残された貴方へ遺すもの

授業の課題だったもの。
自分が死んだときに、大切な人の何かになれるとしたら?というテーマ。

 
 遠ざかる天井。そして短い浮遊感のあと、私は強く頭を打ち付けた。痛い。

 雨で濡れている階段を、登りきるまであと一段というところで踏み外した私は、仰向けに落下した。周囲の人の悲鳴を聞きながら、あ、これ死ぬな、と感じた。

 大好きなあの人が真っ青な顔で駆け寄ってくる。薄れゆく意識のなかで、最後に見るのがこの人でよかった、なんて馬鹿なことを思っていた。

 

 気がつくと私は真っ暗な空間にいた。

 電気がついていないとかいった暗さではない、まっ暗闇。そこに私は浮かんでいた。

 さらに、天井も床も壁もないだだっ広い空間らしい、ということが感覚でわかった。

 どうやら私は死んだらしい。

 無重力空間のようなここを、あてもなく浮遊する。不思議なもので、自由に動き回ることができる。

 私はこの場所に、心当たりがあった。

 あの人のスマホの中だ。

 何かの授業で聞いた「自分が突然死んだとき、大切な人の何になりたいか」と話していたことが原因だろう。

 あの人は私のぬいぐるみになりたいって言ってたっけ。そして私は、あなたのスマホになりたいと答えた……。

 死んだら天国とか地獄に行くものじゃないの?

 未練があってお化けになって出るって話は聞いたことがあるけど、まさかスマホになるとはね。人生わかんないもんだわ。って、死んでるんだけど。

 うーん、未練か。私、思い残したことなんかあったかな。スマホのメモ帳の中にある深夜に書いた自作ポエムを消したいとか、日記帳を燃やしたいとか、そういうのは沢山あるけど、いくらなんでもそれで化けて出るほどではない、と思いたい。

 だとすると思い浮かぶのは、アレかなぁ。私が、やり残したこと。

 きっとこれは、天がちょっぴりだけ許してくれた偶然の運命、とかいうやつなのだ。

 でも、それも長くはない気がする。具体的にはあと3日くらい。そんな感覚がした。

 それにしても今は私が死んでからどれくらいの時が経っいるのだろう。恐らくスマホの充電が切れているのだろう、私は外界の情報はおろか、スマホの中にいるというのに時間さえ知ることができなかった。

 まぁそのうちなんとかなるでしょ、と思っていた矢先、パッと当たりが明るくなった。

 突然の眩しさに目が慣れない。しばらくして目に飛び込んできたのは、あの時と同じようにこちらを覗きこむ彼の顔だった。

 真っ赤に腫れた目の下にはくっきりと深い隈ができている。スマホ越しに見る彼は、見るからにやつれていた。

 こんなに憔悴しきっているとは、少し予想外だった。それだけ私の死を悲しんでくれている、ということに喜べばいいのか悲しめばいいのか、私にはわからなかった。

 スマホの電源が入ったことで、時間がわかった。どうやら、私が死んでから3日ほど経っているみたいだ。

 もしかしてその間、ずっと泣いていたのだろうか。私の、ために……。

 私は、もしかしたら彼にいまの姿が見えるかもしれない、あわよくば話したりできやしないか、などと考えていたが、見えていないようだ。ホーム画面にふよふよと浮いてみたが全くの無視だ。そういえばこの人、霊感とかまったくない人だった。

 しばらくすると彼はアルバムアプリを開き、私の写真を眺め始めた。1枚また1枚と写真を見ては、涙をこぼした。

 私はこんなに近くにいるのに、その涙を拭うことすらできなかった。大切な日とが自分のせいで泣いているというのに。


 それから3日間、私はスマホとして彼と行動を共にした。大学には行っていないようだった。それもそうだ、目の前で恋人が血を流して死んだのに、切り替えて日常生活に戻れるような器用な人ではなかったから。

 彼はたまったメッセージを返信したり、SNSを眺めたりしていた。それでも私との思い出を見つけては、ギュッとスマホを握りしめて、何度も何度も涙を流した。

 私に残された時間はあともう少しだ。

 それまでに、やらなければ。

 彼は寝たらしい。スゥスゥと寝息が聞こえる。やるなら今だ。


 私の未練。それは彼に私を忘れてもらうこと。階段から滑り落ちて死ぬような間抜けな女より、彼にはいい人がきっといる。だから私のことは忘れて、前を向いてもらわなければ。

 死者が生者を縛ってはいけない。

 私だって寂しくないわけではない。この3日間、私もスマホの隅っこで何度泣いたことか。でもお陰で決心がついた。

 彼は優しすぎる。から、私がやらなければいけない。

 手始めに私のSNSのアカウントにアクセスして、削除した。彼のアカウントに投稿されている私関連のものも削除した。

 次にメッセージアプリの私との会話の履歴を削除した。

 自分で思い出を消していく作業はかなり、こたえた。

 他にも私の足跡を徹底的に消していった。

 最後に残ったのは、アルバムアプリだ。

 一括で消去することもできたが、なんとなく1枚ずつ消していくことにした。

 これは出会った頃の写真だ。二人とも今と全然違うなぁ。消去。これははじめてのデートで水族館に行ったときの写真だ。魚を美味しそうって言って起こられたっけ。消去。これは私の寝顔?! いつの間に撮られていたんだ。消去。これはディズニーランドに行ったときの写真。消去。これはラーメンを食べに行ったとき。消去。消去、消去消去消去消去消去消去…………。

 全ての写真を消し終わった頃には、涙で前が見えなかった。

 私だってもっと生きたかった。あなたとの未来があるって信じて疑わなかった。あぁ、起きたことは戻らない。死んだら生き返れない。そんなことがこんなにも悲しい。 

 人間はいつかは死ぬ。簡単なことだ。小学生でも知っている。

 でもその「いつか」は、今日だったり明日だったりする。私はたまたまあの日だっただけのこと。


 もうすぐ時間切れみたいだ。意識が薄れていく。最後にメッセージでも残そうかと思って、メモ帳アプリを開いた。

 そこに短い言葉を打ち込んでいく。

『今までありがとう。ごめんね。大好きだったよ。これからは前を向いて』

 ……ここまで書いて、すぐに消した。

 私だったら書いた覚えのないこんな文章がスマホにあったら怖い。それに、立つ鳥跡を濁さず、だ。少しも私に関連するものを残したくない。

 目覚まし時計が鳴っている。それを止めるために、彼が覗きこんで来る。最後に見る顔が、またあなたでよかった。そんなことを思いながら、私の意識は消えていった。


 願わくば、あなたがこれからも幸せでありますように。あの世というものがあるなら、おじいちゃんになったあなたと会うことを楽しみにしているね。