが生まれる。このせめぎあいが起こったのは70年代の「はっぴいえんど」からか、もっと前からかわからないが、日本語ポップスにはずっとその格闘があるのではと思う。

しかしこの曲はなぜか、日本語の響きと踊れるグルーヴ感が両立しているように感じる。

1拍目のアタマから「ね」を置いて、その後も4拍子の四分音符周りに言葉が乗っているので、非常に言葉が聞き取りやすい。

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たとえば細野晴臣「悲しみのラッキースター」であれば歌い出し「もしーかしーて」の二つ目の「ー」にあたる部分がアタマになっている。ようするに1拍目は外している。弱起のほうが洋楽感がでてリズムに乗りやすいのだろう。


「あまねき」はド頭からはじまる上、音の当て方は童謡「チューリップ」の
「さ・い・た・○・さ・い・た」とあまり変わらないのだから「べったり」になってもおかしくないのに、なぜグルーヴして感じるのかが不思議だ。

今のところ「遅いBPMと短い音のせい」と思っている。それが豊富な間を生んでいて、そこを埋める音の置き方、たとえば長めに放ったり、スキっと切ったり、少し溜めたり、ということで間を制御してグルーヴを生んでいるのではないか。

ここまで書いたらD’angelo 「Voodoo」収録のOne Mo’ Ginという曲を思い出した。サビの部分、日本語が乗りそうだと昔思ったことがあった。もしかしたら方法論が近いのかもしれない。



以下はシリーズの前作です。


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